父の帰還
翌朝、私はヴィオレッタの手を引いて、使用人棟の廊下を歩いていた。
娘の足取りは重い。一歩進むたびに、握った手に力がこもる。
「お母さま。やはり、ベルタをこちらに呼べばよいのではありませんか」
「謝りに行くのは、謝る側よ」
「……公爵家の娘が、使用人の部屋に行くなんて」
その言い方は、きっと祖母の受け売りなのだろう。
ベルタは、洗濯場の脇にある小部屋で繕い物をしていた。十九歳。そばかすの浮いた頬に、赤く腫れた目元。私たちの姿を見るなり、針を取り落として立ち上がる。
「奥様、お嬢様。こ、このような所に」
「仕事中にごめんなさい。ヴィオレッタが、あなたに話があるの」
背中を軽く押すと、娘は一歩だけ前に出た。唇を結び、床の一点を見つめている。
長い沈黙だった。ベルタの視線が、助けを求めるように私と娘の間を行き来する。
「……香水瓶を割ったのは、わたくしです。あなたのせいにして、ごめんなさい」
言えた。私が息をつきかけたとき、娘は顎を上げて付け足した。
「でも、ベルタだって廊下にいたでしょう。止めてくれればよかったのに」
ベルタの顔がこわばる。
昨夜の涙が嘘のように、娘の声は尖っていた。けれど私は驚かなかった。一晩で人は変わらない。八歳の子なら、なおさらだ。
「ヴィオレッタ。前半は、とても立派だったわ」
娘がちらりと私を見上げる。
「後ろの半分は、また今度考えましょう。今日は前半だけで十分」
娘は何か言いかけて、やめた。言い返す代わりに黙ったのなら、昨日よりは一歩前だ。
ベルタは深々と頭を下げた。
「もったいないお言葉でございます」
その声に、安堵の色はない。部屋を出る前に、私は彼女の手元に目をやった。繕っているのは、自分のお仕着せの袖だ。
「ベルタ。この件で、何か罰を受けたの?」
「……今月のお給金を、半分に。大奥様のご判断です」
ヴィオレッタが小さく息をのむのが、つないだ手を通して伝わってきた。
◇
「ベルタの給金を戻せ、と?」
朝食の席で、マルガレーテはナイフを置いた。
「ヴィオレッタが自分で割ったと認めました。罪のない者に罰を残すのは、お義母さまのお望みではないでしょう」
「認めた、ですって。わたくしには、まだ一言も謝っておりませんけれど」
祖母の視線が向くと、ヴィオレッタはパンをちぎる手を止めた。
「それに、聞きましたよ、クラリッサ。この子を食堂に出さなかった代わりに、あなたの部屋で夕食をとらせ、寝台で眠らせたそうですね」
ミーナか、それとも別の誰かか。屋敷の中のことは、この人の耳にすべて届くらしい。
「食堂には出しておりません」
「わたくしが食堂に出さないと言ったのは、温かい食卓につかせないためです。あなたは罰を褒美にすり替えた。子どもはそういうことを、よく覚えていますよ」
返す言葉が、すぐには出てこない。
屁理屈だと、自分でもわかっていた。それを、この人は正面から言い当てたのだ。
「給金の件は、オスカーに戻させます」
マルガレーテはそう言って、紅茶に口をつけた。
「使用人に咎がなかったのなら、当然のことです。ですが、ヴィオレッタ。あなたがわたくしに謝るまで、午後のお菓子はありません」
「お祖母さまは、わたくしを閉じ込めたではありませんか!」
ヴィオレッタが椅子を鳴らして立ち上がった。
「暗くて、寒くて、誰も来なかった! なのに、わたくしだけが謝るのですか!」
皿の上でフォークが跳ね、床に落ちる。給仕の若い従僕が身をすくめた。
「座りなさい、ヴィオレッタ」
マルガレーテの声は低く、冷たい。
「ご覧なさい、クラリッサ。これが一晩甘やかした結果です」
私は娘の肩に手を置いた。震えている。怒りだけではなく、たぶん、自分でも止められない何かに。
「ヴィオレッタ。座りましょう。言いたいことは、あとで私が全部聞くわ」
娘は私の手を振り払いかけて、その手を宙で止めた。それから、どさりと椅子に座り直し、最後まで顔を上げなかった。
◇
約束どおり、朝食のあとで娘の部屋を訪ねた。
