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悪役令嬢ではなく、その母親に転生しました。娘が断罪される前に家庭環境から直します  作者: ローナ


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8/22

隣に座る

夜明け前に、私は書庫の扉を叩いた。


返事はなかった。そっと開けると、ジークハルトの姿はもうなく、書棚のあいだの絨毯に、ヴィオレッタだけが座っていた。図鑑を膝に開き、ヒワの絵をぼんやり眺めている。眠っていないのは、目の下の青さで知れた。


「おはよう」


娘は返事をしなかった。ページをめくる手が、ほんの少し速くなる。


私は少し離れた床に、腰を下ろした。同じ高さで、隣ではなく、斜め向かいに。


「昨日のこと、謝らせて」


ページをめくる手が止まった。


「見ているだけにする、と約束したのは、私の考えが足りなかったからよ。あなたを守るつもりで、あなたを一人にしてしまった。ごめんなさい」


大人の謝罪は、子どもに重荷を渡さないことが大切だ。許してもらおうとしてはいけない。ただ、事実を、短く。


「……謝られても、困ります」


ヴィオレッタは、図鑑から目を上げなかった。


「困らせたかったわけではないの。ただ、言っておきたかった」


長い沈黙があった。窓の外が少しずつ白んでいく。


「見ているだけ以外のことを、してください」


小さな声だった。


「何をしてほしいの?」


「それは……」


娘は唇を噛んだ。思いつかないのではない。口にしていいのかを、迷っているのだ。


「ゆっくり考えて。授業が始まるまでに、教えてくれればいいわ」


私は立ち上がり、図鑑を抱えたままの娘に手を差し出した。ヴィオレッタは、その手を見て、見て、そして自分の足で立ち上がった。手は、取らなかった。


それでも、昨日よりは近い、と思った。


◇


勉強部屋の机の上に、割れた石板の欠片が、昨日のまま並んでいた。


ケスラー夫人は、すでに教師用の机についている。窓際の壁には、ジークハルトが腕を組んで立っていた。夫の顔は変わらず無表情だが、目の下に、うっすら疲れの影があった。


ヴィオレッタは、一度足を止めた。


欠片を見て、夫人を見て、父を見る。そして、私を見た。


「お母さま」


「ええ」


「……お隣に、座っていてください。壁のそばではなくて」


私は一瞬、言葉に詰まった。


「それが、あなたのしてほしいこと?」


「はい」


夫人が、小さくうなずいた。


「許可します。ただし、手出しも口出しも、なしで」


私は、娘の机の隣に椅子を運んだ。ヴィオレッタの隣に座ると、肩が触れそうな距離になった。娘は少しだけ体を固くして、それから、自分の机の前に向き直った。


欠片を、一つずつ拾い上げていく。


割れた石板の縁は鋭い。小さな指が、一度、びくりと跳ねた。それでも手を止めない。人差し指の腹に、赤い筋がにじんだ。


私は動かなかった。手を出せば、約束が破れる。それ以上に、この子がいま、自分の手で何かを片づけようとしているのを、遮りたくなかった。


最後の欠片を集めたとき、ヴィオレッタは、小さく息を吐いた。


「片づけました」


「ええ。拾い方が丁寧です」


夫人の声は、いつもと変わらなかった。


「では、昨日の続きから始めましょう。席を立つのは、授業が終わってからです」


◇


昼前の算術の時間に、夫人は昨日と同じ問題を、石板に書いた。


割り算に、引き算を重ねた、八歳には難しい問題だ。


ヴィオレッタは、石筆を握った。壁際の父の視線を、背中に感じているのが、肩のこわばりでわかる。


筆先が動いた。止まらない。式を重ね、数字を並べ、最後に、小さく丸をつけた。


十一。


夫人が、静かにうなずいた。


「正解です。昨日は途中で止めた問題ですね」


「はい」


「今日は、止めませんでした」


ヴィオレッタの頬が、ほんのり赤くなった。そのとき、壁際から低い声が落ちた。


「それは、誰に習った」


ジークハルトだった。


「……誰にも」


「誰にも?」


