10.裏街の影と風の誓い
翌朝、王都レマニアを包む空気は、どこか硬く張り詰めていた。
帝国の影が判明したことを受け、ギルド『アムネシア』のマスター室では、オスカーの呼び出しに応じたアレクシアとライが静かに向かい合っていた。
「……アレクシア、ライ。二人だけに言っておくことがある」
オスカーは深く煙草を吸い込み、紫煙の向こうから低く重い声を漏らした。
「あのルピナの森の深部……うちの冒険者と騎士団が『定期的に』パトロールしている警戒ルートだ。見張り台の交替時間も、巡回の死角も熟知していなけりゃ、あんな目立つ触媒を仕込めるはずがねぇ」
「……っ!」
アレクシアの背筋を、冷たい戦慄が駆け抜ける。
「つまり……ギルドか、それとも騎士団のどちらかに、帝国と繋がっている『スパイ』がいる可能性があるってことですか……?」
「ああ。……一体どっちに潜んでいるのか、現時点では判断がつかねぇ。騎士団長様にはまだこの疑念は伝えるな。下手に騒げば、内部の捜査の前に敵に逃げられる。……二人とも、身内だからと絶対に油断するなよ」
アレクシアの足元で、ライも「グルル……」と低く警戒の唸りをあげ、深く首を縦に振った。
昼下がり、王都の表通り。
オスカーからの言葉が重く胸にのしかかっていたが、アレクシアは表情に出さないよう平静を装い、合同パトロールに臨んでいた。
隣を歩くのは、白銀の鎧を纏ったフレッドだ。
「……アレクシア? 少し顔色が悪いように見えるが、大丈夫かい?」
フレッドの青い瞳が、気遣わしげにアレクシアを覗き込む。
「あ、はい! 大丈夫です……少し考え事をしていて」
「無理はしないでくれよ。……そうだ、これを受け取ってほしい」
歩みを止めたフレッドが差し出したのは、コンフェデラの国花である雪のように白い一輪の花——エーデルヴァイスだった。
「フレッド様……? これは……」
「花市場を通りかかったときに、目に入ってね。……凛としていて、美しい君にぴったりだと思って。パトロール中だというのに、すまない」
周囲の市民や騎士たちから温かな微笑みが向けられる中、フレッドは照れくさそうに、けれどどこまでも優しく微笑んだ。
二人で出かけたあの日から、彼からのまっすぐな情愛は増すばかりだ。
「……ありがとうございます、フレッド様。大切にします」
アレクシアの胸の奥で、じわりと温かいものが広がる。
花を胸元に大切に抱きしめると、頬がぽっと淡く赤く染まった。
甘やかな空気が漂ったのも束の間、事態は一変する。
美しい水路が張り巡らされた王都の噴水広場付近へ差し掛かったとき——ライが突然立ち止まり、頭を低く下げて水路の陰を睨みつけた。
「ウォンッ!」
「ライ……!? 何かいるの?」
ライが弾丸のような速さで駆け出す。
二人がその後を追うと、薄暗い水路の陰で、黒いフードを深く被った人物が小さな黒い結晶の欠片を水路の壁面に仕掛けようとしている現場に遭遇した。
「なっ……何者だ! 街中で何をしている!」
フレッドの一喝に、黒フードの人物は舌打ちをし、すぐさま跳躍して水路沿いの屋根へと逃走を図る。
「逃がすか!」
「——舞え、水の刃!」
アレクシアは両手を掲げ、水圧を極限まで精密にコントロールした水の刃を放つ。
街の建物を傷つけないよう威力を調整された水の波動が、黒フードの足元の瓦を削り取り、体勢を激しく崩させた。
「ぐっ……!?」
「——風の刃!」
フレッドが放った風の刃が黒フードの逃走経路を遮断し、退路を完全に断つ。
追い詰めた——そう確信した瞬間、黒フードの男は懐から怪しい魔導具を取り出し、地面へ叩きつけた。
轟音と共にどす黒い煙が噴出し、猛烈な爆風が周囲を包み込む。
「くっ……アレクシア、伏せろ!」
フレッドが咄嗟にアレクシアを抱き寄せ、背中で爆風を受け止める。
煙が収まったときには、すでに黒フードの影は跡形もなく消え去っていた。
「ハァ……ハァ……逃げられたか……!」
「フレッド様、お怪我はありませんか!?」
「ああ、平気だ。君が無事でよかった……」
抱きしめられていた腕が緩み、フレッドが苦々しい表情で周囲を見渡す。
その時、前脚で石畳を掘り返していたライが、何かを見つけ唸る。
「……ライ、それは?」
男が逃走の際に落としたと思われる、一本の短剣。
フレッドが拾い上げて慎重に改めると、苦い顔で首を横に振った。
「ダメだ……。この短剣は、王都の武具屋ならどこででも手に入るごく一般的な市販品だ。これだけじゃ足取りは掴めないな……」
「王都で買える市販品……」
「ああ。……だが、一般の市民がこんな怪しい魔導具を持ち歩き、仕掛けようとするはずがない。あの森の件といい、定期パトロールの裏をかく知識を持っている者が関わっているのは明白だ」
フレッドの青い瞳に、厳しさが宿る。
「やはり……ギルド、あるいは我が騎士団の内部の者に手引きされていると考えるのが自然だろうな」
アレクシアは息を呑んだ。
オスカーの言っていた危惧が、フレッドの口からも同じ推測として語られたのだ。
(ギルドか、それとも騎士団か……。一体どちらに、スパイが潜んでいるんだろう……)
すぐ隣で自分を案じてくれるフレッドの横顔を見つめながら、アレクシアは身近な誰かが敵かもしれないという深い冷気を背中に感じていた。




