隣に座る
夜明け前に、私は書庫の扉を叩いた。
返事はなかった。そっと開けると、ジークハルトの姿はもうなく、書棚のあいだの絨毯に、ヴィオレッタだけが座っていた。図鑑を膝に開き、ヒワの絵をぼんやり眺めている。眠っていないのは、目の下の青さで知れた。
「おはよう」
娘は返事をしなかった。ページをめくる手が、ほんの少し速くなる。
私は少し離れた床に、腰を下ろした。同じ高さで、隣ではなく、斜め向かいに。
「昨日のこと、謝らせて」
ページをめくる手が止まった。
「見ているだけにする、と約束したのは、私の考えが足りなかったからよ。あなたを守るつもりで、あなたを一人にしてしまった。ごめんなさい」
大人の謝罪は、子どもに重荷を渡さないことが大切だ。許してもらおうとしてはいけない。ただ、事実を、短く。
「……謝られても、困ります」
ヴィオレッタは、図鑑から目を上げなかった。
「困らせたかったわけではないの。ただ、言っておきたかった」
長い沈黙があった。窓の外が少しずつ白んでいく。
「見ているだけ以外のことを、してください」
小さな声だった。
「何をしてほしいの?」
「それは……」
娘は唇を噛んだ。思いつかないのではない。口にしていいのかを、迷っているのだ。
「ゆっくり考えて。授業が始まるまでに、教えてくれればいいわ」
私は立ち上がり、図鑑を抱えたままの娘に手を差し出した。ヴィオレッタは、その手を見て、見て、そして自分の足で立ち上がった。手は、取らなかった。
それでも、昨日よりは近い、と思った。
◇
勉強部屋の机の上に、割れた石板の欠片が、昨日のまま並んでいた。
ケスラー夫人は、すでに教師用の机についている。窓際の壁には、ジークハルトが腕を組んで立っていた。夫の顔は変わらず無表情だが、目の下に、うっすら疲れの影があった。
ヴィオレッタは、一度足を止めた。
欠片を見て、夫人を見て、父を見る。そして、私を見た。
「お母さま」
「ええ」
「……お隣に、座っていてください。壁のそばではなくて」
私は一瞬、言葉に詰まった。
「それが、あなたのしてほしいこと?」
「はい」
夫人が、小さくうなずいた。
「許可します。ただし、手出しも口出しも、なしで」
私は、娘の机の隣に椅子を運んだ。ヴィオレッタの隣に座ると、肩が触れそうな距離になった。娘は少しだけ体を固くして、それから、自分の机の前に向き直った。
欠片を、一つずつ拾い上げていく。
割れた石板の縁は鋭い。小さな指が、一度、びくりと跳ねた。それでも手を止めない。人差し指の腹に、赤い筋がにじんだ。
私は動かなかった。手を出せば、約束が破れる。それ以上に、この子がいま、自分の手で何かを片づけようとしているのを、遮りたくなかった。
最後の欠片を集めたとき、ヴィオレッタは、小さく息を吐いた。
「片づけました」
「ええ。拾い方が丁寧です」
夫人の声は、いつもと変わらなかった。
「では、昨日の続きから始めましょう。席を立つのは、授業が終わってからです」
◇
昼前の算術の時間に、夫人は昨日と同じ問題を、石板に書いた。
割り算に、引き算を重ねた、八歳には難しい問題だ。
ヴィオレッタは、石筆を握った。壁際の父の視線を、背中に感じているのが、肩のこわばりでわかる。
筆先が動いた。止まらない。式を重ね、数字を並べ、最後に、小さく丸をつけた。
十一。
夫人が、静かにうなずいた。
「正解です。昨日は途中で止めた問題ですね」
「はい」
「今日は、止めませんでした」
ヴィオレッタの頬が、ほんのり赤くなった。そのとき、壁際から低い声が落ちた。
「それは、誰に習った」
ジークハルトだった。
「……誰にも」
「誰にも?」
「数の本を、書庫で読みました。お父さまのお書きになった、帳簿の写しも」
夫の眉が、わずかに動いた。
