通じる言葉に
夕食のあと、ヴィオレッタは一人で、書斎の扉の前に立った。
私は、廊下の壁際に寄って、娘の背中を見ていた。藍に近い紫のドレスは、まだ、昼の庭の匂いを残している。襟に細く入れた黄色が、廊下の灯りに、小さく光った。小さな手が、扉の取っ手の前で、一度止まった。
娘は、振り返らなかった。ただ、深く、息を吸った。
そして、扉を叩いた。
「入れ」
低い声に、娘は、扉を開けた。私は、閉まりきる前に、わずかな隙間を残した。聞くつもりはなかった。けれど、立ち去ることもできなかった。
書斎の机の向こうで、ジークハルトは、ペンを置いて待っていた。
「聞こう」
夫の目が、娘の襟もとの黄色に、一瞬だけ止まった。何かを言いかけて、やめたのがわかった。
「はい、お父さま」
娘の声は、震えていた。けれど、言葉の途中で、止まらなかった。
「王太子殿下の、婚約者候補のお話を、お受けしたいと思います」
扉の外で、私は、息をのんだ。
覚悟は、していた。していたつもりだった。けれど、娘の口から、その言葉が出た瞬間、胸の奥に、冷たいものが落ちた。
「理由を」
夫は、短く言った。
「なぜ、受ける。お祖母さまが望んだからか。私が望んだからか」
「違います」
ヴィオレッタは、首を横に振った。
「殿下は、わたくしが怒ったとき、変じゃないと、おっしゃいました。取られたくないのは、普通だと。わたくしは、あんなふうに言ってくれる方を、知りませんでした」
「……」
「だから、もう少し、知りたいと思いました。婚約を、したいのではありません。殿下を、もう少し、知りたいのです」
扉の隙間から、夫の横顔が見えた。眉間に、深い皺が寄っている。
「それは、同じことではない」
「はい。存じています」
娘は、両手を、ぎゅっと握りしめた。
「だから、お願いがあります。お受けする代わりに、二つ、お約束をいただきたいのです」
「条件か」
「はい」
ジークハルトの目が、細くなった。
「聞こう」
「一つ。わたくしが、どうしても、嫌になったときは、嫌だと言わせてください」
夫の指が、机の上で、ぴたりと止まった。
「二つ。……お母さまが、王宮でも、お隣に座れるようにしてください」
その言葉が、ひどく、心にしみた。
けれど、夫は、すぐには答えなかった。長い沈黙のあと、静かに言った。
「前者は、王家に、通じない」
「……通じない、のですか」
「公爵家の娘が、嫌になったから婚約を解く。そんな言葉は、王家の前では、通らない」
娘の肩が、ぎくりと揺れた。
「後者は、慣習だ。母は、壁際。これも、私の裁量では変えられない」
「では」
ヴィオレッタは、うつむきかけて、それから、顔を上げた。
「お父さまは、わたくしの言葉を、王家に通じる言葉に、直してくださいますか」
書斎が、しんとした。
娘は、震える声で、続けた。
「わたくしは、まだ、王家の言葉を、知りません。だから、お父さまに、お願いしたいのです。……できない日は、できないと言えと、おっしゃいました。わたくしが、嫌になった日は、嫌だと言える、そういう形に」
夫は、長いあいだ、娘の顔を見つめていた。
私は、扉の向こうで、拳を握った。
やがて、夫は、ふっと目を伏せた。
「……お前の口で言えたな」
低い、かすれた声だった。
「約束どおりだ。聞いた」
「はい」
「通じる言葉に、直せるかどうかは、わからない。だが、やってみる。……明日の昼までに」
ヴィオレッタの顔が、ぱっと明るくなった。涙が、ぽろりと頬に落ちた。
「ありがとうございます、お父さま」
「礼は、まだ、早い」
そう言いながら、夫の声は、かすかに揺れていた。
◇
娘が書斎から出てきたとき、頬は涙で濡れていた。けれど、目は、昼間より、ずっと澄んでいた。
私を見つけると、ヴィオレッタは、立ち止まった。
