18.氷の姫と欺瞞の影
崖の下から一人で戻ってきたリックは、スカーフを失った首元に不自然に深い襟巻きを巻き直すと、焦りを隠した親身な顔でアレクシアへと歩み寄った。
「ダメだ、アレクシア……! 崖の下をくまなく探したが、ライの姿はどこにもなかった。魔物の血痕も途切れている……一度王都へ戻って、ギルドや騎士団に捜索を要請しよう」
リックは言葉巧みに説得を試みる。
だが、アレクシアは即座に首を横に振った。
その瞳には、強い拒絶と譲れない決意が宿っている。
「嫌……嫌よ! ライを置いて帰るなんて絶対にできない!」
「おいおい、落ち着けって! 日が暮れたらこの森の魔物は一層活発になる。一度体制を立て直すのが賢明だ!」
「ライは私の大事な相棒なの! 怪我をして倒れているかもしれないのに、見捨てて帰れるわけないでしょう!?」
凛とした声を響かせ、アレクシアはリックの制止を振り払うように森の奥へと足を進める。
冷気と氷の魔力をその身に巡らせ、ライの匂いや気配を必死に探そうとするアレクシア。
その背中を見つめるリックの右目——【透視】の魔導眼が、苛立ちとともに冷たく細められた。
(……ちッ。どこまでも頑固な女だ。スカーフの切れ端を奪われた以上、あいつが王都へ辿り着く前に始末……いや、予定通り連れ去らなきゃならんというのに)
舌打ちを心の中で噛み殺したリックは、息を吐くと、急に柔らかい声音を作ってアレクシアの隣へと並んだ。
「……分かったよ。お前の言う通りだ。ライを見捨てるなんて俺もどうかしていた。手分けして探そう」
「リック……! ありがとう」
「あっちの小川の近くに、新しい足跡があった。俺と一緒に来てくれ」
アレクシアの「ライを助けたい」という一心な優しさ。
リックはその足元をすくうように、事前に帝国工作員とともに仕込んでおいた【魔力封印の結界網】が張られた深い樹海へと彼女を誘導していく。
何の手がかりもないまま奥へと足を踏み入れ、焦燥感で視界が狭まっていくアレクシア。
そして、鬱蒼とした大木の影に入ったその瞬間——。
「ライ……ッ!? ——え……?」
足元から立ち昇った紫色の怪しい霧が、アレクシアの身体を包み込んだ。
途端に、全身の魔力が急速に霧散し、膝から崩れ落ちそうになる。
「な、に……これ……魔力が……っ」
「悪いな、アレクシア」
背後から聞こえたのは、これまで聞いたこともないほど低く、冷淡な男の声だった。
驚愕して振り向こうとするアレクシアの視界に映ったのは、右目の前髪をかき上げ、冷酷な薄笑いを浮かべるリックの姿だった。
「リっ……く……? どうし……て……」
「ライを探す優しさは立派だが、隙だらけだぜ。『氷の姫』様」
首元を強く圧迫され、強力な麻酔毒が全身に回っていく。
視界が急激に暗転し、アレクシアの身体から完全に力が抜けた。
崩れ落ちる彼女の身体を、リックは容赦なく抱きかかえる。
「作戦完了だ。これより『氷の能力者』を本国へ連送する」
暗闇から現れた数人の黒装束の男たち——フィンステリウム帝国の工作員たちが、地面に複雑な転移魔導陣を描き始める。
その時だった。
「——させないッ!!!」
爆音とともに、森の木々が薙ぎ払われた。
大気を切り裂く突風とともに舞い降りたのは、全身に激しい風の魔力を纏い、髪を乱したフレッドだった。
「フレッド……!? くそっ、もう追いついてきやがったか!」
「リック……貴様ッ!! アレクシアから離れろ!!」
手の中にある「スカーフの切れ端」が示していた絶望的な事実。
意識を失い、敵の手に落ちているアレクシアの姿を目にした瞬間、フレッドの青い瞳に苛烈な怒りの炎が宿る。
「——風迅脚!!」
音速を超えた踏み込み。
フレッドの剣が、爆風を伴ってリックの首元へと一直線に閃く。殺気と執念が籠もった一撃。
「ちッ……重いッ!」
リックは寸前で短剣を交差させて受け止めたものの、フレッドが放つ圧倒的な風の衝撃波に耐えきれず、激しく吹き飛ばされた。
その衝撃で、首元に無理やり巻きつけていた不自然な襟巻きが——バッサリと弾け飛ぶ。
「なっ……!?」
露わになったリックの首元。
そこには、鉄と闇の国・フィンステリウム帝国の象徴——『黒鉄の兜と歪んだ歯車』を象った国章の刺青が、禍々しく刻まれていた。
「……やはりな。お前が帝国の狗だったか……!!」
「ハッ、バレちゃあ仕方ねえ! だが、遅かったな騎士様!」
足元の転移陣が眩い紫の光を放ち、アレクシアを抱えたリックたちを包み込む。
「しまっ……!」
フレッドは牙を剥くように手を伸ばした。
風の魔力を極限まで放止し、腕を限界まで突き出す。
指先が、転移の光の中に消えていくアレクシアの服の裾に——確かに触れた。
「アレクシアーーーッ!!!」
だが、叫びも空しく。
掴み取ったと思った感触は、虚しく空を切った。
ボシュンッ! という空間が弾ける音とともに、転移陣の光が消失する。
あとに残されたのは、静まり返った森と、虚空を掴んだまま膝をつくフレッドだけだった。
「……くそっ……! くそおぉぉぉッ!!」
フレッドの拳が地面を叩きつけ、激しい衝撃波が周囲の土を跳ね上げる。
風が吹き荒れる無人の森に、一歩届かなかった男の叫びだけが悲しく響き渡っていた。




