3.緋色の熱と、小さな氷
ギルド『アムネシア』の喧騒の中、オスカーはカウンター越しに自慢のグラスを磨きながら、一人の女性を目で追っていた。
表向きは酒場、裏では過去を捨てた凄腕が集まる隠れ家。
根っからの酒好きで、酒を振る舞うのも作るのも大好きなオスカーにとって、このカウンターの奥は最高の特等席だ。
趣味と実益を兼ねたバーテンダーとしてカウンターに立ち、こうしてギルド全体に目を光らせるのが彼の日常だった。
銀髪をゆるい三つ編みに結い上げたアレクシアは、受付の女性から受け取った羊皮紙の依頼書を検分しながら、手元のグラスに軽く指先を触れさせている。
ふわり、とグラスの周囲にほのかな水蒸気が立ち上り、中の液体が程よく冷やされていく。
見た目には見事な水魔法の応用。魔法の制御も、世渡りも、実に堂に入ったものだった。
(……つくづく、巧くなったもんだ)
オスカーは赤髪をかき上げ、琥珀色の瞳を細めた。
宝石のように青く煌めく瞳と、凛とした気品漂う佇まい。今や大人の魅力すら漂わせる彼女だが、出会った頃の幼い彼女は、とてもまともに魔法を扱える状態ではなかった。
——アレクシアの両親と出会ったのは、まだ俺が駆け出しの冒険者だった頃だ。
薬学や魔法学に長けた研究者であった彼女の父親ノアとは、冒険で負った傷を彼特製の調合薬で癒やしてもらった縁で意気投合し、よく自宅兼店舗へ押しかけては酒を汲み交わす仲だった。
母親のマリアはいつも穏やかな笑顔で、手作りの美味しい菓子を出してくれたものだ。
だが、ある夜。ノアは店裏の書庫で、オスカーにだけ重い口を開いた。
『オスカー。マリアと同じように……この子にも、今の世界の理からは外れた「静かな力」が眠っている』
地水火風。生命を巡らせる「動の魔法」が支配するこの世界で、すべてを静止させる古代の「氷魔法」。
かつて「氷の魔王」が世界を凍てつかせようとした歴史から、現代では「存在しないはずの力」とされている絶滅した魔法。
それが、マリアだけでなく、幼いアレクシアの身体にも宿っていた。
『俺たちに万が一のことがあったら……どうか、あの子を守ってやってくれ』
深く頭を下げたノアと、その隣で祈るように微笑んでいたマリアの顔が、今でも鮮明に思い出せる。
そして、その「万が一」は唐突に訪れた。
二人が相次いで亡くなり、幼いアレクシアは天涯孤独の身となった。
両親を失ったショックで情緒が不安定になった少女の周りでは、両親から受け継いだ膨大な魔力が暴走していた。
オスカーが駆けつけた時、幼いアレクシアが佇む部屋の床や壁は、びっしりと白い霜と氷に覆われていた。
触れれば凍傷を負うほどの冷気の中心で、少女は膝を抱えて震えていた。
『来ないで……っ、あたし、みんなを凍らせちゃう……!』
『バカ言え。この程度の寒さで逃げるような男に見えるか?』
オスカーは躊躇なく踏み込み、凍え切った小さな身体を力いっぱい抱きしめた。
自身の属性である「火」の魔力を解き放ち、彼女を包み込む。
アレクシアの瞳から溢れた涙が、ポロポロと氷の粒になって床にこぼれ落ちた。
膨大な魔力と、制御の利かない危険な「氷」。
このまま制御できずにいたら、いずれ周囲に怪しまれ、騎士団や……あるいは敗戦以降影を潜めている「フィンステリウム帝国」の残党に目をつけられるのは目に見えていた。
『いいか、アレクシア。理屈で魔法を抑え込もうとするな。生きる術として、体に刻み込むんだ』
『……体に、刻む……?』
『ああ。精密なコントロールさえ覚えれば、氷の魔力も「水魔法」のフリをして誤魔化せるはずだ。そのための特訓だ』
隠れ家としての機能も持つこの『アムネシア』に引き取り、その日から彼女はオスカーのもとで過酷なまでの魔力操作の訓練を開始した。
自分の身を守るために。そして、亡き両親が遺してくれた命を全うするために。
「……マスター?何か私の顔についてますか?」
視線に気づいたのか、アレクシアが不思議そうに首をかしげながらカウンターへと近づいてきた。
すらりとした立ち姿に、落ち着いた所作。
すっかり見違えるほど美しく頼もしい女性へと成長した愛娘の姿に、オスカーの目元が緩む。
「いや?なんでもねえよ。ただ、ずいぶんと水魔法が様になってきたと思ってな」
「もう、からかわないでください。マスターの厳しい特訓のおかげなんですから」
少しだけ呆れたように微笑み、アレクシアは受け取った依頼書を胸に抱えて次の準備へと戻っていく。
その背中を見送りながら、オスカーは自分でブレンドした琥珀色の酒を満たしたグラスを静かに置いた。
(……任された役目は、とりあえず果たせてるかね、ノア、マリア)
心の中で亡き親友夫妻に問いかける。
立派な大人の女性として一人立ちした彼女。
だが、その隣にはまだ「欠けているピース」があることも、オスカーは分かっていた。
冷たい氷の力を抱え、一人で背負い込もうとする彼女の足元に、ぬくもりを添えてくれる存在。
(そろそろ、あいつと出会う頃か……)
ギルドの扉の向こう、王都の風に乗って聞こえた気がした。
——荒々しくも、どこか寂しげな、一匹の狼の咆哮が。




