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悪役令嬢ではなく、その母親に転生しました。娘が断罪される前に家庭環境から直します  作者: ローナ


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19/22

通じる言葉に

夕食のあと、ヴィオレッタは一人で、書斎の扉の前に立った。


私は、廊下の壁際に寄って、娘の背中を見ていた。藍に近い紫のドレスは、まだ、昼の庭の匂いを残している。襟に細く入れた黄色が、廊下の灯りに、小さく光った。小さな手が、扉の取っ手の前で、一度止まった。


娘は、振り返らなかった。ただ、深く、息を吸った。


そして、扉を叩いた。


「入れ」


低い声に、娘は、扉を開けた。私は、閉まりきる前に、わずかな隙間を残した。聞くつもりはなかった。けれど、立ち去ることもできなかった。


書斎の机の向こうで、ジークハルトは、ペンを置いて待っていた。


「聞こう」


夫の目が、娘の襟もとの黄色に、一瞬だけ止まった。何かを言いかけて、やめたのがわかった。


「はい、お父さま」


娘の声は、震えていた。けれど、言葉の途中で、止まらなかった。


「王太子殿下の、婚約者候補のお話を、お受けしたいと思います」


扉の外で、私は、息をのんだ。


覚悟は、していた。していたつもりだった。けれど、娘の口から、その言葉が出た瞬間、胸の奥に、冷たいものが落ちた。


「理由を」


夫は、短く言った。


「なぜ、受ける。お祖母さまが望んだからか。私が望んだからか」


「違います」


ヴィオレッタは、首を横に振った。


「殿下は、わたくしが怒ったとき、変じゃないと、おっしゃいました。取られたくないのは、普通だと。わたくしは、あんなふうに言ってくれる方を、知りませんでした」


「……」


「だから、もう少し、知りたいと思いました。婚約を、したいのではありません。殿下を、もう少し、知りたいのです」


扉の隙間から、夫の横顔が見えた。眉間に、深い皺が寄っている。


「それは、同じことではない」


「はい。存じています」


娘は、両手を、ぎゅっと握りしめた。


「だから、お願いがあります。お受けする代わりに、二つ、お約束をいただきたいのです」


「条件か」


「はい」


ジークハルトの目が、細くなった。


「聞こう」


「一つ。わたくしが、どうしても、嫌になったときは、嫌だと言わせてください」


夫の指が、机の上で、ぴたりと止まった。


「二つ。……お母さまが、王宮でも、お隣に座れるようにしてください」


その言葉が、ひどく、心にしみた。


けれど、夫は、すぐには答えなかった。長い沈黙のあと、静かに言った。


「前者は、王家に、通じない」


「……通じない、のですか」


「公爵家の娘が、嫌になったから婚約を解く。そんな言葉は、王家の前では、通らない」


娘の肩が、ぎくりと揺れた。


「後者は、慣習だ。母は、壁際。これも、私の裁量では変えられない」


「では」


ヴィオレッタは、うつむきかけて、それから、顔を上げた。


「お父さまは、わたくしの言葉を、王家に通じる言葉に、直してくださいますか」


書斎が、しんとした。


娘は、震える声で、続けた。


「わたくしは、まだ、王家の言葉を、知りません。だから、お父さまに、お願いしたいのです。……できない日は、できないと言えと、おっしゃいました。わたくしが、嫌になった日は、嫌だと言える、そういう形に」


