杖を持つ家庭教師
糸の件を話し合ったのは、面談の前夜だった。
刺繍の時間が一時間増えた初日、ヴィオレッタは枠を抱えて、昼から夕方まで一度も席を立たなかった。夕食のあと、私は娘の部屋に裁縫箱を持っていった。
「それは、わたくしのものではありません」
箱を見るなり、娘は後ずさった。
「ええ。私のよ。だから、持っていく前に聞いてほしかったの」
「聞いたら、だめだとおっしゃったでしょう」
「そうかもしれないわね」
私は箱の蓋を開け、紫の糸の束を取り出した。短くなった端が、ぎざぎざにほどけている。
「だめと言ったかもしれないし、言わなかったかもしれない。聞かなければ、わからないままよ。それに、勝手に引きちぎると、糸も痛むわ。次に使うときは、鋏を使いなさい。ここに入っているから」
ヴィオレッタは、きょとんとした顔をした。叱られると思っていたのだろう。
「……それだけですか」
「それだけよ。ああ、針は返してちょうだい。一本足りないの」
娘はしばらく迷ってから、寝台の枕の下を探った。取り出した針は、紙に丁寧にくるまれていた。先が少し曲がっている。
「曲がってしまいました」
「ええ。よく頑張った証拠ね」
言ってしまってから、しまった、と思った。娘の目が、警戒するようにすっと細くなる。
「わたくしは、縫っておりません」
「ええ、聞いたわ。針は、ただ借りただけね」
ヴィオレッタは唇を噛み、そっぽを向いた。けれど、私が針を受け取るあいだ、その手を引っ込めようとはしなかった。
◇
ケスラー夫人が屋敷に着いたのは、翌日の昼前だった。
応接間に通された女性は、四十代半ば。灰色の髪をひっつめ、黒い服の襟元まできっちり留めている。背筋は定規を当てたように伸び、座ってからも、カップに手を伸ばすまで一呼吸の間があった。
「イゾルデ・ケスラーと申します。リヒテンベルク公爵夫人、お目にかかれて光栄です」
挨拶は完璧だった。礼の角度も、声の高さも。
同席しているのは、私とマルガレーテ、それに家令のオスカーだけだ。ジークハルトは、王宮での会議を理由に欠席していた。
「ケスラー夫人は、先代公爵夫人のご紹介と伺っています」
「はい。三十年ほど前、わたくしが家庭教師の見習いだったころ、大奥様のお屋敷で一年ほどお世話になりました」
マルガレーテが、小さくうなずいた。
「彼女の教え子は、どの家でも立派なご令嬢になっています。わたくしが保証します」
「教育の方針をお聞かせください」
私が切り出すと、ケスラー夫人は少しも間を置かずに答えた。
「礼儀作法、読み書き、算術、音楽、刺繍、淑女としての立ち居振る舞い。午前に四時間、午後に二時間。間違いは、その場で正します」
「その場で、とは」
「言葉で足りなければ、手を使います」
夫人は膝の上に置いたかばんの留め金に、指を添えた。
「細い杖です。手のひらを打つのに使います。お嬢様の学びを妨げるような怪我は、いたしません」
応接間の空気が、すっと冷えた。
オスカーは表情を変えなかったが、視線が床に落ちた。マルガレーテは、何も言わずにカップを口に運ぶ。この屋敷では、それが当たり前なのだと、二人の沈黙が告げていた。
「夫人ご自身は、そのように教わったのですか」
「はい」
夫人は、あっさり認めた。
「わたくしの母は、教えを怠れば娘は恥をかくと信じておりました。わたくしは、その恥をかかずに済んだ。だから感謝しております」
嘘ではなかった。目を見ればわかる。この人は、本当にそう信じて生きてきたのだ。
前世でも、こういう人には何人も会った。自分が受けた痛みを、愛情の形として覚えてしまった人。そういう人に「それは間違いです」と正面から言えば、その人の人生そのものを否定することになる。
「夫人。一つ、お願いがあります」
