王妃の庭
参内の結果は、その晩のうちに、ヴィオレッタに伝えることになった。
書斎ではなく、居間の暖炉の前で。夫は、娘と同じ高さの椅子に腰を下ろした。それだけのことが、以前のこの人には、できなかった。
「陛下は、お前の願いの、半分を、お聞き届けになった」
「半分、ですか」
「見合いの期間は、半年。その間は、殿下も、陛下も、お前も、どちらからも、考え直すことができる。ただし、議会の承認が、まだ要る」
ヴィオレッタは、膝の上で、手を組んだ。
「嫌になったら、嫌だと、言えるのですか」
「『相互の再考』という言葉で、文書に残る。お前が、そう言っても、非礼には、ならない」
娘の肩から、ふっと、力が抜けた。
「……お父さまが、言葉を、直してくださったのですね」
「お母さまも、一緒にな」
夫が、私のほうを見た。娘の目も、こちらを向いた。私は、少し照れくさくて、うなずくだけにした。
「それから、もう一つ」
夫は、咳払いをした。
「王妃陛下の、私的なお庭では、お母さまは、お前の隣に、座っていい」
「本当ですか」
娘の声が、跳ねた。
「ああ。……お前の、二つ目のお願いだ」
ヴィオレッタは、立ち上がって、父の首に、抱きついた。夫は、一瞬、固まった。それから、ぎこちなく、娘の背に、手を回した。
その手つきは、まるで、初めて壊れ物を抱く人のようだった。
その夜、私は、ブローチを返しに、マルガレーテの部屋を訪ねた。
姑は、窓辺の椅子で、刺繍の針を動かしていた。私が差し出した黒玉の百合を、ちらりと見て、首を横に振った。
「次に王宮へ上がるときまで、あなたが持っていなさい」
「よろしいのですか」
「わたくしの飾りが、役に立ったのでしょう。顔に、書いてあります」
姑は、針を止めずに続けた。
「それで。陛下は、何と」
私は、見合いの期間のこと、議会の承認が要ること、王妃の庭で母が隣に座れることを、順に話した。姑は、黙って聞いていた。針が、ときどき、止まった。
「……隣、ですか」
「はい」
「わたくしが嫁いだとき、姑は、一度も、隣には座らせてくれませんでした」
姑の声は、乾いていた。
「その席を、あの子は、あなたに、求めたのですね」
「はい」
「そうですか」
それだけ言って、姑は、針を動かし続けた。糸の先が、わずかに、震えていた。
◇
十日後、私は、王妃の庭にいた。
王宮の奥の、さらに奥。薔薇の垣根で囲まれた小さな庭に、白い円卓と、肘掛けのある庭園椅子が、いくつか置かれている。私は、ヴィオレッタの隣の椅子に座った。
茶会の日の壁際とは、まるで違う。娘の肩が、手を伸ばせば届く距離にある。
「お隣ですね、お母さま」
「ええ。お隣よ」
娘は、小声で言って、嬉しそうに笑った。
王妃は、円卓の向こうで、お茶を注いでいる。給仕についているのは、三人の侍女だった。その中の一人、年かさの女性が、王妃がお茶の席でふと書簡の話に触れたとき、目を伏せた。
私は、その横顔を、心に留めた。
そこへ、小さな足音が近づいてきた。
「お待たせしました」
アルフォンスだった。今日は、帽子を持っていない。代わりに、小脇に、木の小箱を抱えていた。
「ヴィオレッタ嬢。先日の、お礼に」
「お礼?」
「小鳥の絵を、描いてくださったので。僕からは、これを」
箱の蓋が開く。中には、硬貨ほどの大きさの、木の駒が、数十枚、並んでいた。駒の一つ一つに、数字が彫り込まれている。
「算術遊びです。駒を並べて、決まった数に、なるように組み合わせる。母上の、お気に入りで」
王妃が、くすりと笑った。
「アルフォンスは、これが、とても得意なのよ」
ヴィオレッタの目が、きらりと光った。私は、息を詰めた。この子が、算術のことになると、変わるのを、知っている。
「やってみましょうか」
「はい」
