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悪役令嬢ではなく、その母親に転生しました。娘が断罪される前に家庭環境から直します  作者: ローナ


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6/22

三つの線

「背いたとき」の範囲を、私は一晩かけて紙に書いた。


朝になって、その紙を応接間に持っていった。ケスラー夫人は、すでに席についていた。手元のカップは空で、背筋はきのうと同じように伸びている。


「読ませていただきます」


夫人は紙を受け取り、上から順に目を走らせた。


一、人を傷つけること。言葉でも、手でも。

二、危険なこと。刃物や火や、高い場所。

三、授業の途中で、席を立って出ていくこと。


「三つだけですか」


「はい。間違いや、忘れ物や、嘘は入れていません」


「嘘を入れないのは、なぜです」


「嘘は、その場で正しても、増えるだけだからです。叩かれた子は、次は叩かれない嘘を覚えます」


夫人は紙から目を上げて、私をじっと見た。


「公爵夫人。あなたは、お嬢様が嘘をついたとき、どうなさるおつもりですか」


「授業のあとで、一緒に確かめます。何が本当で、何がそうでなかったか。その場では、叱りません」


「甘い、と大奥様はおっしゃるでしょう」


「ええ。きっと」


夫人は、ほんの少し口の端を持ち上げた。


「三つの線を、お受けします。ただし、線を越えたときは、わたくしの流儀で正します。それも、お約束ください」


「その流儀とは、何ですか」


「それは、そのときにお見せします」


答えをはぐらかされた気がした。けれど、ここで食い下がれば、この人は教室に入る前に私を信用しなくなる。


私はうなずいた。


◇


勉強部屋は、屋敷の南側の二階にあった。


大きな窓から光が入り、中央に机が二つ並んでいる。一つは娘の机。もう一つは、教師用の机だ。私は壁際に用意された椅子に座った。


ヴィオレッタは、朝食のときよりも青い顔をしていた。それでも、夫人が入ってくると、さっと立ち上がって礼をとる。


「おはようございます、ケスラー先生」


「おはようございます。座りなさい」


授業は、礼儀作法から始まった。


夫人は、扉の開け方、立ち方、礼の角度、お茶を注ぐときの手首の返しを、一つずつ確かめていった。ヴィオレッタは、どれも驚くほど正確にこなした。祖母の教えが、体に染みついているのだろう。


