1.風の舞い込む日常
「――ライ、右!」
澄んだ声が森の静寂を裂くのと同時に、銀灰色の毛並みを持つ巨大な狼――ナグラヴォルフ種のライが大地を力強く踏みしめた。
ライが地を蹴ると、その足元から重厚な土の壁が勢いよく隆起する。
向かってきていた猪型の魔物は行き場を失い、突進の衝撃で姿勢を大きく崩した。
「助かる!」
すれ違いざま、アレクシアは掲げた右手に魔力を集中させる。
生み出されたのは、水流の刃。
しなやかに空を裂いた青い一閃が魔物を捉え、確実にとどめを刺した。
ドサリ、と倒れ込む魔物を見届け、アレクシアは深く息を吐き出す。
「ふぅ……よし、これで討伐完了だね」
「グルル……」
ライが小さく喉を鳴らしながら歩み寄ってきた。本来であればの人に懐くことはない魔獣だが、ライは彼女の前では甘えるように大きな頭を擦り寄せてくる。
「ありがとう、ライ。いつも完璧なタイミングだね」
微笑みながら耳の後ろを撫でてやると、ライは満足そうに目を細めた。
しかし、ふとアレクシアは自分が放った水魔法の着弾点に視線を落とし、小さく眉をひそめた。
魔物の遺骸の周り、草葉に付着した水滴が――ほんのわずかに、白く凍りついている。
(……また、冷気を抑えきれなかった)
アレクシアの本当の属性は「水」ではない。かつて世界を絶望に陥れたとされる、失われた古代魔法「氷」。
必死に意識して水に似せているものの、ふとした拍子に本質である冷気が漏れ出してしまうのだ。
「グルゥ……」
アレクシアの不安を察したのか、ライが鼻先でポンポンと彼女の手を突いた。
『大丈夫だ、誰も見ていない』と言いたげな瞳に、アレクシアは苦笑いを浮かべる。
「うん、そうだね。早くギルドに戻って報告しようか」
冷えた指先をキュッと握りしめ、二人は慣れ親しんだ王都への道を歩き出した。
王都の下町に佇む冒険者ギルドは、今日も荒くれ者たちの熱気と酒の匂いで満ちていた。
「おいおいアレクシア、今日もライと二人で一稼ぎか?」
「相変わらずその狼、強そうだなあ!」
ギルドの扉をくぐると、知った顔の冒険者たちから次々と声がかかる。
アレクシアは控えめに会釈を返しながら、受付へと向かった。
ライは彼女のすぐ隣を歩き、時折り馴々しく近付こうとする冒険者を「ウゥ……」と低い唸り声で牽制している。
「はい、アレクシアさん。依頼達成の確認が取れました。こちらが報酬です」
「ありがとうございます」
無事に報酬を受け取り、ほっと胸を撫でおろしたその時だった。
カラン、とギルドの重い木製ドアが開く。
いつもならガサツな冒険者が乱暴に開ける音が、今日はどこか優雅に響いた。
瞬時に静まり返るギルド内。冒険者たちが息をのむのも無理はない。
現れたのは、下町のギルドにはあまりにも不釣り合いな、洗練された白銀の鎧を纏う男――コンフェデラ王国騎士団の長、フレッド・グラフだった。
(フレッド様……!? どうしてここに……)
驚きで固まるアレクシアの前を、フレッドは迷いのない足取りで歩いてくる。
その周りには、まるで彼を祝福するかのように、穏やかで心地よい風の気配が漂っていた。
「やあ、アレクシア。急にすまないね」
フレッドは周囲の視線など気にした風もなく、アレクシアの前で立ち止まると、柔らかく目を細めた。
「合同調査の追加資料を届けに来たんだが……ギルドに顔を出せば君に会えるかもしれないと思ってね」
「あ、あの……わざわざ騎士団長様が来られるようなことでは……」
恐縮して小さくなるアレクシアの横で、ライがすかさず身を乗り出した。
『怪しい奴を通さん』とばかりにフレッドとアレクシアの間に割り込み、油断なくフレッドを見上げる。
しかし、フレッドは嫌な顔一つせず、むしろ感心したように目を輝かせた。
「君が噂に聞く、アレクシアの頼もしい相棒だね。素晴らしい気品だ」
フレッドが腰を落とし、優しく手を差し出す。
ライはふんと鼻を鳴らし、匂いを嗅ぐようにその手に鼻先を近づけた。
フレッドの纏う「風」の温かさを感じ取ったのか、ライは次第に警戒を解き、静かに身を引いた。
(ライが……こんなに早く初対面の人を受け入れるなんて……)
驚くアレクシアに、フレッドは悪戯っぽく微笑みながら、手に持っていた小箱を差し出した。
「それと、これは個人的な差し入れだ。中央区で人気の焼き菓子なんだが、君と……彼で分けて食べてくれ」
「そんな、受け取れません!」
「お願いだ、受け取ってほしい。合同調査で君の素晴らしい魔法を見せてもらってから……ずっと、また君と話したいと思っていたんだ」
まっすぐで、一切の飾りのない言葉。
巡る風のように温かいフレッドの瞳に見つめられ、アレクシアの胸がドクンと大きく跳ねた。
「……あり、がとうございます」
赤くなる頬を隠すように小箱を受け取ったアレクシアに、フレッドは満足そうに微笑み、一呼吸置いて言った。
「良かった。……不躾ついでに、もう一つお願いしてもいいかい?」
「はい……?」
「次の非番の日、もし良ければ……俺にこの街を案内してくれないだろうか」
爽やかすぎる申し出に、アレクシアは思わず目を丸くした。
「あの……フレッド様。王都の警備を担う騎士団長様でしたら、私なんかよりずっとこの街にお詳しいのでは……?」
ごく自然な疑問を投げかけると、それまで完璧だったフレッドの表情がぴきりと固まった。
一瞬だけ気まずそうに視線を彷徨わせたあと、彼はこほんと小さく咳払いをして、耳の先端をほんのり赤く染める。
「……確かに、地理や治安の面なら熟知しているよ。だが、俺の知っているのは『巡回区域』としての王都だ」
どこか言い訳めいたトーンになりつつも、フレッドは意を決したようにまっすぐアレクシアの目を見つめ直した。
「俺が知りたいのは……君が好きな場所や、君が見ている景色なんだ。君の過ごす世界を、もっと知りたい」
(〜〜っ、それって……!)
あまりにも素直で、あまりにもストレートな本音。
脇にいたライが「ふっ……」と呆れたように鼻を鳴らすのが聞こえ、アレクシアの顔は一気に沸騰したように熱くなった。
「〜〜っ、私でよければ……よ、喜んで……!」
赤くなる頬を隠すように小箱を抱きしめ、蚊の泣くような声で答えるのが精一杯だった。
「本当かい? 良かった……断られたらどうしようかとヒヤヒヤしていたよ」
ほっと安堵の息を吐き、少年のような無邪気な笑顔を浮かべるフレッド。
冷たい秘密を抱え、誰とも深く関わらないように生きると決めていたはずなのに。
目の前の騎士が運んできた温かな風が、彼女の凍てついた心を、少しずつ解かし始めているのを確かに感じていた。




