紫の糸
マルガレーテは、約束どおり朝一番にやってきた。
侍女を二人従え、扉を開けるなり部屋を見渡す。その目が、私の手の中のうさぎで止まった。
「戻ったのですか」
「はい。明け方に、レオンの枕元に」
「誰が戻したのです」
「わかりません。私もハンナも、眠ってしまっていて」
姑は無言で手を差し出した。私がミミを渡すと、ちぎれた左耳を窓の明かりにかざす。不揃いな紫の針目を、指先でひとつずつなぞっていった。
「ひどい縫い目ですね」
それだけ言って、マルガレーテはミミを私に返した。
「戻ったからといって、なかったことにはなりません。持ち出したのは誰か。耳をちぎったのは誰か。朝食の席で、わたくしがあの子に直接聞きます」
「お義母さま、その前に私が」
「いいえ」
短い、きっぱりとした声だった。
「あなたは昨日、一晩待てとおっしゃった。わたくしは待ちました。今度は、わたくしの番です」
反論はできなかった。取引をしたのは私のほうだ。
姑が出ていったあと、寝台のレオンが目をこすりながら起き上がった。熱は少し下がったらしい。私の手にあるうさぎを見つけるなり、ぱっと顔を輝かせる。
「ミミ!」
小さな腕が、うさぎをぎゅっと抱きしめた。それから、縫い目に気づいて首をかしげる。
「おみみ、むらさきになってる」
「ええ。誰かが、直してくれたみたいね」
◇
自分の部屋に戻ると、私はまっすぐ裁縫箱を開けた。
刺繍糸の束が並ぶ中、紫の一束だけが、不自然に短くなっている。切り口はぎざぎざで、鋏ではなく、手で無理に引きちぎったようだった。針山からは、細い針が一本なくなっている。
ミミの耳の縫い目を思い出す。慣れない手で、暗がりの中、何度も指を刺しながら縫ったのだろう。
あの子は二日前、この部屋に入りたがって香水瓶を割った。そして昨夜、私が息子の部屋にいる間に、もう一度この部屋に入ったのだ。
叱るべきことは、いくつもある。人の物を持ち出したこと。嘘をついたこと。おそらく、ミミの耳をちぎったことも。
けれど私は、短くなった糸の束をしばらく見つめたまま、蓋を閉じられずにいた。
◇
朝食の席には、ジークハルトの姿もあった。
夫は新聞代わりの書簡に目を通しながら、黙々とパンを口に運んでいる。ヴィオレッタは一番端の席で、背筋を伸ばして座っていた。目の下が、うっすらと青い。
マルガレーテが、カップを置いた。
「ヴィオレッタ。レオンのうさぎが、今朝戻りました」
娘の手が止まる。
「昨日の朝、あの部屋に入ったのはあなたですね」
「……はい」
「持ち出したのも」
長い沈黙のあとで、ヴィオレッタは小さくうなずいた。
私は息をのんだ。昨日は最後まで「知りません」と言い張った子が、祖母の前で認めた。それが良いことなのか、ただ怖かったからなのか、今の私には見分けがつかない。
「耳をちぎったのは」
「引っぱったら、取れてしまったのです。ちぎるつもりは、ありませんでした」
声が震えていた。嘘ではないのだろう、と思う。けれど、なぜ引っぱったのかを、娘は言わなかった。
「では、縫ったのは」
ヴィオレッタの肩が、びくりと跳ねた。
「知りません」
今度は、はっきりとした声だった。顔を上げ、祖母をまっすぐに見ている。
「わたくしは、縫っておりません」
私は思わず娘を見た。
悪いことは認めて、良いことのほうを否定する。前世でも、ときどきこういう子がいた。褒められることに慣れていない子ほど、自分のした良いことを隠したがる。見つかれば、何か別のことで責められると思っているかのように。
マルガレーテは、孫の顔を長いあいだ見つめていた。
「そうですか」
それ以上、問い詰めはしなかった。
「では、罰を言い渡します。今日のうちに、あなたの口からレオンに謝りなさい。それから、明日から刺繍の時間を毎日一時間増やします」
「刺繍、ですか」
「公爵家の娘が、あのような縫い目しか作れないようでは困りますから」
ヴィオレッタの顔に、さっと赤みがさした。
私は姑の横顔を盗み見た。表情は少しも変わっていない。けれど、今の言葉は、ミミの縫い目を誰が縫ったのか承知のうえで言ったようにしか聞こえなかった。
