壁際のない部屋
参内の朝、マルガレーテは、玄関ホールで私たちを待っていた。
濃紺のドレスに、黒玉の首飾り。いつもどおりの立ち姿なのに、昨夜の食堂のあとで、目を合わせるのは、お互い、気まずかった。
「馬車の用意は」
「整っております、母上」
夫が答える。姑は、それ以上、何も言わなかった。ただ、私の前に歩み寄り、自分の胸元から、小さなブローチを外した。
百合の紋を、黒玉で彫り込んだものだった。
「これを、つけていきなさい」
「お義母さま、それは」
「先代公爵夫人が、王宮に上がるときの、飾りです」
姑の指が、私の襟もとに、ブローチを留めた。冷たい指先だった。
「陛下の前で、夫に恥をかかせないこと。それだけ、守りなさい」
「はい」
「それから」
姑は、そこで、言いよどんだ。
「……あの子の言葉を、あなたが、きちんと、伝えるのですよ」
反対だと言い切った人が、孫の言葉を、私に託した。
私は、ブローチに指を当てて、深く頭を下げた。
◇
王宮の奥の、小さな応接の間に通されたのは、昼を少し回ったころだった。
茶会の東屋とは、まるで違う。壁は薄い緑の絹張りで、窓からは、庭の薔薇の垣根が見える。円い低い卓を囲んで、肘掛けのついた椅子が、四脚。侍従は、お茶を置くと、すぐに下がった。
壁際の長椅子は、どこにもなかった。
「お掛けになって」
現れた王妃は、淡い金の髪を、ゆるく結っていた。茶会のときより、ずっと簡素な装いで、公爵夫妻の向かいに、自ら腰を下ろした。
「内々のお話ですもの。堅苦しいのは、なしにしましょう」
私は、夫の隣の椅子に、浅く腰かけた。壁際ではない。夫の隣。母親として、座れる位置。
王妃は、卓の上の便箋を、そっと広げた。
「公爵閣下のお手紙は、拝読しました。……娘御ご自身の、お言葉なのですね」
「はい。八つの子の口から出た言葉を、私が、書き直しました」
「書き直したのは、閣下だけ?」
王妃の目が、私に向いた。
「いいえ」
答えたのは、夫だった。
「妻が、ともに」
「そう。よかった」
王妃は、微笑んだ。
「実を言うと、わたくしは、昔、似たようなことを、言いたかったの」
意外な言葉だった。
「わたくしが、今の国王陛下の、妃候補に挙げられたのは、十二のときでした。誰にも尋ねられませんでした。ただ、決まりましたよと、告げられただけ」
姑と、同じだ。私は、息を、のんだ。
「それが悪いことだったとは、思いません。幸せなこともたくさんありました。けれど、あの子たち、アルフォンスと、ヴィオレッタ嬢を見ていると」
王妃は、言葉を、探した。
「わたくしたちの世代と、同じ道を歩かせたくない気持ちと、そうせざるを得ない事情と、その両方があるのです」
「事情、とは」
夫が、尋ねた。
「王家の婚約は、国王陛下と、議会と、教会の承認が要ります。辞退の権利を、令嬢の側にだけ置くことは、できません」
「承知しております」
「ですから、お手紙のご提案どおり、双方の権利として、見合いの期間を設けます。期間は、半年。その間は、どちらからも、辞退を申し出られる」
私は、思わず、夫の腕に触れかけた。夫の指が、わずかに、膝の上で動いた。
「ただし」
王妃は、静かに続けた。
「議会の承認は、まだ、得ていません。得られるかどうかは、これから。反対する方も、おられるでしょう。特に、辞退の権利を『令嬢の気持ち』という言葉で表すことは、難しい」
「では、どのような言葉なら」
「『見合いの期間における、相互の再考』と。そのように、文書に残しましょう」
夫が、かすかに、息を吐いた。
「ありがとうございます、陛下」
「礼は、まだ、早いわ。議会が終わるまで」
王妃は、そこで、少し声を落とした。
「それから、もう一つ。書簡について」
卓の上の便箋に、視線を落とす。
