第11話【揺らぐ影、迫る炎】
影は揺らぎ、炎は迫る。
プロダクションからの誘いと、IronSylphの声が美葉子を呼ぶ。
眼鏡の奥に隠した瞳が、選択の淵に立たされる——
影の中で生きてきた彼女が、初めて本気で未来を問われる夜。
(本作のタイトル画像および挿絵には、AI生成の画像を使用しています)
・進むべき道は・
大学の講義室の窓際に、晩秋の柔らかな日差しが差し込んでいた。
音楽産業論の講義の終わりに、教授が何気ない口調で言った言葉が、美葉子の胸に静かに刺さった。
「君たちもそろそろ就職活動を考えないと。音楽表現コースの卒業生は、一般企業への就職率も高いが、音楽業界に残るなら実績がすべてだ」
美葉子はノートを取る手を止め、窓の外に視線を逸らした。
(……普通に大学を続けていれば、安定した企業に就職できる程度の成績は取れる。親に「低俗な音楽で飯が食えると思うな」と言われた私にとって、それは悪くない選択だ。クラシック一家の期待を裏切った私が、少しでも音楽の近くで生きられる、せめてもの妥協点……)
だが、劇場にかかってきたという電話。
音楽プロダクション「峰岸プロ」からの面談希望の連絡。
展開によっては……もっと良い待遇で、演奏する側の席が得られるかもしれない。
でも——頭から離れないのは、IronSylph。
正式な誘いなど、来ていない。
自分はあのバンドのメンバーでも、候補でもない。
ただ、燐火のギターは本物だった。
あの炎のような超絶プレイは、世界を狙えるかもしれない。
千秋楽の視線も、本物だった。
まだ駆け出しのインディーズ……呼ばれてもいない。
なのにその炎だけが、安定した未来より強く残っている。
(安全な就職。プロダクションという現実的な挑戦の場。——なのに、残っているのは冷たい炎。私は、いったい何を望んでいるのだろう?)
講義が終わった後、美葉子は一人でキャンパスのベンチに座っていた。
風が前髪を揺らし、眼鏡の奥の冷たい視線が遠くを見つめる。
ベースケースを傍らに置き、軽く目を閉じると、そのまま浅い眠りに落ちていった。
・鏡の中の呼び声・
夢の中で、美葉子は無限の鏡の回廊に立っている。
青白い光が冷たく反射する中、幻の美夜が静かに現れる。
自分と瓜二つの顔、肩で切り揃えたボブヘア、眼鏡を外した冷たく燃える瞳。
美夜が静かに語りかける。
「……長い影の中から出る時が、すぐそこまで来ているわ。あなたが私になる日……その覚悟は、ちゃんとできている?」
美葉子はハッと目覚め、眼鏡を押し上げる手にわずかに力が入る。
(……覚悟、か)
その問いが、彼女の胸の奥に深く突き刺さる。
・峰岸の影・
劇場「夜鎖座」に着くと、監督が少し興奮した様子で近づいてくる。
「美葉子、峰岸プロの代表さんから連絡が来た。『ぜひ直接お会いして話をしたい』と……明後日の午後が候補日なんだけど、どうする?」
美葉子は4弦ベース・Warmlockの調整をしながら、冷たい声で返す。
「……ふん、れっきとしたプロダクション様が劇団のバイトにまで目をつけるなんて、砂漠に雪が降るより珍しい話ね。まあ、会うだけなら……構わないわ」
監督が「了解した」と言い残して去った後、美葉子は5弦ベース・IronChainのケースをそっと撫でる。
(様子見だけかと思ってたけど、日程調整まで進むなんて……しかも代表が直接?)
指先がケースの金具をわずかに強く握りしめる。
(ただの興味や採点じゃない。まさか本気なの……? )
プロダクションという現実的な道が、急に近く、重く感じられた。
・波紋と優しさ・
劇団の稽古場では次の公演、『夜に降る鎖』の調整が行われている。
灯花の演技にひときわ熱が入る。
監督が美葉子に少し心配そうに話しかけてきた。
「最近、灯花がすごく無理をしているように見えてね……主演の立場が固まってきたからか、異常に気合を入れて練習してるんだ。喉の調子も少し心配なんだが……」
美葉子は冷たい声で返す。
「……ふん、随分と熱心なことね。まぁ、頑張りすぎて壊れるのも、よくある話だわ」
そう言いながらも、眼鏡の奥でわずかに目を細める。
(……無理をしている、か。あの子の目の奥にも、私に似た焦りのようなものが混じっている気がする)
監督は苦笑しながら続けた。
「今回の演目は『夜に降る鎖』が人々を縛っていく、重いテーマだから、低音を最高に厚くしてもらいたい。君の得意分野だから、私も楽しみにしているよ」
その指示を聞いた瞬間、美葉子は胸の奥で小さく息を飲んだ。
(低音を最高に厚く……)
彼女の視線が、壁際のハードケースを見つめる。
ironchainのケースを静かに開け、彼女はわずかに指を震わせた。
カチッ、という小さな金属音が、静かな舞台袖に響いた。
その瞬間、燐火とのバトルが鮮烈にフラッシュバックした。
眼鏡を投げ捨て、冷たい視線を剥き出しにした自分。
5弦を握ったときの熱と震え。
もう一人の自分が顔を出した瞬間——。
しかし、今、ケースを開けた美葉子の胸に沸き起こった感情は、あのときとは違っていた。
覚悟、恐怖、そして——
抑えきれない興奮。
(……もう、逃げられない。あのとき、私はただ、負けたくなかっただけ。でも今……この5弦を手に取るのは、自分の意志だ……)
美葉子は5弦ベースをゆっくりと構えた。
