悪役令嬢の母でした
「ヴィオレッタお嬢様は、まだ反省室においでです」
扉の向こうで、誰かが声をひそめていた。
重たい瞼を持ち上げると、見知らぬ天蓋が目に入った。深い葡萄色の布に、金糸で百合の紋が刺してある。
(……どこ、ここ)
喉が焼けるように乾いている。体を起こそうとして、腕の細さに息をのんだ。指は白く、爪は丁寧に磨かれ、薬指には見覚えのない指輪が光っていた。
「奥様! お目覚めに」
駆け寄ってきたのは、灰色のお仕着せを着た若い侍女だった。
「三日も熱が下がらず、皆どれほど案じたことか。すぐに医師を呼んでまいります、リヒテンベルク公爵夫人」
リヒテンベルク。
その家名を、私は知っていた。
正確には、読んだことがある。前世で、仕事帰りの電車の中で。
『白百合の聖女は王太子に愛される』。平民育ちの少女が王太子と結ばれる恋愛小説だ。その中に、彼女をいじめ抜いた末、卒業の夜会で断罪される悪役令嬢がいた。
ヴィオレッタ・リヒテンベルク。
さっき扉の向こうで聞こえた名前だった。
侍女が出ていったあと、私は寝台を抜け出して鏡台の前に立った。映っていたのは、二十代半ばほどの、栗色の髪の女。整った顔立ちだが、口元にはどこか疲れがにじんでいる。
(悪役令嬢じゃない)
鏡の中の女を見つめながら、私はゆっくりと理解した。
(私は、悪役令嬢の母親だ)
◇
前世の私は、相沢律子という名前だった。
二十年近く、子どもと家庭の相談を受ける仕事をしてきた。四十二歳の冬、職場からの帰り道で倒れて、それきりだ。
この体の持ち主の記憶も、少しずつ戻ってきている。クラリッサ・リヒテンベルク、二十七歳。伯爵家から公爵家に嫁いで九年。夫はジークハルト、娘がヴィオレッタ、息子がレオン。
原作の中で、母親についての記述はたった一行しかなかった。
――母は社交にしか関心のない人で、ヴィオレッタは母の部屋に入ったことすらなかった。
(反省室って……あの子、何をしたの)
医師の診察を手早く済ませ、私は先ほどの侍女を呼び止めた。名はミーナというらしい。
「お嬢様が、奥様の香水瓶を割ってしまわれたのです。奥様が倒れられた日に」
「それで三日も?」
「いえ、反省室は今朝からです。大奥様が、お嬢様が謝らないなら出さないと」
大奥様。姑のマルガレーテのことだ。
ミーナに案内させて、屋敷の北側の廊下を進む。窓が少なく、昼だというのに足元が暗い。突き当たりの小さな扉の前で、ミーナが鍵を取り出した。
「本当に、よろしいのですか。大奥様のお許しなく……」
「責任は私が持つわ。開けて」
扉の奥は、物置を片づけただけのような部屋だった。窓はなく、壁際の燭台に蝋燭が一本灯っているきりだ。
その明かりの下で、小さな女の子が椅子に座っていた。
黒い髪をきっちり結い上げ、背筋をまっすぐ伸ばしている。膝の上で重ねた手は、白くなるほど握りしめられていた。
紫の瞳が、私を見上げる。
「お母さま」
八歳の子どもとは思えないほど、平らな声だった。
「ご病気は、もうよろしいのですか」
「ええ。心配をかけたわね」
「心配などしておりません」
ヴィオレッタはつんと顎を上げた。
「それに、香水瓶を割ったのはわたくしではありません。ベルタです。ベルタが落としたのを、わたくしのせいにしたのです」
嘘だ、とすぐにわかった。
言い終えたあと、娘の視線がほんの一瞬だけ床に落ちたからだ。前世で何百回と見てきた目の動きだった。
けれど、ここで「嘘をつかないの」と叱れば、この子はもっと固く口を閉ざす。かといって「そうだったのね」と信じたふりをすれば、嘘をつけば母は騙せると覚えてしまう。
私は娘の前にしゃがみ、目の高さを合わせた。
「そう。あなたはそう言うのね」
「……信じてくださらないのですか」
「まだわからないわ。だから、あとでゆっくり聞かせてちょうだい。その前に、ここを出ましょう。暗くて寒いもの」
差し出した手を、ヴィオレッタは見つめたまま動かない。
「何をしているのです、クラリッサ」
背後から、硬い声が飛んできた。
◇
振り返ると、銀髪をきつく結い上げた初老の婦人が立っていた。濃紺のドレスに、黒玉の首飾り。先代公爵夫人、マルガレーテ・リヒテンベルクだ。
「お義母さま」
「病み上がりの身で、こんな場所まで何をしに来たのです。しかもわたくしの許しもなく、扉を開けさせて」
ミーナが青ざめて身を縮めた。
「私が命じたことです。ミーナに咎はありません」
「当然でしょう。使用人に咎を負わせるような女主人なら、この家にはいりません」
マルガレーテはヴィオレッタに目を向けた。娘の肩が、わずかに強張る。
「ヴィオレッタ。謝罪の言葉は考えましたか」