「あなたのお手紙は、侍従長を通さず、わたくしが、自ら封を切りました。知っている者は、わたくしと、わたくしの侍女頭と、ごく限られた者だけです」
私は、背筋を伸ばした。
「それなのに、書簡の件が、すでに、外で話題になっていると、耳にしました」
夫の目が、細くなった。
「ヘルガ・ドレーゼンは、わたくしの、古い友人です。長年、茶会を取り仕切ってくれて、よく気のつく人です。疑いたくはありません。けれど」
王妃は、扇を、ぱたりと閉じた。
「わたくしの侍女の中に、外へ話す者がいるのなら、それは、調べなければ」
その声には、母の顔ではなく、国の妃の、冷たい芯があった。
◇
話が終わりかけたとき、王妃は、ふと、私に向き直った。
「クラリッサ夫人」
「はい」
「どうして、娘御に、尋ねようと思ったのです」
虚を突かれた。けれど、誤魔化すつもりは、なかった。
「私も、嫁ぐときに、誰にも、尋ねられなかったからです」
半分は、クラリッサの人生の話。半分は、前世の記憶から出た言葉だった。
「それが、悪いこととは、思いません。ですが、尋ねられなかった人間は、尋ねることを、知りません。私は、あの子に、同じ思いをさせたくなかった。それだけです」
王妃は、しばらく黙って、私の顔を見ていた。
「……あなたは、茶会のとき、壁際で、娘御を見ていらしたわね。一度も、目をそらさずに」
「はい」
「見ているだけの母親の目では、ありませんでした」
胸が、ちくりと、痛んだ。
「今後、私的な場では、母君は、娘御のお隣へ。わたくしが、そう取り計らいます。公の場は、慣習どおり。けれど、わたくしの庭では、そのようにして」
ヴィオレッタが、父に頼んだ、二つ目の願い。それが、一部だけ、かなえられた。
「ありがとうございます、陛下」
声が、少し、震えた。
◇
参内を終え、王宮の車寄せに出ると、薄紫のドレスの人が、扇を手に、立っていた。
「まあ。公爵閣下、公爵夫人。ご機嫌よう」
ドレーゼン夫人だった。偶然、と言うには、あまりにも、ちょうどいい場所だった。
「陛下に、ご挨拶を。いかがでしたか。お話は」
夫は、馬車の扉に手をかけたまま、振り返った。
「陛下は、お困りでは、ありませんでした」
「まあ、それは、よろしゅうございました」
夫人の笑みは、少しも、ゆらがなかった。
「わたくし、少し、気を揉んでおりましたのよ。陛下のお顔が、どうにも、曇っていらしたように見えまして」
「そうですか」
夫は、短く言った。
「お気遣い、痛み入ります。以後、陛下のお心は、陛下ご自身の、お言葉で、うかがいます」
夫人の扇が、ほんの一瞬、止まった。
けれど、すぐに、柔らかな声が返ってきた。
「ええ。それが、いちばんですわ」
馬車が動き出すと、車窓の向こうで、夫人が、扇を口元に寄せたまま、こちらを見送っていた。笑っているのか、そうでないのか。距離のせいで、わからなかった。
しばらく、車輪の音だけが続いた。
「……お前の、言葉だった」
夫が、ぽつりと言った。
「陛下に、尋ねられて。尋ねられなかった、と答えたのは」
「はい」
「あれは、お前自身のことか」
私は、少しだけ迷って、うなずいた。
「そのつもりで、お答えしました」
夫は、窓の外へ視線をやった。
「私は、お前に、尋ねたことがあっただろうか。九年のあいだに、一度でも」
胸が、きゅっと、詰まった。クラリッサの記憶の中に、その答えは、なかった。
「……これから、尋ねてください」
「そうしよう」
夫は、短く言った。それから、私の襟もとのブローチに、目を留めた。
「母上の飾りだな」
「ええ。お預かりしました」
「母上は、お前を、認めたのだと思う。口には、出さないが」
私は、黒玉の百合に、そっと指を触れた。冷たいはずの石が、ほのかに、あたたかかった。




