白い封蝋
王宮への封書が出てから、三日が過ぎた。
返答は、まだ来ない。屋敷は、表向き、いつもどおりに動いていた。けれど、廊下の空気には、薄い膜のようなものが張りついていた。使用人たちは、声を落としている。ミーナは、私の髪を梳きながら、何度も何か言いかけて、やめた。
マルガレーテは、この三日間、いつもの刺繍の時間にも、孫たちの前に姿を見せなかった。ケスラー夫人が、授業のあとで、「大奥様のご機嫌は」と尋ねたが、私は、首を振るしかなかった。
その夕食の席で、膜が、破れた。
「ジークハルト」
マルガレーテが、フォークを置いた。
ヴィオレッタは、レオンの隣で、ミミにパンくずを食べさせるふりをしている。弟は、うれしそうに笑っていた。子どもたちの前で、この話を始めるのか、と私は身構えた。
けれど、姑は、まず、孫たちに微笑んだ。
「あなたたち。食事のあと、ハンナと、先に休みなさい。大人の話があります」
「はい、お祖母さま」
ヴィオレッタの声は、小さかった。娘は、母の顔と、祖母の顔を、順に見て、黙って席を立った。
扉が閉まるのを待って、マルガレーテは、息子に向き直った。
「王家に、書簡を出しましたね」
「……はい」
「わたくしに、何の相談もなく」
夫は、顔色を変えなかった。母の目を、まっすぐに見返している。
「母上に相談すれば、止められると思いました。それが、私の落ち度です」
「落ち度、と言うのですか」
姑の声が、低く震えた。
「あなたは、公爵です。家の主です。けれど、王家に条件を突きつけるなど、リヒテンベルクの歴史に、前例がありません」
「条件では、ありません。見合いの期間を区切るという、提案です」
「同じことです」
「違います」
夫の声は、静かだった。静かなぶんだけ、芯があった。
「娘が、自分の口で、望みを伝えました。私は、それを握りつぶせなかった」
「だからといって」
マルガレーテは、扇を握りしめた。
「ヘルガから、聞いたのです」
食堂の空気が、ぴんと張った。
「王妃陛下が、お困りだと。公爵家が、婚約の前に、条件を持ち出したと。陛下は、気分を害されたと」
私は、息を止めた。
書簡が出たのは、三日前。夫が、ドレーゼン夫人にも、母にも、伏せていたはずの書簡だ。それが、すでに夫人の耳に入り、姑に伝わっている。
王宮の中に、夫人の耳が、あるのだ。
「母上。その話は、誰から」
「ヘルガ本人です。昼に、見えました」
「夫人は、陛下の、お言葉を、直接?」
「ええ」
「陛下は、そう、おっしゃったのですか。気分を害したと」
姑は、一瞬、言葉に詰まった。
「……ヘルガは、陛下の、お顔を、拝見して、そう感じたと」
「感じた、のですね」
夫は、小さく、息を吐いた。
「それは、お言葉ではない。夫人の、ご推察です」
「ジークハルト」
「母上。私は、母上が、この家を案じておられることを、わかっています。けれど、娘に関することは、娘本人の言葉を、先に聞きたいのです」
夫が、これほど、はっきりと母に言い返すのを、私は初めて見た。
姑は、黙っていた。扇が、ぎしりと鳴る。
「……あなたの父は、わたくしの意見を、一度も、無視しませんでした」
「父上は、母上の意見を、よく聞く方でした」
「ええ。だから、この家は、続いてきたのです。何代も、そうして守られてきました」
「父上は、母上の意見を聞いた。しかし、母上は、私の意見を、聞いてくださいましたか」
静寂が、落ちた。
マルガレーテの目に、一瞬、何かが、揺れた。それは、怒りではなかった。傷に近い、何かだった。
「……反省室の、ことですか」
声が、ひどく小さかった。
「あの部屋のことは、あなたも」
「覚えております。母上が、私を、強くしたかったことも」
夫は、卓の上に、手を置いた。
