ミルクとピッパ
ベルタの話を、私は、まずジークハルトに伝えることにした。
姑には、伝えにくかった。旧友を信じている人に、その友の侍女が市場で娘のことを嗅ぎ回っていたと告げれば、どんな顔をされるか。私は、すでに知っていた。
夫の書斎で、それを話すと、ジークハルトは、手を止めた。
「ドレーゼン伯爵夫人の、侍女が」
「はい。私に直接聞かれたわけではありません。ですが、娘の好みや、隠れ癖まで」
「お前は、夫人を疑っているのか」
「疑っているのではありません。知りたいのです。なぜ、そこまで」
夫は、しばらく黙っていた。
「夫人は、王妃陛下の信頼が厚い。陛下に、候補者の人となりを伝えるのは、取り仕切りの役目の内だ」
「それなら、なぜ、私に直接、お尋ねにならないのでしょう」
「……」
夫の灰色の瞳が、書類の上を、一度さまよった。
「オスカーに、それとなく調べさせる。ただし、夫人に失礼があってはならない。確かめるまでは、母上には、言うな」
「はい」
夫が、私の言葉を、頭から退けなかったことに、少しだけ驚いた。
◇
二日目の午後、仕立屋が、三枚の絹の見本を持ってきた。
応接間の卓の上に、薄い紫、赤みのある紫、そして、藍に近い、深い紫が並べられた。仕立屋は、「王妃陛下のお気に入りは、赤みのある紫でございます」と、先に説明した。
マルガレーテが、腕を組んで見ている。ヴィオレッタは、三つの布を、順番に見つめた。
「触ってもいいですか」
「ええ」
娘は、指先で、一枚ずつ布をなぞった。赤みのある紫に触れたとき、少し眉が動いた。薄い紫は、すぐに離した。最後に、藍に近い紫を、手のひらに載せて、長いあいだ、動かなかった。
「これが、いいです」
「ヴィオレッタ」
マルガレーテの声が、わずかに低くなった。
「それは、陛下のお好みではありません」
「はい。存じています」
娘は、布を握ったまま、顔を上げた。
「でも、わたくしの帳面の、藍色に近いのです。この色を着たら、ヒワの絵を描く手が、少しだけ、強くなる気がして」
姑は、孫を見つめた。長い、長い沈黙。
仕立屋が、おずおずと口を挟んだ。
「大奥様。藍に近い紫は、黒髪のお嬢様には、よくお映えになります。陛下のお好みの色と、決して、ぶつかりはいたしません」
それは、仕立屋の助け舟だったのかもしれない。姑は、ふんと鼻を鳴らした。
「……仕方ありません。ただし、襟には、陛下のお好みの色を、細く入れること。仕立ては、四日目に間に合わせなさい。金に糸目はつけません」
「二日で、でございますか」と仕立屋が青ざめたが、姑は、取り合わなかった。
「はい、お祖母さま」
娘の声が、跳ねた。
「それなら、ヒワの羽根の、黄色を、入れてもいいですか」
「黄色は、紫の補色です。品を損ねます」
「でも」
「……細く、なら、よろしい」
姑の唇の端が、わずかに持ち上がったのを、私は見逃さなかった。
◇
三日目の夜、ヴィオレッタは、なかなか寝つけなかった。
私は、娘の寝台の端に腰かけて、背中を、とん、とん、と軽く叩いた。ミミを抱いたレオンが、廊下の向こうで寝息を立てているのが、かすかに聞こえる。
「お母さま」
「なあに」
「明日、行かないと言ったら、どうなりますか」
「行かない、というのは、王宮に?」
「はい。お返事をする前に、行かなくても、いいのでしょうか」
「ええ。それも、あなたが選んでいいことよ。でも、会ってから決めたいと言ったのは、あなたでしょう」
娘は、しばらく黙ってから、小さく笑った。
「……そうでした。自分で言ったことを、忘れていました」
そう言って、毛布を引き上げ、目を閉じた。数えきれないほどの小さな不安を、一つずつ、胸の中でほどいているような顔だった。
◇
四日目の昼、私は、王宮の庭の入口で、馬車を降りた。
ヴィオレッタは、藍に近い紫のドレスの裾を、少しつまんで、庭の奥へ歩いていった。後ろ姿が、小さくなる。昨日までの、泣きそうな背中ではなかった。
私は、門の脇の石のベンチに、座った。母親は、ここまで。
「お待ちしておりましたわ、クラリッサ様」