太いB弦に指先を這わせた瞬間、弦の張力がずしりと皮膚に食い込み、振動が指の骨まで直接伝わってくる。
低く、重く、しかし驚くほど滑らかで太い音が響いた。
その振動はIronChainのボディを通じて胸の奥にまで響き、まるで自分の鼓動と重なるように、全身をゆっくりと満たしていく。
(……違う。高校時代とは、全く違う……)
高校生だった頃、5弦を手に取ったときは、強力な武器を手にしたような感覚だった。
未知の力、制御しきれないほどの威力、他人を置き去りにする危険な刃物のような存在感。
だからこそ、怖くなって封印した。
しかし今——指が弦を押さえるたび、張力も振動も、すべてが自分の血流や鼓動のように自然に溶け込む。
全てを自在にコントロールできる、圧倒的な一体感。
稽古に合わせて演奏がはじまる。
俳優たちが、夜の街で次々と「見えない鎖」に絡まれ、動けなくなってく場面。
美葉子は右手の中指、薬指、小指を順に返し、低弦から高弦へ駆け上がるタッピングを叩き込んだ。
打撃音が連続し、その隙間にゴーストノートが混じる。
細かいリズムが、低音の鎖を一段ずつ締めていった。
役者たちの演技が明らかに変わった。
声に感情が乗り、動きに力が生まれ、監督やスタッフたちの、息を飲む気配が伝わってくる。
美葉子は演奏を終え、息を荒げながらベースを下ろした。
指が震えている。
汗が額を伝い、眼鏡のレンズを曇らせる。
しかし、その震えは演奏の疲れだけではなかった。
喜びと、恐れと、抑えきれない興奮がますます高まる。
(……この才能は、どこに向かうべきなの? 私は、支える側でいいはずだった。それなのに、この低音が疼いて仕方ない…… 世界を縛りたい、もう一人の自分が、どんどん大きくなっていく……)
『覚悟』―― 夢の中の「美夜」が語った、あの言葉が蘇る。
(……私は、本当に覚悟を決められるのだろうか)
監督がストップウォッチを首から下げたまま、興奮した様子で近づいてきた。
「美葉子、最高だよ! これはもう、劇団の評判が上がることは間違いない。ありがとう」
美葉子は眼鏡の奥から冷たい視線を向け、いつもの毒舌で返す。
「……ふん、裏方にまでお世辞を言いに来るなんて、監督も大変そうですね。私はただ……」
監督は苦笑しながら、軽く肩をすくめた。
「分かってるよ。また『生活費のため』って言うんだろ? でも、それだけかな?」
美葉子は一瞬、指の動きを止めた。
喉の奥まで出かかっていたいつもの言い訳が、うまく形にならない。
眼鏡の奥で視線がわずかに揺らぎ、唇が小さく開くが、再び閉じる。
監督は美葉子の顔を見つめながら、穏やかに続ける。
「……それに、最近の君の音には、以前とは違う『熱』みたいなものが感じられるんだ。私はこれまで、たくさんのクリエイターと仕事してきたから『表現者の本気の熱量』は分かるつもりだよ」
その言葉を残し、他のスタッフに声をかけながら立ち去った。
美葉子の毒舌の仮面の下で、監督の言葉が深く突き刺さる。
(……生活費のためだけ、じゃない……低音で空間を支配したいという思いが抑えられない。でも、それを認めたら……私は、どこに向かうことになるの?)
・決断の予感・
5弦ベースを開放し、峰岸との面談も決まったこの日、美葉子はIronChainのケースを抱えて劇場を後にした。
夜道を歩いていると、スマホが震えた。
佑飛からのメッセージだった。
―――――― 佑飛@Yuhi_IronPink ――――――
美葉ちゃん、久しぶり!
次の公演、燐火ちゃんと澪ちゃんと一緒に見に行くことになったよ!
特に燐火ちゃん、めっちゃ気にしてるみたい(笑)
また美葉ちゃんの音が聴けるの、楽しみにしてるね~!
――――――――――――――――――――――
美葉子は足を止め、画面をじっと見つめた。
(……燐火が……?)
指が画面の上で止まる。
返信を打とうとして、何度も止めた。
画面を握る指先に、ふと力が入る。
胸の奥が、小さく、しかしはっきりと熱を持った。
あの夜、IronChainを握ったときの感触が、指の腹に蘇る。
「……ふん。随分と都合のいいタイミングで揺さぶってくれるじゃない」
結局、返信は打たずにスマホをポケットにしまった。
しかし、ポケットの中でスマホの感触を確かめるように、指先が微かに震えていた。
音楽プロダクションからの誘い、そして燐火の鋭い視線が、頭の中で激しく交錯する。
その交錯する二つの影の間に、一瞬だけ——鏡の中の「美夜」が静かに微笑む姿が重なった。
眼鏡を外した素顔、冷たく燃える瞳が、美葉子をまっすぐ見つめている。
(……あなたが私になる日は、もうそこまで来ているわ)
まるで、二つの世界が彼女を「影の外」へ引きずり出そうとするかのように、一斉に動き出していく。
『夜に降る鎖』の成功への手ごたえがある中で、灯花のコンディションも気になる。
「私はいったい、何を求められてるの?」
次回、第12話【鎖の狭間】(9月25日【金】20:00公開)
プロダクションの甘い誘いと、燐火の冷たい炎が美葉子に迫る。
峰岸が示した条件、そして、鉄の鎧をまとった妖精たちの魂の叫びに触れた瞬間――
影の裏方は本気の選択を迫られる。
揺れる影と迫る炎の間で、何を感じたか。
よろしければ、ご感想などで教えてください。




