2.巡る風と、小さな灯火
「ライ、それ引っ張らないでってば……!」
鏡の前で、アレクシアは頭を抱えていた。
ベッドの上では、相棒のライが「こっちにしろ」と言わんばかりに、シックな薄青のワンピースの裾を前足でちょんちょん突いている。
「……今日はお出かけでしょう? いつもの冒険者服じゃ変だけど、あんまり気合を入れすぎるのもおかしいじゃない」
小さく溜息をつくアレクシアに、ライは「ふん」と鼻を鳴らした。
『その服でいいんだよ。お前はすぐ自分を隠そうとする』と言いたげな利発な瞳に押し切られ、彼女は苦笑しながらそのワンピースに袖を通すことにした。
いつも戦場で共に命を預け合い、自分の冷たい秘密を知る相棒には、どうにも頭が上がらない。
「——おいおい、どこに出かける気だ? アレクシア」
くすんだ紫のバラが彫り込まれた重厚な扉をくぐると、ギルド『アムネシア』のカウンター奥から低く渋い声が響いた。
声の主はギルドマスターであり、アレクシアにとって父親のような存在のオスカーだ。
背中で束ねた燃えるような赤髪に、すべてを見透かすような琥珀色の瞳。
四十代半ばの洗練された色香を漂わせる男で、彼の周囲には「火」の属性特有の、じんわりとした温かい空気が滲み出ていた。
「マスター……。ちょっと、騎士団長様に街を案内してくるだけで……」
アレクシアが耳まで赤くして俯くと、オスカーは煙草を口にくわえたまま、豪快に胸を揺らして笑った。
「ハハハ! あのガチガチの騎士団長様がお前に骨抜きにされたって噂は、どうやら本当らしいな。……たく、俺の可愛い娘みたいな奴に手を出しやがって」
「む、娘だなんて……! それに、そんなんじゃないです!」
赤面して抗議するアレクシアを、オスカーは琥珀色の瞳を細めて愛おしそうに見つめる。
彼はアレクシアが隠し持つ現代の世界には存在しないはずの「氷」の力を知る、数少ない理解者だった。
煙草の火を消すと、オスカーはふっと表情を和らげ、低く穏やかな声で言った。
「……アレクシア。お前がその力を隠して、どれだけ一人で抱え込んできたか、俺もライも知っている。だからな……誰かを頼ることを、恐れるなよ」
「マスター……」
「もしもお前の冷気が漏れ出しそうになったら……あいつに頼ってみるのも悪かねぇはずだ。あの風なら、きっとお前をまるごと包んでくれる」
そう言って、オスカーは大きな手でアレクシアの頭をポンポンと優しく撫でた。
不器用だが、何より温かい父親の火のぬくもりが宿る手のひらだった。
王都レマニアの中央広場。
美しい水車と咲き誇る花々、清らかな噴水が迎えるその場所で待っていると、人ごみの中から一人の男が歩み寄ってきた。
「アレクシア。待たせてしまったかな?」
振り返ったアレクシアは、思わず息をのんだ。
そこにいたのは、いつもの白銀の鎧を脱ぎ捨て、上質な深い緑のジャケットに身を包んだフレッドだった。
鎧がない分、彼の引き締まったスタイルや柔らかい金髪が際立ち、どこか大人びた色気を漂わせている。
「ふ、フレッド様……! いえ、私もちょうど来たところです」
「……良かった。それと、今日の服……すごくよく似合っているよ。綺麗だ」
さらりと、けれどどこか照れくさそうに耳を赤くして褒めるフレッド。
その素直な視線に、アレクシアの心臓は跳ね上がるように鳴り響いた。
「あ、ありがとうございます……! その、フレッド様も……すごくお似合いです」
ふたりは顔を見合わせて少し照れくさそうに笑い合い、穏やかな日差しの中を歩き始めた。
アレクシアの案内で、路地裏にある隠れ家的なカフェや、色とりどりの季節の花々がアーチを描く鮮やかな小道を巡る。
心地よい風が吹き抜けるたび甘い香りが舞い上がり、フレッドはどんな小さな風景にも興味深く耳を傾け、心から楽しそうに笑った。
「いつも見ているはずの王都が、君と一緒に歩くだけでこんなに鮮やかに見えるなんて不思議だな」
フレッドが纏う「風」は、どこまでも温かく、心地よい。
アレクシアの胸の奥で静かに固まっていた冷たい孤独が、彼の言葉や笑顔に触れるたび、ゆっくりと溶かされていくのが分かった。
(……この人といると、自分が大きな秘密を抱えていることすら、忘れてしまいそうになる)
けれど、優しくされればされるほど、胸の奥で小さな切なさが疼く。
(世界の理から外れたこの力を……本当の私を知ったら、この人はどんな顔をするのだろう。やっぱり、離れていってしまうのかな)
夕暮れ時、橙色に染まる王都を見下ろす高台で、アレクシアは密かに胸の秘め事——指先から溢れそうになる冷気を悟られまいと、自分の手を強く握りしめた。
その時、遠くの街並みを静かに見つめていたフレッドが、不意にアレクシアへ視線を向けた。
その澄んだ瞳には、確かな熱がこもっている。
「アレクシア。……またこうして、二人で会いたい。……駄目だろうか?」
「っ……!」
見つめられ、息が止まる。
断る理由なんて、どこにもなかった。
「……はい。私でよければ……ぜひ」
小さくうなずいたアレクシアに、フレッドは花がほころぶような笑顔を向けた。
遠くで打ち鳴らされる夕刻の鐘の音が、オレンジ色に染まる街に優しく響き渡る。
隠し事をつくっている後ろたさを感じながらも、アレクシアの胸には、確かに消えない温もりが灯っていた。