「数の本を、書庫で読みました。お父さまのお書きになった、帳簿の写しも」


夫の眉が、わずかに動いた。


「あれは、財務の者が使う写しだ。八つの子に読めるものではない」


「読めませんでした。でも、数字だけは、同じ形が何度も出てくるので、並べてみました」


壁際の空気が、変わった。


ジークハルトは、娘の石板を、しばらく見つめた。それから、静かに口を開いた。


「できるのなら、公爵家の娘として、できると言うべきだ。できない日があってはならない」


その言葉に、ヴィオレッタの背が、ぎゅっと縮んだ。


私は、とっさに口を開きかけた。けれど、先に声を出したのは、夫人だった。


「閣下」


ケスラー夫人は、立ち上がっていた。


「お嬢様は、昨日、できると思われると次ができなかったときに困る、と申されました。前の教師に、そう教え込まれたからです」


「それは、教師の教え方が悪い」


「ええ。そうでしょう。けれど、今のお言葉も、同じ響きをしております」


室内が、しんとした。


ジークハルトは、夫人を見据えた。しばらく、どちらも動かなかった。


私は、この人が、教師に反論されて怒るのではないかと思った。けれど、夫は、組んでいた腕をゆっくりほどいた。


「……できない日があってはならない、と私は言った」


「はい」


「それは、私が、父から言われた言葉だ」


その声は、ひどく疲れていた。


「できない日があった。何度も。だが、そう言える者は、誰もいなかった」


そして、娘を見た。


「ヴィオレッタ。できない日は、できないと言いなさい。それが、できる日と同じだけ、大事なことだ。……私は、そう言われたかった」


娘は、目を丸くした。


夫は、そこで咳払いをして、言い足した。


「ただし、できる日を増やす努力は、怠るな。公爵家の娘であることに、変わりはない」


結局、この人は、そこを譲れないのだろう。完全には変われない人の、精一杯の言葉だった。それでも、さっきまでの響きとは、確かに違っていた。


夫は壁際に戻り、窓の外へ視線を向けた。耳の先が、わずかに赤い。


◇


授業のあと、勉強部屋の扉の前で、レオンが待っていた。


ハンナに手を引かれ、ミミを抱えて、廊下に立っている。


「おねえさま!」


ヴィオレッタは、一瞬足を止めた。


「約束を、覚えていたのですか」


「うん。きょうは、おいそがしい?」


娘は、私を見て、それから弟を見た。迷うように、人差し指の傷を、親指で隠す。


「……三十分だけです」


「やった!」


廊下の窓辺の腰掛けで、ヴィオレッタは、小さな弟に、銀貨の数え方を教え始めた。


「一枚、二枚。五枚で、手のひらがいっぱいになります。レオンは、手が小さいから、四枚でいっぱいです」


「ミミのぶんは?」


「ミミは、お金を持ちません」


「じゃあ、ぼくがミミのぶんも、もつ」


「……それは、あなたの勝手です」


呆れた声だった。けれど、口元が、ほんの少しだけゆるんでいる。私と目が合うと、娘はあわてて表情を引き締めた。


私は、何も見ていないふりをして、窓の外へ視線をそらした。


◇


その夜、ヴィオレッタは、私の部屋の扉の前に立っていた。


寝間着の上に、薄い肩掛けを羽織り、図鑑を胸に抱えている。


「お母さま」


「どうしたの?」


「お願いが、あります。……今朝の、続きです」


「ええ。聞くわ」


娘は、視線を床に落とし、小さな声で言った。


「お祖母さまに、謝りに行きます。反省室の、ことを」


私は、息を止めた。


「いいの?」


「謝るのは、悔しいです。でも、お母さまが、見ているだけ以外のことをしてくださるなら」


ヴィオレッタは、顔を上げた。紫の瞳が、ためらいがちに私を見つめる。


「お祖母さまのお部屋の前まで、一緒に来てください。……そして、隣にいてください。入るときも」


私は、膝をつき、娘の目の高さに視線を合わせた。


「ええ。隣にいるわ」


娘は、小さくうなずいた。


廊下の奥で、マルガレーテの部屋の灯りが、ひそやかに揺れていた。

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