ジークハルトが、書簡から顔を上げた。
「話は済んだか」
「ええ」
夫は娘を一瞥し、何も言わずに席を立った。
◇
食堂を出たところで、ベルタが私を待っていた。
洗い上げたばかりのリネンを胸に抱え、落ち着かない様子で辺りを見回している。
「奥様。少しだけ、よろしいでしょうか」
廊下の窓辺に寄ると、ベルタは声を落とした。
「昨夜、お嬢様のお部屋の明かりが、遅くまでついておりました。お休みの支度をしに伺ったら、追い返されてしまって」
「何をしていたか、見た?」
「いいえ。ただ……明け方に、お嬢様が廊下を歩いていらっしゃるのを見ました。裸足で、何かを胸に抱えて、坊ちゃまのお部屋のほうへ」
ベルタはリネンを握りしめた。
「お止めすべきでした。大奥様にも、申し上げておりません。申し訳ございません」
給金を半分にされたのは、つい昨日のことだ。それでも、この子はヴィオレッタのことを告げ口しなかった。
「止めなくてよかったのよ。あの子が自分で決めて、自分で歩いていったのだもの」
ベルタは目を丸くした。
「それに、ベルタ。今日、あの子の指に傷がないか、気をつけて見てあげてくれる? 針で刺したかもしれないから」
「針、でございますか」
それだけで、ベルタは何かを察したらしい。小さく息をのみ、深く頭を下げた。
「かしこまりました。……お嬢様には、内緒にいたします」
ベルタの声には、昨日まではなかったやわらかさがあった。
原作で、この侍女はヴィオレッタの命令でヒロインを階段から突き落とす。主人に逆らえず、最後は一緒に罰せられた。その少女が今、主人の小さな秘密を守ろうとしている。
◇
昼下がり、ヴィオレッタは自分からレオンの部屋の前に立った。
一人で入るのかと思ったが、扉の前で振り返り、私の袖をつまんだ。
「お母さまも、来てください」
「私は一緒に行くだけよ。謝るのは、あなた」
「わかっています」
娘はむっとしたように唇をとがらせた。袖をつまむ指先に、小さな赤い点がいくつも見える。ベルタが見る前に、私が見つけてしまった。
「……お母さまは、怒っていないのですか。糸のこと」
小さな声だった。私の裁縫箱から持ち出したことは、どうやら認めるつもりらしい。
「黙って持っていったことは、あとでちゃんと話しましょう。でも、あの糸を何に使ったのかは、聞かないでおくわ」
ヴィオレッタは目をしばたたき、ぷいと顔をそむけた。耳が赤い。
レオンは寝台の上で、ミミを膝に乗せていた。姉の姿を見ると、少しだけ体を固くする。
ヴィオレッタは寝台の手前で立ち止まった。両手を握りしめ、床を見て、それから弟を見た。
「ミミを持っていって、ごめんなさい。耳も……ごめんなさい」
レオンはきょとんとしていたが、やがてミミの耳を姉のほうへ向けた。
「おねえさま、これ、なおしてくれたの?」
「知らないわ」
即座の否定だった。けれど、ヴィオレッタの視線は紫の糸に吸い寄せられ、離れない。
「……でも、紫はミミに似合わないわ。灰色のほうがいい」
娘は早口で続けた。
「刺繍の時間が増えるのだもの。上手になったら、灰色の糸でやり直してあげてもいいわ」
レオンの顔が、ぱっと明るくなった。
「ほんと?」
「上手になったら、よ」
私は何も言わなかった。言えば、この子はまた「知りません」と言うだろう。今はそれでいい。
◇
その日の夕方、書斎の前でジークハルトに呼び止められた。
「ケスラー夫人との面談が、三日後に決まった」
「ずいぶん急ですね」
「母上が早めるよう手紙を出された。今朝の件を受けて、だそうだ」
夫は事務的に告げ、書斎の扉に手をかけた。そこで、思い出したように付け加える。
「母上はこうもおっしゃっていた。あの方なら、嘘をつく子の扱いを心得ている、と」
扉が閉まる。
私は廊下に一人残された。ケスラー夫人がどんな教師なのか、原作には一行も書かれていない。私が知っているのは、この屋敷で育ったヴィオレッタが、十年後に断罪されるということだけだった。