ヴィオレッタは窓辺の椅子で膝を抱えていた。私が入っても、こちらを見ようとしない。
「お菓子のこと、お母さまからお祖母さまに頼んではくださらないのですか」
「頼まないわ」
娘の肩がぴくりと揺れた。
「お祖母さまが決めたことを、私が勝手に取り消したら、あなたはこれから先、困ったときに私のところへ逃げてくればいいと覚えてしまう。それは、あなたのためにならないもの」
「……お母さまも、お祖母さまの味方なのですね」
「どちらの味方でもないわ。でも、閉じ込められて寒かったことは、本当に怒っていいことだと思う」
ヴィオレッタがようやく振り向いた。紫の瞳が、疑うように細められる。
「怒っていいのですか」
「ええ。ただ、フォークを落とすのは別よ。怒っていることは、言葉で言えばいいの」
娘はしばらく黙り込み、それから膝に顔を埋めた。
「お父さまが今日お戻りになるのでしょう。お祖母さまは、きっと全部言いつけます」
その声には、怒りよりも怯えが混じっていた。
◇
昼過ぎ、公爵家の馬車が門をくぐった。
玄関ホールには使用人が並び、その端にヴィオレッタが立っていた。誰に言われたわけでもない。朝食のあと、自分で着替えて待っていたのだと、ベルタがそっと教えてくれた。
扉が開き、背の高い男が入ってくる。黒い髪に、灰色の瞳。旅装の外套を従僕に預けながら、男は使用人たちに短くうなずいた。
ジークハルト・リヒテンベルク。私の夫であり、娘の父親だ。
ヴィオレッタが一歩前に出て、きれいな礼をとる。
「お帰りなさいませ、お父さま」
「ああ」
ジークハルトは娘を見下ろした。
「変わりはないか」
「はい」
「そうか」
それだけだった。夫の視線はすでに私に移り、それから階段の上へ向かう。
「クラリッサ。一時間後に書斎へ。母上と先に話をする」
靴音が遠ざかっていく。ヴィオレッタは礼の姿勢のまま、しばらく動かなかった。
◇
書斎は、紙とインクの匂いがした。
ジークハルトは机の向こうで、一通の手紙を指先で叩いている。マルガレーテの早馬の文だろう。
「母上から聞いた。あなたが反省室の扉を開けさせ、母上の決めた罰に口を挟んだと」
「はい」
「九年間、あなたはヴィオレッタの教育に一度も口を出さなかった」
責める口調ではない。帳簿の数字を読み上げるような、平らな声だ。
「熱で倒れて、何が変わった」
一瞬、心臓が跳ねた。この人は、思っていたより鋭い。
「……三日寝込んでいる間、あの子の声を思い出そうとしたのです。けれど、ほとんど思い出せませんでした」
嘘ではなかった。この体に残る記憶の中で、ヴィオレッタはいつも廊下の向こうに立っている。
ジークハルトは、少しのあいだ黙っていた。
「母上の教育で、私は育った。不満はない」
「存じております」
「家の中に命令を出す者が二人いれば、使用人が迷う。母上の決めたことを、あなたが覆すな」
もっともな言い分だった。前世でも、大人の方針が割れた家ほど、子どもが迷うのを見てきた。
「覆すつもりはありません。ただ、罰を決める前に、話し合わせていただきたいのです」
「それを決めるのは私ではない。母上と話せ」
夫は手紙を引き出しにしまった。話は終わりだ、という合図だろう。
「それと、来月から家庭教師を替える。ケスラー子爵夫人だ。母上の推薦で、厳格な方だと聞いている」
「面談には、私も同席させてください」
「好きにすればいい」
立ち上がりかけた私に、夫はふと思い出したように言った。
「レオンの部屋に、今朝から医師が呼ばれている。また熱を出したそうだ」
私は動きを止めた。
「……知りませんでした」
「そうだろうな」
ジークハルトは書類に目を落としたまま、顔を上げない。
「あなたは昨日から、ヴィオレッタのことしか見ていなかったと、母上がおっしゃっていた」
言い返せなかった。この家にはもう一人、私の子どもがいる。五歳の、体の弱い息子が。
書斎を出ると、廊下の先にレオンの部屋の扉が見えた。
その前に、小さな人影がある。
黒い髪の少女が、扉の取っ手に手をかけたまま、じっと立ち尽くしていた。