「あれは、財務の者が使う写しだ。八つの子に読めるものではない」
「読めませんでした。でも、数字だけは、同じ形が何度も出てくるので、並べてみました」
壁際の空気が、変わった。
ジークハルトは、娘の石板を、しばらく見つめた。それから、静かに口を開いた。
「できるのなら、公爵家の娘として、できると言うべきだ。できない日があってはならない」
その言葉に、ヴィオレッタの背が、ぎゅっと縮んだ。
私は、とっさに口を開きかけた。けれど、先に声を出したのは、夫人だった。
「閣下」
ケスラー夫人は、立ち上がっていた。
「お嬢様は、昨日、できると思われると次ができなかったときに困る、と申されました。前の教師に、そう教え込まれたからです」
「それは、教師の教え方が悪い」
「ええ。そうでしょう。けれど、今のお言葉も、同じ響きをしております」
室内が、しんとした。
ジークハルトは、夫人を見据えた。しばらく、どちらも動かなかった。
私は、この人が、教師に反論されて怒るのではないかと思った。けれど、夫は、組んでいた腕をゆっくりほどいた。
「……できない日があってはならない、と私は言った」
「はい」
「それは、私が、父から言われた言葉だ」
その声は、ひどく疲れていた。
「できない日があった。何度も。だが、そう言える者は、誰もいなかった」
そして、娘を見た。
「ヴィオレッタ。できない日は、できないと言いなさい。それが、できる日と同じだけ、大事なことだ。……私は、そう言われたかった」
娘は、目を丸くした。
夫は、そこで咳払いをして、言い足した。
「ただし、できる日を増やす努力は、怠るな。公爵家の娘であることに、変わりはない」
結局、この人は、そこを譲れないのだろう。完全には変われない人の、精一杯の言葉だった。それでも、さっきまでの響きとは、確かに違っていた。
夫は壁際に戻り、窓の外へ視線を向けた。耳の先が、わずかに赤い。
◇
授業のあと、勉強部屋の扉の前で、レオンが待っていた。
ハンナに手を引かれ、ミミを抱えて、廊下に立っている。
「おねえさま!」
ヴィオレッタは、一瞬足を止めた。
「約束を、覚えていたのですか」
「うん。きょうは、おいそがしい?」
娘は、私を見て、それから弟を見た。迷うように、人差し指の傷を、親指で隠す。
「……三十分だけです」
「やった!」
廊下の窓辺の腰掛けで、ヴィオレッタは、小さな弟に、銀貨の数え方を教え始めた。
「一枚、二枚。五枚で、手のひらがいっぱいになります。レオンは、手が小さいから、四枚でいっぱいです」
「ミミのぶんは?」
「ミミは、お金を持ちません」
「じゃあ、ぼくがミミのぶんも、もつ」
「……それは、あなたの勝手です」
呆れた声だった。けれど、口元が、ほんの少しだけゆるんでいる。私と目が合うと、娘はあわてて表情を引き締めた。
私は、何も見ていないふりをして、窓の外へ視線をそらした。
◇
その夜、ヴィオレッタは、私の部屋の扉の前に立っていた。
寝間着の上に、薄い肩掛けを羽織り、図鑑を胸に抱えている。
「お母さま」
「どうしたの?」
「お願いが、あります。……今朝の、続きです」
「ええ。聞くわ」
娘は、視線を床に落とし、小さな声で言った。
「お祖母さまに、謝りに行きます。反省室の、ことを」
私は、息を止めた。
「いいの?」
「謝るのは、悔しいです。でも、お母さまが、見ているだけ以外のことをしてくださるなら」
ヴィオレッタは、顔を上げた。紫の瞳が、ためらいがちに私を見つめる。
「お祖母さまのお部屋の前まで、一緒に来てください。……そして、隣にいてください。入るときも」
私は、膝をつき、娘の目の高さに視線を合わせた。
「ええ。隣にいるわ」
娘は、小さくうなずいた。
廊下の奥で、マルガレーテの部屋の灯りが、ひそやかに揺れていた。