「わたくしは割っておりません」
「では、まだここにいなさい」
「お義母さま、この子はまだ八歳です。窓もない部屋に朝から一人きりでは」
「八歳だからこそです」
マルガレーテは一歩も引かなかった。
「この子はいずれ、公爵家の娘として社交の場に立つのですよ。嘘をつき、使用人に罪をなすりつけるような娘が、どれほどの笑いものになるか。あなたにはわからないのでしょうけれど」
あなたには。その言葉に含まれたものを、私は聞き逃さなかった。
この家の女主人は、名目上は私だ。けれど実際に屋敷を回しているのは、この人なのだろう。これまでのクラリッサは、それを許してきた。いや、面倒ごとを預けてきたのかもしれない。
「罰が必要なことには、私も反対しません」
私は言葉を選んだ。
「ですが、罰の目的は、あの子が自分のしたことを話せるようになることのはずです。暗い部屋に一人にしても、意地を張る時間が長くなるだけかと」
「甘やかしたい母親は、皆そう言います」
「では、こうさせてください」
私は娘の隣にあった、もう一脚の古い椅子を引き寄せた。
「罰は、お義母さまのお決めになったとおり夕食まで。ただし、私もここにおります」
マルガレーテの眉が、ぴくりと動いた。
「公爵夫人が、反省室に座ると?」
「娘の罰に付き添うのも、母の務めでしょう」
しばらく沈黙が落ちた。蝋燭の芯が、ちりっと小さく鳴る。
「好きになさい」
やがてマルガレーテは背を向けた。
「ただし、謝罪の言葉を聞くまで、この子は食堂には出しません。ジークハルトにも、わたくしから知らせておきます」
扉が閉まり、足音が遠ざかっていく。
結局、娘をここから出すことはできなかった。
◇
それから、どれくらい経っただろう。
私はヴィオレッタに、とりとめのない話をした。熱で寝ていた間に見た夢のこと。窓の外に来ていた鳥のこと。刺繍の糸を、紫と銀のどちらにするか迷っていること。
娘はほとんど答えなかった。けれど、私が鳥の名前を間違えたときだけ、小さな声で「あれはヒワです」と訂正した。
「よく知っているのね」
「……図鑑で、見ましたから」
「今度、一緒に見せてもらえる?」
返事はない。それでも、握りしめていた手が、少しだけゆるんでいた。
蝋燭が半分ほどの長さになったころ、ヴィオレッタがぽつりと言った。
「お母さまのお部屋は、いつもいい匂いがします」
「香水のせいかしらね」
「わたくし、入ってはいけないと言われていました。お母さまはお疲れだから、と」
膝の上の小さな手が、またきゅっと握られる。
「でも、お母さまがずっと起きてこなかったから。どんなお部屋なのか、見てみたくて」
そこで、言葉が途切れた。
私は急かさなかった。待つことには慣れている。前世では、話し出すまでに一時間かかった子もいた。
「瓶を持ってみたら、すべって」
声が震えた。
「わたくしが割りました。ベルタではありません」
紫の瞳から、ようやく涙がこぼれた。
「お母さまの大事なものなのに……ごめんなさい」
「話してくれてありがとう、ヴィオレッタ」
私はそっと娘の背に手を置いた。骨ばった、小さな背中。
「瓶はまた買えるわ。でも、ベルタのせいにしたことは、明日ベルタに謝りましょうね。私も一緒に行くから」
娘はこくりとうなずいた。
その横顔を見ながら、私は原作の最後の場面を思い出していた。
卒業夜会の大広間。王太子に婚約破棄を告げられ、誰にも庇われずに立ち尽くす十八歳のヴィオレッタ。父は彼女から目をそらし、母はその場にいなかった。
(いなかった、じゃない)
(今度は、いる)
まだ十年ある。この子が悪役令嬢になる前に、この家から変えていけばいい。
◇
その夜、ヴィオレッタは私の部屋で眠った。マルガレーテの言いつけどおり食堂には出さず、軽い夕食を部屋に運ばせたのだ。屁理屈と言われても構わない。
寝台の端で丸くなった娘は、眠る直前まで私の袖をつまんで離さなかった。香水の残り香がするからだろうか。それとも、ただ確かめたかったのだろうか。
寝息が深くなったのを確かめてから廊下に出ると、家令のオスカーが燭台を手に待っていた。
「奥様。お休みのところ申し訳ございません」
「どうしたの」
「旦那様が、明日の昼にお戻りになります。ご予定より五日早く」
オスカーは表情を変えずに続けた。
「大奥様が昼過ぎに早馬を出されました。お嬢様の件で、と」
私はうなずき、扉を閉めた。
夫ジークハルトについて、私が知っていることは多くない。この体に残る記憶はどれもよそよそしく、原作には一行しか出てこない。
断罪の場で、娘から目をそらした父親。
明日、その人に会う。