「ただ、私は、強くなったのではなく、黙ることを覚えただけでした。そして今、娘が、黙らずに、自分の口で言った。私は、その言葉を、聞き逃したくない」
マルガレーテは、長いあいだ、動かなかった。
やがて、扇を、静かに、膝の上に置いた。
「……わかりました」
乾いた声だった。
「今夜は、これ以上、言いません。ただ」
姑は、立ち上がった。
「ヘルガが、わたくしを、欺いているとは、思いません。あの子は、このわたくしの、四十年来の、友です」
「承知しております」
「それだけ、覚えておきなさい」
姑が、食堂を出ていく足音は、いつもより、わずかに、ゆっくりだった。
◇
食堂を出た廊下の隅で、小さな影が、壁にもたれていた。
ヴィオレッタだった。寝間着の上に肩掛けを羽織り、ミミを抱いたレオンを、ハンナに預けてきたのだろう。一人で、立っていた。
「……聞こえていました」
「そう」
「お祖母さまは、お怒りでしたか。わたくしの、せいで」
私は、娘の前に膝をついた。
「お祖母さまは、お父さまと、お話をなさっていたの。あなたの言葉が、きっかけだったけれど、あなたのせいでは、ないわ」
「でも、わたくしの言葉が、お家を、揺らしたのでしょう」
八つの子の口から出た「揺らした」という語に、胸が痛んだ。
「揺れることは、悪いことばかりではないのよ」
「そうなのですか」
「ええ。揺れなかったことで、長いあいだ、誰も口に出せなかったことが、この家には、たくさんあったの。あなたが、口にしたから、お父さまも、お祖母さまも、はじめて、それを、考え始めたのよ」
娘は、しばらく、考えていた。
「……お祖母さまは、泣いていらっしゃいませんでしたか」
「泣いてはいらっしゃらなかったわ。でも、少し、苦しそうだった」
「謝りに行ったほうが、いいですか」
「今夜は、やめましょう。お祖母さまは、お一人で、考えたいと思うから」
娘は、小さくうなずいて、ミミのいる部屋のほうへ、歩いていった。小さな背中が、ひどく、頼りなく見えた。
◇
その夜遅く、屋敷の玄関で、物音がした。
私は、肩掛けを羽織って、廊下へ出た。オスカーが、銀の盆を持って、足早に書斎へ向かっていく。
「何事ですか」
「奥様。夜分、申し訳ございません。王宮の使いが、先ほど、封書を」
盆の上に、淡い桜色でも、赤でもない、白の封蝋があった。紋章の脇に、小さな、王妃個人の花押が添えられている。
夫が、書斎の扉を開けて、封を切った。私は、その後ろから、灯りの下の便箋を覗き込んだ。
整った、女性の筆跡だった。
『公爵閣下。条件のご提案、興味深く拝見いたしました。娘御ご自身のお言葉でいらっしゃるとのこと、母として、胸を打たれております。つきましては、近いうちに、公爵夫妻お二人にて、内々に参内なさいますよう。王妃』
私は、思わず、夫の顔を見た。
夫は、便箋を、もう一度、最初から読み返した。それから、声を落として、言った。
「陛下は、お困りでは、ない」
「……はい」
「気分を害されても、おられない」
白い封蝋の便箋が、灯りの下で、うすく光っていた。夫は、それを、指先で押さえている。
そのとき、オスカーが、一歩、前に出た。
「旦那様。お調べの件、一つだけ、ご報告が」
「言え」
「ドレーゼン伯爵家の侍女は、半年前から、お屋敷の周りの店で、同じことを、尋ねて回っておりました。お嬢様の、お好み、お癖、お付きの者の名」
半年前。
王妃の茶会の話が持ち上がる、はるか前だ。
私は、肩掛けを、強く握りしめた。あの夫人の目は、いつから、この屋敷を見ていたのだろう。
夫は、しばらく黙っていた。それから、灰色の瞳を、窓の外の闇に向けて、静かに言った。
「夫人が、母上に伝えた言葉は、陛下の言葉では、なかった」
その声は、低く、冷たく、そして、確信に満ちていた。