「よくできています」


「ありがとうございます」


返す声に、少しの熱もない。褒められて喜んでいるようには見えなかった。


次は、算術だった。


夫人が、石板に数字を書く。銀貨三十二枚を、四人で分けると、一人はいくらか。それから、銀貨三十二枚のうち、六枚を使うと、残りはいくらか。


ヴィオレッタは、石板に答えを書いた。八。二十六。


「正解です」


続けて、少し難しい問題が出た。三十二枚を、五人で分けるといくらで、いくら余るか。


娘は一瞬、考える顔をして、石板に書いた。六、余り二。


夫人の眉が、わずかに上がった。


「その問題は、まだ教わっていないはずですが」


「……前の先生に、少しだけ」


「では、これは」


夫人は、さらに難しい問題を石板に書いた。割り算に、引き算を重ねたものだ。八歳の子が解くには、ずいぶん先の内容だった。


ヴィオレッタは、石板を見つめたまま、石筆を動かさない。


やがて、小さく首を振った。


「わかりません」


「本当ですか」


「……はい」


夫人は、何も言わなかった。しばらく娘の顔を見つめて、それから石板に、答えを書き込んだ。


十一。


「これが正解です。あなたは、解けましたね」


ヴィオレッタの肩が、びくりと揺れた。


「わたくしは」


「解き方を、途中までなぞっていました。石筆の先が動いていた。最後の一歩のところで、止めただけです」


娘は唇を結び、机の上の石板を見下ろした。


「できると思われると、次ができなかったときに困ります」


声は、ほとんど聞こえないほど小さかった。


「前の先生は、一度できると、次からも必ずできなければならないとおっしゃいました。できないときは、手を打たれました」


私は椅子の上で、拳を握りしめた。


壁際に座っている私には、何も言えない。見ているだけ、と約束したのだ。


「そうですか」


夫人の声は、変わらなかった。


「わたくしは、できるときも、できないときもあると考えます。できなかった日は、それだけのことです。ただし、できるのにできないふりをすることは、許しません」


「なぜですか」


「あなたの時間が、もったいないからです」


それは、叱責というより、ただの事実を告げる声だった。


「あなたが本当にわからないことを、わたくしが教える。そのために、わたくしはここにいます。わかっていることを、わからないと言われると、教える順番が狂うのです」


ヴィオレッタは、石板から顔を上げた。


初めて、夫人の顔を正面から見た。


◇


昼食の席に、レオンが久しぶりに顔を出した。


熱が下がって三日。まだ頬は青白いが、ミミを膝に乗せ、椅子の上で足をぶらぶらさせている。


「おねえさま、きょうはなにをならったの?」


「算術です」


「さんじゅつって、おいしい?」


「食べ物ではありません」


ヴィオレッタは、スープに目を落としたまま答えた。けれど、レオンが気にせず続ける。


「ぼくもならう。あした、はんなにきく」


「あなたはまだ、字も読めないでしょう」


「でも、おねえさまのおべんきょう、きいてみたい」


姉の手が、スプーンを持ったまま止まった。


マルガレーテが、紅茶のカップ越しに二人を見ている。ヴィオレッタは、それに気づいたのか、急に背筋を伸ばした。


「算術は、お金の数え方です。教えてあげます。ただし、わたくしが忙しくない日に」


「うん!」


レオンの顔が輝いた。ヴィオレッタは、どう返していいかわからないというふうに、パンをちぎり始めた。


姑が、小さく鼻を鳴らした。


「甘い菓子はないというのに、ずいぶん機嫌のよいことですね」


それが嫌味なのか、ただの感想なのか、私には判断がつかなかった。ただ、娘の耳の先が、ほんのり赤くなったのは、見逃さなかった。


◇


午後の三つ目の線は、音楽の時間に試された。


夫人は、小さなクラヴィーアの前に娘を座らせ、簡単な曲を弾くよう命じた。


ヴィオレッタは、鍵盤に手を置いたまま、動かない。


「どうしました」


「弾けません」


「先ほどの算術のような、できるふりをやめるお話をしたばかりです」


「本当に、弾けないのです」


「楽譜は読めるはずです。大奥様の書き付けに、そうありました」


「読めても、弾けません。お祖母さまの前で何度も間違えて、そのたびに最初からやり直させられました。間違えるたびに、あの音が」


ヴィオレッタは、そこで言葉を切った。両手が膝の上で、白くなるほど握りしめられている。


私は、腰を浮かしかけて、座り直した。見ているだけ。そう約束したのだ。


ヴィオレッタの声は、尖っていた。夫人は、クラヴィーアの横に立ったまま、静かに待っている。その表情からは、何を考えているのか読み取れない。


娘の指が、鍵盤の上で震えた。最初の音は、まちがった場所を叩いた。二つ目の音も、ずれている。三つ目で、ひどい不協和音が、部屋じゅうに響いた。


「やめてください!」


ヴィオレッタは、立ち上がった。椅子が後ろに倒れ、石板が机から落ちて、真っ二つに割れた。


「わたくしは、クラヴィーアなんて好きではありません。お祖母さまが、弾けと言うから弾いているのです。誰にも聞かせたくありません!」


扉に向かって、娘が駆け出した。


線だ、と私は思った。三つ目の線。授業の途中で、席を立って出ていくこと。


夫人の手が、かばんの留め金に伸びた。


「公爵夫人」


静かな声だった。


「これは、背いたことに入りますか」


ヴィオレッタが、扉の取っ手に手をかけたまま、振り返った。


娘と、夫人と、私。三人の視線が、部屋の中でぶつかった。

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