待つという流儀
「入ります」
自分の声が、思ったよりも落ち着いて聞こえた。
「三つ目の線です。席を立って、部屋を出ようとしました」
夫人の指が、留め金の上で止まった。
「では、わたくしの流儀で」
「その前に、五分だけいただけますか」
私は椅子から立ち上がった。
「あの子と、廊下で話をします。それで戻らなければ、そのときは夫人にお任せします」
ケスラー夫人は、短く考えてから手を引いた。
「五分です」
扉の前で、ヴィオレッタは動かなかった。取っ手に手をかけたまま、肩で息をしている。私が近づくと、一歩だけ後ずさった。
「お母さまも、叩くのですか」
「叩かないわ」
「では、叱るのですか。出ていこうとしたことを」
「出ていこうとしたことは、線を越えたことよ。それは、そうなの」
娘の顔が、さっとゆがんだ。
「だったら、お母さまだって同じです。お祖母さまも、先生も、お母さまも」
「ヴィオレッタ」
「お母さまは、見ているだけでした」
声が、割れた。
「反省室のときだって、そうでした。お祖母さまに言い返してくださったけれど、結局わたくしを出してはくださらなかった。今日も、先生のそばで座って、見ているだけで」
私は言葉を失った。
あの約束は、娘を守るためのものだった。そう信じていた。けれど八歳の子の目には、母が離れた席で黙って座っている光景としか映らなかったのだ。守っているつもりが、見捨てたのと同じ形をしていた。
前世で、同じ失敗を何度もした。大人が正しいと思う配慮は、子どもの目線に降りなければ、半分も届かない。
娘の目に涙はなかった。ただ、じっと私を見ている。紫の瞳の奥にあるのは、怒りというより、確かめるような色だった。この人は、味方なのか、そうでないのか。
「見ているだけと言ったのは、私よ」
ようやく、口が動いた。
「あなたを叩かせないために、そう約束したの。でも、それがあなたには、そういうふうに見えたのね」
「約束なんて、してくださらなくてよかったのです」
ヴィオレッタは、扉を押し開けた。
「お母さまなんて、大嫌いです」
走り去る足音が、廊下の向こうに消えていった。
私は追いかけようとした。けれど、背後から、静かな声が止めた。
「お待ちなさい、公爵夫人」
◇
ケスラー夫人は、割れた石板の欠片を拾い集めていた。
一つずつ、机の上に並べていく。私が戻ると、手を止めずに言った。
「追うのは、おやめなさい」
「ですが」
「追えば、お嬢様は走る速さを学びます。待てば、戻る道を学びます」
夫人は、最後の欠片を机に置いた。
「わたくしの流儀を、お見せしましょう」
そう言って、教師用の机の椅子を引き、ヴィオレッタの机の向かいに座った。かばんは足元に置いたまま、開けようともしない。
「線を越えた日の授業は、そこまでです。机は、そのまま空けておきます。お嬢様が戻られて、自分でこの欠片を片づけるまで」
「それだけですか」
「ええ。それだけです」
「杖は」
「使いません。使うまでもない、とわたくしは考えます」
夫人の口元が、また、ほんの少しだけ動いた。
「大奥様は、わたくしが杖を使うために来たとお考えです。公爵夫人も、そう思っておられたでしょう。けれど、わたくしが三十年のあいだ使ってきたのは、杖ではなく、待つことのほうです」
意外な言葉だった。
「杖は、その待つ時間が尽きたときのために、持ち歩いているだけです。一度も使わずに済んだ子は、実のところ、あまり多くありません」
多くない。けれど、いたのだ。
私は何も言えず、ただ、割れた石板と、空いたままの椅子を見つめた。
◇
その話を耳にしたマルガレーテは、夕刻、私を居間に呼びつけた。
「線を越えたのに、罰を与えなかったと聞きました」
「夫人が、与えないと決めました。私が止めたのではありません」
「同じことです」
姑は、手に持っていた刺繍の枠を、乱暴に膝の上に置いた。
