灰色のうさぎ
「ヴィオレッタ」
声をかけると、娘はびくりと肩を揺らし、取っ手から手を離した。
「レオンのお見舞い?」
「違います」
答えは早かった。早すぎるくらいだった。
「通りかかっただけです。それに、レオンの熱は、わたくしのせいではありません」
誰もそんなことは言っていない。私が口を開く前に、娘は続けた。
「お祖母さまが、わたくしが朝から騒いだせいで、屋敷が落ち着かないとおっしゃいました。でも、レオンはいつも熱を出すのです。わたくしが何もしなくても」
「ええ、そうね。あなたのせいだなんて、私は思っていないわ」
ヴィオレッタは唇を引き結んだ。安心したのか、それとも当てが外れたのか、どちらともつかない顔だった。
「一緒に入る?」
「入りません。うつったら、また閉じ込められますもの」
そう言い捨てて、娘は廊下を駆けていった。走ってはいけません、と叱る声が、どこか遠くから聞こえた気がした。
◇
レオンの部屋は、薬草を煎じた匂いがこもっていた。
寝台のそばで、年配の乳母が濡れた布を絞っている。名をハンナという。四十を少し過ぎたくらいだろうか。私を見ると、驚いたように立ち上がった。
「奥様。お体は、もう」
「ええ。レオンの具合は?」
「お医者さまのお話では、いつもの熱だそうです。二、三日で下がるだろうと」
いつもの。その言葉が、小さく引っかかった。
寝台の上で、小さな男の子が目を開けた。栗色の髪が、汗で額に張りついている。私と同じ色の髪だ。
「……おかあさま?」
「ええ。来たわよ、レオン」
枕元に腰を下ろすと、息子は熱で潤んだ目を何度もまたたいた。
「ほんとうに、来てくれた」
その一言で、わかってしまった。
この子にとって、母が見舞いに来るのは「ほんとう」と確かめなければならないほど、珍しいことなのだ。クラリッサは、娘だけを遠ざけていたわけではない。二人の子どもの、どちらのそばにもいなかった。
額に手を当てる。熱い。けれど、呼吸は落ち着いている。
「おかあさま。ミミがいないの」
「ミミ?」
「うさぎ。ぼくのうさぎ」
ハンナが申し訳なさそうに頭を下げた。
「坊ちゃまの縫いぐるみでございます。今朝まで枕元にあったのですが、昼から見当たらなくて」
それから、ハンナはわずかに言いよどんだ。
「今朝……お嬢様が、一度だけお部屋にいらっしゃいました。すぐに出ていかれましたけれど」
私はレオンの手を握ったまま、黙ってうなずいた。
「すぐに見つかるわ。だから、少しお休みなさい」
息子は目を閉じかけて、もう一度だけ私を見上げた。
「おねえさま、おこってる?」
「どうして?」
「おねえさま、ぼくがおかぜをひくと、いつもこわいかおをするの」
五歳の子は、大人が思うよりずっとよく見ている。
「怒っていないわ。たぶん、少し寂しいだけ」
「さびしい?」
「ええ。だから、元気になったら、お姉さまとお菓子を食べましょうね」
レオンはこくんとうなずき、今度こそ素直に目を閉じた。
軽々しく約束してしまったことを、私はこのあと後悔することになる。
◇
部屋を出たところで、マルガレーテと鉢合わせた。
姑は私の顔を見て、それからレオンの部屋の扉に目をやった。
「ようやく、もう一人の子を思い出したのですね」
皮肉を言い返す気にはなれなかった。事実だったからだ。
「ハンナから聞きました。ミミがなくなったそうですね。そして今朝、ヴィオレッタがこの部屋に入ったと」
「ええ」
「では、あの子の部屋を探させます」
マルガレーテはすでに、背後の侍女に目配せをしていた。
「お待ちください、お義母さま」
「また待てと言うのですか。熱のある子が泣いているのですよ。あなたは、ヴィオレッタの機嫌とレオンの眠りと、どちらが大事なのです」
鋭い問いだった。そして、どちらと答えても間違いになる問いでもあった。
「どちらも大事です。だから、あの子が自分で返す機会を、一晩だけください」
「返さなかったら?」
