三つの線
「背いたとき」の範囲を、私は一晩かけて紙に書いた。
朝になって、その紙を応接間に持っていった。ケスラー夫人は、すでに席についていた。手元のカップは空で、背筋はきのうと同じように伸びている。
「読ませていただきます」
夫人は紙を受け取り、上から順に目を走らせた。
一、人を傷つけること。言葉でも、手でも。
二、危険なこと。刃物や火や、高い場所。
三、授業の途中で、席を立って出ていくこと。
「三つだけですか」
「はい。間違いや、忘れ物や、嘘は入れていません」
「嘘を入れないのは、なぜです」
「嘘は、その場で正しても、増えるだけだからです。叩かれた子は、次は叩かれない嘘を覚えます」
夫人は紙から目を上げて、私をじっと見た。
「公爵夫人。あなたは、お嬢様が嘘をついたとき、どうなさるおつもりですか」
「授業のあとで、一緒に確かめます。何が本当で、何がそうでなかったか。その場では、叱りません」
「甘い、と大奥様はおっしゃるでしょう」
「ええ。きっと」
夫人は、ほんの少し口の端を持ち上げた。
「三つの線を、お受けします。ただし、線を越えたときは、わたくしの流儀で正します。それも、お約束ください」
「その流儀とは、何ですか」
「それは、そのときにお見せします」
答えをはぐらかされた気がした。けれど、ここで食い下がれば、この人は教室に入る前に私を信用しなくなる。
私はうなずいた。
◇
勉強部屋は、屋敷の南側の二階にあった。
大きな窓から光が入り、中央に机が二つ並んでいる。一つは娘の机。もう一つは、教師用の机だ。私は壁際に用意された椅子に座った。
ヴィオレッタは、朝食のときよりも青い顔をしていた。それでも、夫人が入ってくると、さっと立ち上がって礼をとる。
「おはようございます、ケスラー先生」
「おはようございます。座りなさい」
授業は、礼儀作法から始まった。
夫人は、扉の開け方、立ち方、礼の角度、お茶を注ぐときの手首の返しを、一つずつ確かめていった。ヴィオレッタは、どれも驚くほど正確にこなした。祖母の教えが、体に染みついているのだろう。
「よくできています」
「ありがとうございます」
返す声に、少しの熱もない。褒められて喜んでいるようには見えなかった。
次は、算術だった。
夫人が、石板に数字を書く。銀貨三十二枚を、四人で分けると、一人はいくらか。それから、銀貨三十二枚のうち、六枚を使うと、残りはいくらか。
ヴィオレッタは、石板に答えを書いた。八。二十六。
「正解です」
続けて、少し難しい問題が出た。三十二枚を、五人で分けるといくらで、いくら余るか。
娘は一瞬、考える顔をして、石板に書いた。六、余り二。
夫人の眉が、わずかに上がった。
「その問題は、まだ教わっていないはずですが」
「……前の先生に、少しだけ」
「では、これは」
夫人は、さらに難しい問題を石板に書いた。割り算に、引き算を重ねたものだ。八歳の子が解くには、ずいぶん先の内容だった。
ヴィオレッタは、石板を見つめたまま、石筆を動かさない。
やがて、小さく首を振った。
「わかりません」
「本当ですか」
「……はい」
夫人は、何も言わなかった。しばらく娘の顔を見つめて、それから石板に、答えを書き込んだ。
十一。
「これが正解です。あなたは、解けましたね」
ヴィオレッタの肩が、びくりと揺れた。
「わたくしは」
「解き方を、途中までなぞっていました。石筆の先が動いていた。最後の一歩のところで、止めただけです」
娘は唇を結び、机の上の石板を見下ろした。
「できると思われると、次ができなかったときに困ります」
声は、ほとんど聞こえないほど小さかった。
「前の先生は、一度できると、次からも必ずできなければならないとおっしゃいました。できないときは、手を打たれました」