背後から、柔らかい声がした。薄紫のドレスに、扇。ドレーゼン夫人が、ゆっくりと近づいてくる。
「お嬢様は、お元気そうですわね」
「おかげさまで」
私は、立ち上がった。ここで、聞かなければならない。
「ドレーゼン夫人。一つ、お尋ねしても」
「どうぞ」
「先日、市場で、夫人のお屋敷の侍女が、うちの侍女に、娘のことを尋ねたそうです」
夫人は、扇を、ほんの少し止めた。それから、静かに、笑った。
「あら。もう、お耳に入りましたの。失礼いたしました」
悪びれた様子は、少しもなかった。
「陛下に、お嬢様の人となりを、少しでも、お伝えしたかったのです。母君に直接伺うのは、かえって、失礼かと思いまして」
「それなら、私に、おっしゃってください。次からは」
「ええ。もちろん」
夫人は、あっさり頷いた。その呼吸が、あまりにも滑らかで、私は、かえって言葉を失った。
「ところで」
扇が、ぱたりと閉じられた。
「お嬢様は、お断りになるおつもり、でしょうか」
息が、止まった。
「……どなたから」
「大奥様に、少しだけ。心配していらっしゃいましたわ。お嬢様が、返事を、四日目まで待ってほしいと」
姑だ。
姑は、旧友に、相談したのだ。無理もない。あの人は、本当に、この家を案じている。けれど、ドレーゼン夫人が、娘の返事の期限を、すでに知っているという事実は、重かった。
「お断りになるなら、陛下は、きっと、ご理由を、お聞きになりたいでしょうね」
夫人の声は、どこまでも柔らかかった。
「その理由が、わたくしの耳に入れば、陛下へ、うまくお伝えできますのに」
「……娘自身が、決めることです」
「ええ。もちろん」
夫人は、また、同じ笑みを返した。
夫人が去ったあとも、石のベンチに座り直す気には、なれなかった。
門の脇の植え込みで、小鳥が鳴いている。ヒワではない、もっと太い声の鳥だった。私は、手袋の指先を、強く握った。
姑を、責める気には、なれなかった。あの人は、孫の将来を案じて、旧友に打ち明けただけだ。けれど、打ち明けた先で、娘の事情は、少しずつ、少しずつ、他人の掌に集められている。
それが、善意なのか、そうでないのか。今の私には、まだ、見分けがつかない。
見分けがつかないことが、いちばん、恐ろしかった。
◇
小鳥小屋から戻ってきた娘の顔は、赤く上気していた。
隣には、アルフォンスがいた。庭の入口まで、見送りに出てきたのだ。王太子は、私に気づいて、ぎこちなく帽子を取った。
「公爵夫人。お嬢様を、お預かりしました。ありがとうございました」
「お世話になりました、殿下」
「ヴィオレッタ嬢は、ヒワの羽根の絵を、描いてくださいました。僕の小屋に、飾ります」
娘が、慌てたように、彼の袖を引いた。
「殿下。そこまで、言わなくても」
「でも、本当に上手でした」
二人の様子を見て、私は、ふっと息を吐いた。九つと八つ。まだ、何も決まっていない。けれど、ここには、確かに、友人に近い何かが、あった。
馬車に乗り込むと、娘は、しばらく窓の外を見ていた。それから、ぽつりと言った。
「名前を、つけました」
「ヒワの?」
「はい。小さいほうは、わたくしが。『ピッパ』と。大きいほうは、殿下が。『ミルク』と」
私は、思わず吹き出した。
「ミルク?」
「はい。殿下は、とても、真面目なお顔でおっしゃいました。わたくしも、笑わないように、がんばりました」
娘は、そこで、一度、言葉を切った。
「お母さま」
「なあに」
「今夜、お父さまに、お返事を、申し上げます」
声が、かすかに震えていた。膝の上で組んだ手が、ぎゅっと白くなっている。
「……お母さまは、そばに、いてもいいかしら」
「お部屋の、扉の外で、待っていてください」
「ええ。そうするわ」
娘は、小さく唇を動かしていた。声には出さず、同じ言葉を、何度も繰り返している。練習しているのだ。父の前で、自分の口で言う、その言葉を。
内容は、あえて、尋ねなかった。それは、あの子が、夜までに、自分で持つべきものだった。
娘は、窓の外の、傾き始めた光を、見つめていた。




