8.忍び寄る黒い刻印
昨夜、フレッドの手が髪に触れた柔らかな感触。
「またすぐに、君に会いに来るよ」という熱を帯びた声が耳から離れず、アレクシアはほんの少しだけ寝不足のまま朝を迎えていた。
ギルド『アムネシア』の裏庭。
朝日を浴びながらタマラビィの赤ちゃんたちにミルクをあげていたアレクシアの横で、ライが「ふぅ」と大きいため息をつくように鼻を鳴らした。
「……な、なに? ライ」
振り返ると、ライはジト目でじっとアレクシアの顔を見つめ、それからわざとらしく自分の頭を前脚でポンポンと叩いてみせた。
昨夜、フレッドに頭を撫でられて固まっていたアレクシアの真似だ。
「も、もう! からかわないでよライ……! ただ、みんなが無事でよかったなって思ってただけだもん」
顔を真っ赤にするアレクシアの足元で、すっかり元気を取り戻したタマラビィたちが「ピキュ」と可愛らしく鳴く。
ライは呆れたように首を振ると、アレクシアの頭に大きな鼻先をゴツンと押し当てて笑うように尾を振った。
その横では、テイマーのミレイが優しく微笑んでいる。
「アレクシアさん、タマラビィたち、もうすっかり安心してるみたい。よかったね」
「うん、ミレイくんのおかげだよ。ありがとう」
穏やかな朝のひととき。しかし、その平和を破るように、ギルドの重厚な扉が開く音が響いた。
「失礼する。ギルドマスター、アレクシアはいるか?」
白銀の鎧を朝日にはためかせ、爽やかな風を纏って現れたのはフレッドだった。
周囲の冒険者たちが、
「また騎士団長様が直々に来てるぞ……」
「昨日の今日で仕事熱心だなあ」と遠巻きにヒソヒソと囁き合う中、フレッドは迷いなくアレクシアのもとへ歩み寄ってくる。
「フレッド様……! 早いご到着ですね」
「ああ。城への報告を速やかに終えてね。……それに、早く君の顔が見たかった」
「っ……!」
2人で出かけたあの日のように、何でもないことのように甘い言葉を口にするフレッド。
周囲から「お熱いねぇ」と冷やかしの視線が飛んでくるのを察し、アレクシアは俯いて耳まで赤く染めた。
ライは「やれやれ」と言いたげに前脚の上に顎を乗せている。
「団長様よ、朝っぱらから俺の可愛い箱入り娘を口説くのはそこらへんにしといてくれや」
マスター室から出てきたオスカーが、苦笑しながら煙草の煙を吐き出した。
厳格な父親が大切な娘を心配するような、どこか過保護で温かい眼差しがアレクシアに向けられている。
「さて、雑談はここまでだ。昨日のヴィオヴァイパーの件……原因の調査に行くんだろ?」
「ああ」
フレッドの表情が、一瞬で騎士団長としての峻烈なものへと引き締まる。
「商人たちが行き交う主要街道の目と鼻の先で、あれほどの巨体が魔力で操られ、暴れていた。……現場のルピナの森を再調査し、魔物を狂乱させた『原因』がないか探し出す必要がある。アレクシア、ライ、同行を頼めるかい?」
「はい、もちろんです!」
アレクシアの言葉に合わせるように、ライも力強く短く「ウォン!」と吠え、フレッドをまっすぐに見据えた。
王都レマニア郊外、ルピナの森。
木漏れ日が差し込む美しい森だが、昨日の戦場となった深部へ近づくにつれ、痛々しい破壊痕が目立ち始めていた。なぎ倒された巨木、抉れた大地。そして——
「……異質な魔力の残渣が、まだ漂っているな」
フレッドが腰の剣の柄に手をかけ、警戒を強める。
ヴィオヴァイパーが放っていた濁った魔力に引き寄せられたのか、頭上の樹上や暗がりから、カチカチと不気味な顎の音を響かせて巨大甲虫——『ケーファルン』の群れが姿を現した。
鋭い鎌と頑丈な外殻を持つ甲虫型の魔物たちだ。
「シャアアッ!」
「ライ、前をお願い!」
アレクシアの指示を受け、巨狼ライが疾風のような速さで飛び出す。
鋭い爪で切り裂き、土魔法で一瞬にして地表を隆起させて岩壁を作り出すと、突進してくるケーファルンたちの攻撃をガッチリと受け止め、見事に前衛として敵の動きを固定した。
まさに長年培われた完璧な阿吽の呼吸だ。
(氷は見せられない……でも、素早く無力化しないと!)
アレクシアは両手を掲げ、魔力を練り上げる。
「——舞え、水の刃!」
放たれたのは、澄み渡る青い水魔法。
しかしアレクシアは、魔力の密度を限界まで高め、水圧を極限まで凝縮させていた。
高圧の水の刃が、ケーファルンたちの頑丈な外殻の継ぎ目を正確に撃ち抜き、その足を切断して動きを完全に封じる。
(ふぅ……一瞬、冷気を混ぜて凍らせようかと思ったけど、水圧だけで押し切れてよかった……)
アレクシアが胸を撫で下ろした瞬間、フレッドの風が森を駆け抜けた。
「——風の刃!」
風の極光が空を切り裂き、足止めされた魔物たちを一網打尽にする。
「見事なサポートだ、アレクシア。……君の水魔法は、本当に隙がないな」
剣を鞘に納めながら、フレッドが感嘆の息を吐く。
アレクシアは秘密を隠す後ろたさを覚えつつ、「フレッド様とライのおかげです」と微笑みを返した。
その時——ライが地面に鼻を近づけ、低い唸り声をあげた。
前脚で地面をカリカリと引っ掻き、二人に「こっちに来い」と促すように首を振る。
「ライ……何か見つけたの?」
二人が駆け寄ると、そこにはヴィオヴァイパーがとぐろを巻いていたと思われる大穴が開いていた。
ライが前脚で押しのけた泥と砕けた木々の下——中心にどす黒い不気味な魔力を放つ「黒い結晶の欠片」が埋もれていた。
「これは……! 魔法の触媒か……!?」
フレッドが慎重に身を乗り出し、籠手越しにその黒い結晶を拾い上げる。
結晶は不気味な脈動を打っており、周囲の空気を歪ませるほどの邪悪な魔力を撒き散らしていた。ヴィオヴァイパーはこの触媒から垂れ流される異常な魔力を浴び続け、正気を失って暴走していたのだ。
「誰かが意図的にこれを仕掛けたんだ……。このルピナの森は商人や旅人が多く通る場所。もしヴィオヴァイパーが街道まで出ていたら、惨劇どころでは済まなかった」
アレクシアはゴクリと唾を呑み込んだ。
「でも、一体誰がこんな恐ろしいものを……? 王都の商人や、旅人に紛れた悪徳魔導士の仕業でしょうか……?」
「いや……ただの悪党や犯罪組織の規模じゃない」
フレッドの顔から、完全に血の気が引いていた。
彼が見つめる黒い結晶の裏側——煤と泥を指で拭い去ったそこに、小さな刻印が刻まれていたのだ。
重厚な鉄の兜と、冷徹な闇の刃を象った、禍々しい紋章。
「そんな……まさか……」
アレクシアもまた、その刻印に見覚えがあった。
かつてこの世界を支配し、いまや影を潜めていたはずの、あの暗黒帝国の象徴——。
「——フィンステリウム帝国の……刻印……!?」
フレッドの呟きが、凍りついた森の静寂に重く響いた。
平和な花咲く国コンフェデラに、失われたはずの「帝国の影」が、確実に爪を立てようとしていた。