私は椅子の上で、拳を握りしめた。
壁際に座っている私には、何も言えない。見ているだけ、と約束したのだ。
「そうですか」
夫人の声は、変わらなかった。
「わたくしは、できるときも、できないときもあると考えます。できなかった日は、それだけのことです。ただし、できるのにできないふりをすることは、許しません」
「なぜですか」
「あなたの時間が、もったいないからです」
それは、叱責というより、ただの事実を告げる声だった。
「あなたが本当にわからないことを、わたくしが教える。そのために、わたくしはここにいます。わかっていることを、わからないと言われると、教える順番が狂うのです」
ヴィオレッタは、石板から顔を上げた。
初めて、夫人の顔を正面から見た。
◇
昼食の席に、レオンが久しぶりに顔を出した。
熱が下がって三日。まだ頬は青白いが、ミミを膝に乗せ、椅子の上で足をぶらぶらさせている。
「おねえさま、きょうはなにをならったの?」
「算術です」
「さんじゅつって、おいしい?」
「食べ物ではありません」
ヴィオレッタは、スープに目を落としたまま答えた。けれど、レオンが気にせず続ける。
「ぼくもならう。あした、はんなにきく」
「あなたはまだ、字も読めないでしょう」
「でも、おねえさまのおべんきょう、きいてみたい」
姉の手が、スプーンを持ったまま止まった。
マルガレーテが、紅茶のカップ越しに二人を見ている。ヴィオレッタは、それに気づいたのか、急に背筋を伸ばした。
「算術は、お金の数え方です。教えてあげます。ただし、わたくしが忙しくない日に」
「うん!」
レオンの顔が輝いた。ヴィオレッタは、どう返していいかわからないというふうに、パンをちぎり始めた。
姑が、小さく鼻を鳴らした。
「甘い菓子はないというのに、ずいぶん機嫌のよいことですね」
それが嫌味なのか、ただの感想なのか、私には判断がつかなかった。ただ、娘の耳の先が、ほんのり赤くなったのは、見逃さなかった。
◇
午後の三つ目の線は、音楽の時間に試された。
夫人は、小さなクラヴィーアの前に娘を座らせ、簡単な曲を弾くよう命じた。
ヴィオレッタは、鍵盤に手を置いたまま、動かない。
「どうしました」
「弾けません」
「先ほどの算術のような、できるふりをやめるお話をしたばかりです」
「本当に、弾けないのです」
「楽譜は読めるはずです。大奥様の書き付けに、そうありました」
「読めても、弾けません。お祖母さまの前で何度も間違えて、そのたびに最初からやり直させられました。間違えるたびに、あの音が」
ヴィオレッタは、そこで言葉を切った。両手が膝の上で、白くなるほど握りしめられている。
私は、腰を浮かしかけて、座り直した。見ているだけ。そう約束したのだ。
ヴィオレッタの声は、尖っていた。夫人は、クラヴィーアの横に立ったまま、静かに待っている。その表情からは、何を考えているのか読み取れない。
娘の指が、鍵盤の上で震えた。最初の音は、まちがった場所を叩いた。二つ目の音も、ずれている。三つ目で、ひどい不協和音が、部屋じゅうに響いた。
「やめてください!」
ヴィオレッタは、立ち上がった。椅子が後ろに倒れ、石板が机から落ちて、真っ二つに割れた。
「わたくしは、クラヴィーアなんて好きではありません。お祖母さまが、弾けと言うから弾いているのです。誰にも聞かせたくありません!」
扉に向かって、娘が駆け出した。
線だ、と私は思った。三つ目の線。授業の途中で、席を立って出ていくこと。
夫人の手が、かばんの留め金に伸びた。
「公爵夫人」
静かな声だった。
「これは、背いたことに入りますか」
ヴィオレッタが、扉の取っ手に手をかけたまま、振り返った。
娘と、夫人と、私。三人の視線が、部屋の中でぶつかった。