「お母さま。……ごめんなさい」
「どうして、謝るの」
「お母さまは、断ってほしかったのではありませんか」
胸を、突かれた。この子は、見ていたのだ。母の顔を。馬車の中でも、昼の庭でも。
私は、膝を折った。嘘は、つきたくなかった。
「少し、こわいの。あなたが、遠くへ行ってしまうような気がして」
「遠くへ、ですか」
「ええ。でも、あなたが、自分の口で言えたことは、とても、誇らしいわ。それは、本当よ」
娘は、しばらく私を見つめて、それから、ぎゅっと、首に抱きついてきた。
小さな腕の力は、思っていたよりも、強かった。
「どこへも、行きません」
耳元で、くぐもった声がした。
「お母さまの、お隣に、座れるようにしてもらいます。……お父さまに、お願いしましたから」
私は、何も言えなかった。ただ、その背中を、そっと抱き返した。
娘が自室へ戻っていったあと、廊下の私に、書斎の中から声がかかった。
「クラリッサ。入れ」
扉を開けると、夫は、机の前で、頭を抱えていた。
「……聞いていたのだろう」
「はい。申し訳ありません」
「謝るな。むしろ、助かる」
夫は、顔を上げた。灰色の瞳が、疲れていた。
「八つの子が、あれだけのことを言った。私は、それを、王家に伝わる形に、直さなければならない。だが」
そこで、言葉が詰まった。
「私は、財務の文書は書ける。だが、娘の言葉を、文書に直したことがない」
初めて聞く、弱音だった。
「お手伝いしても、よろしいですか」
「……頼む」
私は、夫の隣の椅子を引いた。机の上に、白い紙が一枚、広げられている。
「まず、あの子が、本当に守りたいものは、何でしょう」
「嫌になったとき、嫌だと言えること」
「それを、王家の言葉で、何と呼びますか」
夫は、しばらく考えた。
「……猶予、あるいは、見直しの権利」
「それなら、候補の期間を、区切るのはどうでしょう。たとえば、正式な婚約を結ぶまでの、見合いの期間。その間は、双方が、辞退を申し出られる」
「辞退は、王家からも、できる」
「はい。公平です。ヴィオレッタにだけ、特別な条項を求めるのではなく、双方の権利として」
夫のペンが、紙の上で、さらさらと動き始めた。
「期間は」
「あの子が、本当に、殿下を知るために必要なだけ」
「一年か」
「それでは、短いでしょうか」
「……いや、長い」
夫は、苦笑した。
「王家は、一年も、待たない。半年が、限度だ」
「では、半年。ただし、その間に、お互いが、会える機会を、増やしていただけるように」
「それは、交渉の余地がある」
二人で、一枚の紙を挟んで、夜が更けていった。
結婚して九年。クラリッサとして、私は、この人と、同じ机に向かったことが、おそらく、一度もなかった。
夫は、ペンを走らせながら、ぽつりと言った。
「ヘルガ夫人には、この文書の件は、まだ、伝えるな」
「……はい」
「母上にも、だ。私が、王家に、先に出す」
灰色の瞳が、窓の外の、深い夜を見ていた。
「あの夫人が、何を考えているのか。私にも、まだ、わからない」
その声には、確かな、警戒があった。
夜明け前、文書は、一枚の紙に収まった。
夫は、それを、二度読み返してから、封をした。封蝋に押した公爵家の百合の紋は、いつもより、深く刻まれたように見えた。
「これが通るかどうかは、わからない」
「お義母さまは、何と」
「母上は、反対だ。今も、変わらないだろう。……だが、娘の口から出た言葉を、私が握りつぶすことは、もうできない」
「通らなければ、娘に、そう告げる。私の口で」
夫は、封書を、そっと机の端に置いた。
「……お前は、娘に、何も言うな」
「承知しました」
窓の外が、白み始めていた。長い夜だった。けれど、不思議と、疲れはなかった。