夫は、長いあいだ、娘の顔を見つめていた。


私は、扉の向こうで、拳を握った。


やがて、夫は、ふっと目を伏せた。


「……お前の口で言えたな」


低い、かすれた声だった。


「約束どおりだ。聞いた」


「はい」


「通じる言葉に、直せるかどうかは、わからない。だが、やってみる。……明日の昼までに」


ヴィオレッタの顔が、ぱっと明るくなった。涙が、ぽろりと頬に落ちた。


「ありがとうございます、お父さま」


「礼は、まだ、早い」


そう言いながら、夫の声は、かすかに揺れていた。


◇


娘が書斎から出てきたとき、頬は涙で濡れていた。けれど、目は、昼間より、ずっと澄んでいた。


私を見つけると、ヴィオレッタは、立ち止まった。


「お母さま。……ごめんなさい」


「どうして、謝るの」


「お母さまは、断ってほしかったのではありませんか」


胸を、突かれた。この子は、見ていたのだ。母の顔を。馬車の中でも、昼の庭でも。


私は、膝を折った。嘘は、つきたくなかった。


「少し、こわいの。あなたが、遠くへ行ってしまうような気がして」


「遠くへ、ですか」


「ええ。でも、あなたが、自分の口で言えたことは、とても、誇らしいわ。それは、本当よ」


娘は、しばらく私を見つめて、それから、ぎゅっと、首に抱きついてきた。


小さな腕の力は、思っていたよりも、強かった。


「どこへも、行きません」


耳元で、くぐもった声がした。


「お母さまの、お隣に、座れるようにしてもらいます。……お父さまに、お願いしましたから」


私は、何も言えなかった。ただ、その背中を、そっと抱き返した。


娘が自室へ戻っていったあと、廊下の私に、書斎の中から声がかかった。


「クラリッサ。入れ」


扉を開けると、夫は、机の前で、頭を抱えていた。


「……聞いていたのだろう」


「はい。申し訳ありません」


「謝るな。むしろ、助かる」


夫は、顔を上げた。灰色の瞳が、疲れていた。


「八つの子が、あれだけのことを言った。私は、それを、王家に伝わる形に、直さなければならない。だが」


そこで、言葉が詰まった。


「私は、財務の文書は書ける。だが、娘の言葉を、文書に直したことがない」


初めて聞く、弱音だった。


「お手伝いしても、よろしいですか」


「……頼む」


私は、夫の隣の椅子を引いた。机の上に、白い紙が一枚、広げられている。


「まず、あの子が、本当に守りたいものは、何でしょう」


「嫌になったとき、嫌だと言えること」


「それを、王家の言葉で、何と呼びますか」


夫は、しばらく考えた。


「……猶予、あるいは、見直しの権利」


「それなら、候補の期間を、区切るのはどうでしょう。たとえば、正式な婚約を結ぶまでの、見合いの期間。その間は、双方が、辞退を申し出られる」


「辞退は、王家からも、できる」


「はい。公平です。ヴィオレッタにだけ、特別な条項を求めるのではなく、双方の権利として」


夫のペンが、紙の上で、さらさらと動き始めた。


「期間は」


「あの子が、本当に、殿下を知るために必要なだけ」


「一年か」


「それでは、短いでしょうか」


「……いや、長い」


夫は、苦笑した。


「王家は、一年も、待たない。半年が、限度だ」


「では、半年。ただし、その間に、お互いが、会える機会を、増やしていただけるように」


「それは、交渉の余地がある」


二人で、一枚の紙を挟んで、夜が更けていった。


結婚して九年。クラリッサとして、私は、この人と、同じ机に向かったことが、おそらく、一度もなかった。


夫は、ペンを走らせながら、ぽつりと言った。


「ヘルガ夫人には、この文書の件は、まだ、伝えるな」


「……はい」


「母上にも、だ。私が、王家に、先に出す」


灰色の瞳が、窓の外の、深い夜を見ていた。


「あの夫人が、何を考えているのか。私にも、まだ、わからない」


その声には、確かな、警戒があった。


夜明け前、文書は、一枚の紙に収まった。


夫は、それを、二度読み返してから、封をした。封蝋に押した公爵家の百合の紋は、いつもより、深く刻まれたように見えた。


「これが通るかどうかは、わからない」


「お義母さまは、何と」


「母上は、反対だ。今も、変わらないだろう。……だが、娘の口から出た言葉を、私が握りつぶすことは、もうできない」


「通らなければ、娘に、そう告げる。私の口で」


夫は、封書を、そっと机の端に置いた。


「……お前は、娘に、何も言うな」


「承知しました」


窓の外が、白み始めていた。長い夜だった。けれど、不思議と、疲れはなかった。

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