「あなたが、約束を取りつけたのでしょう。三か月は杖を使わないと。それで、あの子が出ていっても、誰も何も言えなくなった」
「三か月は待つと、お義母さまはおっしゃいました」
「ええ、言いました。わたくしは、約束は守ります」
マルガレーテは、背筋をさらに伸ばした。
「けれど、あの子が今、屋敷のどこにもいないことは、あなたの責任です」
その言葉に、背筋が冷たくなった。
「どこにも、いない?」
「ベルタが、夕方の支度に部屋へ行ったら、もぬけの殻だったそうです。庭にも、厨房にも、いないと」
私は、ほとんど反射的に立ち上がっていた。
◇
屋敷じゅうの使用人が、ヴィオレッタを探していた。
ベルタは、使用人棟の隅から屋根裏まで、半泣きで走り回っている。ハンナは、レオンを寝かしつけながら、窓の外を何度も見ていた。ミーナは、玄関ホールの階段の下まで確かめている。
私は自分の部屋に走り、寝台の下まで覗いた。反省室にも行った。窓のない部屋の扉は、鍵がかかったまま、誰もいなかった。
暮れていく空の下、中庭の井戸の周りを歩いていると、足が震えた。
あの子は、八歳だ。靴も履き替えずに、外へ出たのではないか。門の外へ出て、街道のほうへ行ったのではないか。
オスカーが、門番の報告を持ってきた。
「門を通った者は、おりません。裏の厨房口も、閉まったままでした」
少しだけ、息ができた。
けれど、屋敷の中にいるなら、どこだ。
駆けてきたベルタが、息を切らしながら言った。
「奥様。お嬢様は、お小さいころ、叱られるとよくお姿が見えなくなったのだと、先輩の侍女から聞きました。そういうとき、三階の書庫の隅にいらしたそうです。ただ、誰も探しには行かなかったと」
「どうして?」
「書庫は、大奥様がお嫌いな場所なのです。紙の匂いが、と」
書庫。
ヒワの図鑑を見たことがある、と娘が言ったのは、反省室だった。この屋敷のどこかに、鳥の図鑑がある。そして、娘は、家族の誰からも見つからない場所を、知っているはずだ。
私は階段を駆け上がり、三階の廊下の突き当たりへ向かった。
書庫の扉は、少しだけ開いていた。
中から、灯りが漏れている。
扉を押そうとして、私は足を止めた。
書棚の間の絨毯の上に、ジークハルトが座っていた。
黒い髪の少女が、その膝に頭を乗せて眠っている。小さな手には、ヒワの絵が開かれたままの図鑑が、しっかりと握られていた。
「静かに」
夫は、私に気づいて、唇の前に指を立てた。
「ここにいると、知っていた」
声は低く、かすれていた。
「子どものころ、私も同じ場所に隠れていた。母上に叱られた日は」
そして、ジークハルトは娘の髪を、ぎこちない手つきで撫でた。
「半刻前に、見つけた。起こすのも気が引けて、ここにいた。使いの者を出すのも、忘れていた」
「連れ戻さなかったのですか」
「戻る気になるまで、待つものだと聞いた」
夫は、わずかに視線をそらした。
「ケスラー夫人が、さきほど私を呼び止めて、そう言った」
あの人は、夫にまで根回しをしていたのか。
私は思わず、息を吐いた。笑いとも、安堵ともつかない息だった。
ジークハルトは、膝の上の小さな頭を見下ろした。
「この子の寝顔を見るのは、生まれた日以来だ」
それが、父親という人の、ほとんど初めての弱音だったのかもしれない。
膝の上で、娘がうっすらと目を開けた。焦点の合わない紫の瞳が、まず父を、それから私をとらえる。
「……お母さま」
「ええ。探したわ」
ヴィオレッタは、それだけで顔をそむけた。図鑑をぎゅっと抱え直し、父の膝に、さらに深く顔を埋める。
「嫌われたようですね」
私が小声で言うと、夫は初めて、かすかに笑った。
「怒っているだけだろう。嫌いな相手の前で、子どもは寝たふりなどしない」
娘の背中が、ぴくりと震えた。寝たふりだったらしい。
夫は小さく咳払いをして、話を変えた。
「明日の授業を、私も見に行く」




