4.銀灰の檻と、小さな手のひら
それは、アレクシアが十二歳になったばかりの頃のことだった。
両親を失ってから三年。
オスカーのもとで過酷な魔力制御の訓練を重ねた彼女は、ようやく「水魔法使い」としての偽装を完璧にこなし、初心者用のクエスト——隣国への物資運搬の護衛に、オスカーの同行付きで参加できるようになっていた。
「よし、納品完了だ。アレクシア、帰りに甘いもんでも食べてくか?」
「ふふ、マスターのおごりなら喜んで」
無事に仕事を終え、コンフェデラへの帰路につこうとしたその時だった。
街の外れ、打ち捨てられた倉庫の陰から、荒々しい男たちの怒号と、獣の苦しげな唸り声が風に乗って聞こえてきた。
路地裏を覗き込んだ二人の目に飛び込んできたのは、無数の鉄の檻だった。
そこにいたのは、捕らえた魔物を殴りつけ、粗暴に扱う悪質なテイマーの集団。非人道的な実験や売買のために買い手を探している、路地裏のならず者たちだ。
(あんなに傷ついて……助けなきゃ……!)
あまりの惨状に息を呑み、アレクシアは足を踏み出そうとした。だが、その肩をオスカーの手が強く押しとどめる。
「待て、アレクシア。……気持ちは分かるが、あそこにいる魔物を全員助けるなんざ無理だ。俺たちが手を出せば大沙汰になり、お前の隠している力まで暴かれかねねぇ」
「でも……っ」
悔しさに唇を噛み締めるアレクシア。
現実の厳しさと自分の無力さに胸が押し潰されそうになったその時、一つの檻の中から、強く凛とした視線を感じた。
——銀灰色の毛並みを持つ、一匹の幼い狼。
ナグラヴォルフ種の子供——のちに「ライ」と名付けることになるその幼獣だった。
体に無数の傷を負いながらも、その瞳だけは決して屈することなく、猛々しい光を宿して男たちを睨みつけている。
そして、そのライが入れられた檻のすぐ隣——さらに小さな檻の中に、息も絶え絶えに横たわる、やせ細った一匹の成長したナグラヴォルフがいた。ライの母親だった。
母親はもう、自分が助からないことを悟っているようだった。
瀕死の身体で力を振り絞り、そっと目線をアレクシアへと向ける。
(……お願い。あの子だけを……あの子を連れて、逃げて……!)
言葉はなくても、その瞳に宿る悲痛なまでの願いが、アレクシアの心に痛いほど届いた。
母親は死に瀕しながらも、己の命ではなく、我が子の未来だけをアレクシアに託そうとしていたのだ。
(全員は救えない……でも、あの想いまで見捨てるなんて絶対にできない!)
「マスター。……あの子だけ、あの子だけ助けさせてください!」
アレクシアの強い眼差しに、オスカーは痛恨の溜息をつきながらも、琥珀色の瞳を細めた。
「……ハッ、買い食いの金が、騒動の揉み消し代に化けちまったな。おいアレクシア、合図したらあの子の檻だけ開けろ。他は俺が派手に引く」
「はいっ!」
次の瞬間、オスカーが巨大な「火魔法」を空へ向けて放った。
凄まじい爆音と炎が上がり、テイマーの男たちが「敵襲だ!」「なんだ!?」と大混乱に陥る。
その隙を突いて、アレクシアはライの檻へと駆け寄った。
男たちが気づいて振り返るが、アレクシアは密かに指先から極小の冷気を放ち、男たちの足元の地面を瞬間凍結させた。足を滑らせて無様に転倒する男たち。
「くそっ、なんだこの水は……いや、凍って……!?」
動揺する男たちを余所に、アレクシアはライの檻の鍵に手を触れた。
(お願い、壊れて……!)
内部の金属構造だけを狙い打ち、一瞬で凍らせて脆く砕く。完璧に制御された氷魔法の応用だった。
ガチャリ、と扉が開く。
だが、幼いライは立ち上がろうとせず、隣の檻で横たわる母親へすがりつこうとした。
「グルゥ……ッ!」
駆け寄ろうとする我が子を、母親のナグラヴォルフは最後の力を振り絞って、低く厳しく一突きするように唸った。
——行きなさい、と。
ライは涙を溜めた瞳で母親を見つめ、そして、固く刃を噛み締めるようにアレクシアへと向き直った。
アレクシアはライの前に膝をつき、小さく震える身体を優しく抱きしめた。
「ごめんね……ごめんね……。一緒に行こう」
アレクシアの胸から伝わる温もりと、手から放たれる熱を冷ます優しい「冷気」の感覚。
ライは一瞬だけ背中の毛を逆立てたが、彼女の澄んだ青い瞳に宿る深い哀しみと決意を感じ取り、静かにその頬へ鼻先を寄せた。
「おいアレクシア!ずらかるぞ!」
「はい!……行こう!」
背後で崩れ去る倉庫と、静かに息を引き取っていく母親の気配を感じながら、二人はオスカーと共に王都への道を駆け抜けた。
——あれから、八年。
あの時託された小さな命は、今やアレクシアの背を守る立派な前衛として、前線で大地を駆けている。
辛い過去と、隠さねばならない運命を共有した二人の絆は、誰よりも深く、決して揺らぐことはない。