「そのときは、お義母さまのなさりたいようになさってください。私は止めません」
姑は長いあいだ私を見ていた。
「明日の朝までです。それを過ぎたら、わたくしが探させます。そして、あの子には相応の罰を与えます」
背を向けたマルガレーテの靴音が、廊下に硬く響いた。
◇
夕方、ヴィオレッタの部屋の扉を叩いた。
娘は机に向かい、ケスラー夫人が来るまでの課題だという書き取りをしていた。ペンを持つ手が、私の姿を見て止まる。
部屋を見回すまでもなかった。寝台の下から、灰色の布の耳が片方だけのぞいている。
「ヴィオレッタ。レオンのうさぎを知らない?」
「知りません」
娘は書き取りに目を戻した。ペン先が紙をひっかく音が、少しだけ強くなる。
私は寝台の下に目を向けなかった。取り出して突きつけるのは簡単だ。けれどそうすれば、この子が覚えるのは、嘘はいずれ見つかるということだけだろう。
代わりに、娘の隣の椅子に腰を下ろした。
「レオンね、ミミがいないと眠れないそうよ。熱があるのに、ずっと探していたわ」
「……レオンは、いつもそうです」
「いつも?」
「熱を出せば、ハンナがずっとそばにいて、お医者さまが来て、お祖母さまも様子を見にいらっしゃる。お母さまだって、今日は行ったのでしょう」
ペンが止まった。
「わたくしが熱を出したときは、ベルタしか来ませんでした」
紙の上に、インクの染みがじわりと広がっていく。
私は娘の横顔を見つめた。妬みと呼ぶには、あまりにも小さくて、まっすぐな声だった。
「そうだったのね」
「レオンなんて、うさぎがなくても平気です。みんながいるもの」
「みんながいても、ミミがいないと寂しいこともあるわ。あなたが、お母さまの部屋の匂いを知りたかったのと同じように」
ヴィオレッタは答えなかった。机の端を見つめたまま、じっと動かない。
私は少し迷ってから、本当のことを伝えることにした。
「お祖母さまはね、明日の朝までにミミが見つからなければ、屋敷じゅうを探させるとおっしゃっているわ。この部屋も」
娘の肩が、はっきりとこわばった。
「脅しているのではないの。知らないまま朝が来るのは、あなたにとって不公平だと思ったから話したのよ」
「……わたくしは、知りません」
声は小さく、さっきより弱かった。
私は待った。けれど、娘は最後まで、寝台の下のことを口にしなかった。
「今日は、もう行くわね」
立ち上がっても、引き留める声はなかった。
◇
その夜、レオンは何度も目を覚ましては、ミミを探して泣いた。
すぐに見つかると言ったのは私だ。ハンナに代わって寝台のそばに座り、自分の肩掛けを丸めて息子の腕に抱かせた。
「おかあさまの、においがする」
レオンはそれを抱きしめ、ようやく寝息を立て始めた。
窓の外が白み始めたころ、私は椅子の上で浅い眠りに落ちていたらしい。
目を覚ましたとき、寝台の上に、灰色のうさぎが置かれていた。
レオンの腕の中ではない。枕元に、そっと寄せるように。
手に取って、私は息をのんだ。
左の耳が、付け根のところで一度ちぎれている。それを、ひどく不揃いな針目で縫い合わせてあった。糸は紫色だった。
「ハンナ。夜のうちに、誰か来た?」
部屋の隅で控えていた乳母は、首を横に振った。
「申し訳ございません。明け方に少し、うとうとしてしまいまして……どなたがいらしたのか、気づきませんでした」
ハンナが青ざめるのを、私は手で制した。椅子で眠りこけていたのは、私も同じだ。
誰かが、二人の大人が眠っている隙に、足音を殺して入ってきた。そして、レオンを起こさないように、そっと出ていった。
約束の朝は、もう来ている。マルガレーテが侍女を連れてくる前に、うさぎは戻った。
紫の糸。
私は自分の部屋の裁縫箱を思い浮かべた。刺繍の糸を、紫と銀のどちらにするか迷っている――反省室でそう話したのは、二日前のことだ。
縫い目の端から、ほつれた糸が一本、垂れ下がっていた。