「何でしょう」
「杖は、使わないでください。少なくとも、最初の三か月は」
「それでは、お嬢様が侮りますよ」
夫人の声は、冷たくも温かくもなかった。ただ、事実を述べる調子だった。
「幼い子は、境目を試します。どこまでなら許されるか。そこで線を引かなければ、あとで引くほうが、ずっと苦しい思いをさせます」
もっともな話だった。線を引かない優しさが、子どもを不安にさせることは、私も知っている。
「線は引いてください。ただ、その引き方を、私にも見せてほしいのです。三か月、授業の初めと終わりに、私も同席します」
「公爵夫人が、教室に」
「ええ」
マルガレーテが、カップを置いた。
「クラリッサ。それでは、教師の権威が」
「三か月だけです。結果が出なければ、お義母さまとケスラー夫人のやり方に、私は二度と口を挟みません」
姑は私をじっと見た。私は目をそらさなかった。
長い沈黙のあと、ケスラー夫人が口を開いた。
「面白い取り決めです。わたくしは、構いません」
その口元が、ほんの少しだけ動いた。笑ったのか、挑んだのか、わからなかった。
「ただし、公爵夫人。三か月のあいだに、お嬢様がわたくしの教えに背いたときは、わたくしの流儀で正します。それは、お約束いただけますか」
答えはすぐには出なかった。杖を使わない約束と、使う約束。両立するはずがない。
「……背いたとき、というのが、どの程度のことなのか。先に決めさせてください」
「では、明日の午後までにお決めください。わたくしは、今日はお嬢様にご挨拶だけ」
夫人が席を立ったあと、マルガレーテは私を呼び止めた。
「あなたは、あの人を教室から追い出したいのだと思っていました」
「そのつもりはありません。あの方の言うことにも、理があります」
「では、なぜ三か月も」
「見たいのです。あの子が、叩かれる前に何を考えるのか。叩かれたあとに何を覚えるのか」
姑は眉を寄せ、しばらく黙っていた。
「わたくしは、あの子のためを思って、あの人を呼んだのですよ」
「存じております」
それは本心だった。この人の厳しさは、家と孫を守るためのものだ。ただ、守り方が、私とは違うだけで。
「……三か月です。それ以上は、待ちません」
姑は振り返りもせず、背筋を伸ばしたまま去っていった。
◇
ヴィオレッタは、廊下の突き当たりの窓辺で待たされていた。
扉が開き、ケスラー夫人が一歩ずつ近づいていく。娘は立ち上がり、きれいな礼をとった。祖母に叩き込まれた作法そのものだった。
「ヴィオレッタ・リヒテンベルクでございます」
「イゾルデ・ケスラーです。顔を上げなさい」
夫人はしばらく、娘の顔を見つめた。それから、娘の手を取った。裏返し、指先を灯りにかざす。針で刺した小さな赤い点が、いくつも並んでいる。
「刺繍をなさっていたのですか」
「はい。罰で、一時間増やされました」
「そう」
夫人は娘の指を放し、廊下の窓の外に目を向けた。
「うさぎの耳を縫ったのは、あなたですね」
ヴィオレッタの顔から、血の気が引いた。
私はとっさに一歩踏み出した。けれど、夫人は私に背を向けたまま、静かに続けた。
「縫い目を見れば、わかります。大奥様に見せていただきました。四つ目と五つ目の針目が、ほかより深い。慣れない者が、泣きながら縫うときの癖です」
娘は答えなかった。小さな拳が、スカートの陰で震えている。
「わたくしは、あなたを叱りません。ただ、覚えておいてください」
ケスラー夫人は、娘に向き直った。
「嘘をつく子は、わたくしの授業では、いつも二つのことをします。一つは、悪いことを隠す。もう一つは、良いことを隠す。あなたは、どちらも上手です」
そして、夫人は初めて、はっきりと微笑んだ。
「明日から、よろしくお願いします。お嬢様」