少年は、卓の上に、駒を十枚ほど選んで並べた。
「この中から、足して二十七になる組み合わせを、すべて、見つけてください」
アルフォンスが、数を数え始めた。眉間に皺を寄せ、駒を一枚ずつ、動かしていく。
その横で、ヴィオレッタは、じっと、駒を見つめていた。
ほんの数呼吸。
「三つ、あります」
「え?」
「五と、九と、十三。それから、三と、八と、十六。それから」
娘は、駒を、すいすいと動かした。
「四と、十と、十三。……これで、全部です」
円卓が、しんとした。
アルフォンスの手が、駒の上で止まった。少年の頬が、みるみる、赤くなった。
「……僕は、まだ、一つしか」
「わたくしのほうが、速いですね」
ヴィオレッタは、笑った。
「わたくし、算術だけは、とても、得意なのです」
悪気は、ないのだろう。けれど、その言い方に、ほんの少し、得意げな響きがあった。
アルフォンスの唇が、きゅっと結ばれた。
私は、娘の袖に、そっと指を触れた。合図ではなく、ただの、触れ方。
娘は、はっとして、私を見た。それから、少年の顔を見た。口を開いて、閉じて、また開いた。
深く、息を吸う。
「……ごめんなさい」
「何がです」
「わたくし、いま、少し、威張りました」
アルフォンスは、むっとしたまま、答えなかった。
「でも、殿下は、鳥の名前を、全部、ご存じです。わたくしは、半分しか知りません。ヒワのほかに、あのお庭にいる鳥の名前を、教えてください」
少年は、ちらりと、娘を見た。
しばらくして、小さな声で言った。
「……ツグミと、シジュウカラと、ミヤマガラスです」
「ツグミ」
「胸の模様が、渋いのです」
「どんな色ですか」
「茶色で、白い斑点が」
二人の声が、少しずつ、近づいていく。私は、肩の力を抜いた。
「ミヤマガラスは、冬に、群れで渡ってくるのですって」
「どうして知っているんですか」
「図鑑に、書いてありました。……でも、実物は、見たことがありません」
「僕は、あります。冬の朝、庭の木に、びっしり、止まるんです」
少年の声に、熱が戻った。さっきまで、算術に負けて、むくれていた顔が、鳥の話になると、すっかり、子どもの顔だった。
「今度、見に来ますか」
「いいのですか」
「母上が、いいと言えば」
二人が、同時に、王妃のほうを振り返った。王妃は、扇で口元を隠しながら、うなずいた。
王妃が、私にだけ、聞こえる声で言った。
「あの子は、算術が、お得意なのね。公爵閣下は、ご存じ?」
「はい。ただ」
「才能は、王家では、重荷にも、盾にもなります」
王妃の目は、庭の二人に注がれていた。
「……よく、見ていてあげなさい」
◇
帰りがけ、王妃は、私を、薔薇の垣根のそばへ呼んだ。
「議会の件を、お伝えしておきます」
「はい」
「二週間後、承認の審議があります。最も強く反対しそうな方の、お名前も」
王妃は、声を、さらに落とした。
「ドレーゼン伯爵。ヘルガの、ご主人です」
私は、息をのんだ。
「あの方は、議会の古参で、慣習を、とても重んじる方。『令嬢の再考』という言葉に、強い異を、唱えられるでしょう」
「夫人も、ご存じなのですか」
「さあ。夫婦のことは、わたくしには、わかりません」
王妃は、微笑んだ。けれど、その目は、少しも笑っていなかった。
「ただ、お気をつけなさい。ヘルガが、あなたたちの味方か、そうでないのか。わたくしにも、まだ、見極められていないのです」
薔薇の垣根の向こうでは、二人の子どもが、まだ、鳥の話を続けていた。笑い声が、風に乗って、こちらまで届く。
あの笑い声を、守りたい。守るためには、あの笑い声を、遠くから見つめる大人たちの顔を、見分けなければならない。
私は、襟もとの黒玉の百合を、指先で、そっと確かめた。冷たい石は、もう、あまり冷たく感じなかった。




