第12話【鎖の狭間】
甘い誘いと世界を目指す炎が、美葉子の鎖を引き付ける。
プロダクションが示した条件と、妖精たちの魂が交錯する中、
運命の公演が、静かに、しかし確実に近づいていた。
(本作のタイトル画像および挿絵には、AI生成の画像を使用しています)
・峰岸の誘い・
12月に入り、本格的な冬が訪れた午後。
冷たい風が枯れ葉を舞わせ、街路樹に飾りつけられたLEDが、すでに年末の雰囲気を漂わせていた。
咲月駅前から少し離れた、静かなカフェの窓際。
美葉子が指定された席に向かうと、すでに一人の男性が待っていた。
年齢は40代後半、グレーのスーツを着こなし、柔らかい笑顔を浮かべた彼は、銀縁眼鏡の奥から穏やかな視線を向けてくる。
峰岸は美葉子を見ると座席から立ち上がり、温かく微笑んで名刺を差し出した。
「突然お呼び立てして申し訳ありません。峰岸プロ代表の峰岸 零一です。……黒崎 美葉子さん、劇団『夜鎖座』での生演奏を拝見させていただきました」
美葉子は眼鏡の奥から冷たい視線を向け、いつもの毒を込めて言った。
「……ふん、音楽プロダクションの代表自らが、劇団のバイトと直接面談なんて、随分と熱心ですね。スポットライトを当てる場所を間違ってるんじゃないかしら?」
峰岸は美葉子の毒舌を、むしろ楽しそうに受け止めて小さく笑った。
「ははっ、なかなか辛辣ですね。でも、それがあなたの魅力の一つだと思いますよ」
2人が席に着いたあと、彼は一呼吸置き、穏やかだが本気の眼差しで続けた。
「実は……『鏡の迷宮』の公演を観させていただいたんです。あの多重不協和音とエコーのレイヤリング……本当に天才的でした。観客の息を止める効果も抜群で、思わずアンケートノートに長々と書いてしまったのですが……覚えていますか?」
美葉子は一瞬、息を止めた。
(……あのときの専門的なコメント……あれが、この人だったの?)
テーブルに2人分のコーヒーとケーキのセットが並んだタイミングで、峰岸は柔らかく微笑みながら、核心に触れた。
「私は現在、ガールズロックバンドのプロデュースを本格的に構想しています。特に、強い個性と優れたビジュアルを持った女性ミュージシャンたちで構成されるバンドを、国内外で活躍できるレベルまで育て上げたいと考えているんです。……あなたの素晴らしいベースのスキルは、そのプロジェクトにぴったりだと感じました」
美葉子はカップを持つ手に、わずかに力を込めた。
峰岸はさらに、具体的なビジョンを語った。
「最初はインディーズでアルバムをリリースし、ライブを中心に活動。1年以内に国内大型フェスへの出演、2年以内に海外のフェスへの進出を目指します。もちろん、楽曲制作・MV撮影・海外プロモーションの費用は弊社が全額負担しますし、待遇も、現在の劇団のお仕事の約2.5倍を提示できます」
美葉子の視線が、わずかに揺れた。
カップの中のコーヒーが、彼女の指の震えで小さな波紋を立てている。
「機材やスタジオの使用も自由ですし、なんでしたら、劇団の活動も並行して続けていただいて構いません」
(……2.5倍の待遇……個性重視のロックバンド……悪くない条件だわ。むしろ、魅力的ですらある)
峰岸は最後に、静かな熱を込めて言った。
「もちろん、急な返事は求めません。……正直に言いますと、黒崎さんのような本物の低音を出せるベーシストは、本当に貴重なんです。特にガールズロックでは、音で『空間そのものを支配できるような“芯”のある低音』を出せる人は、まだ少ない。私はそこを本気で変えたいと思っているんです。バンドの土台として、あなたの才能は非常に魅力的ですので……一度、本気で考えてみていただけませんか?」
美葉子は眼鏡の奥で目を細め、カップをテーブルに静かに置いてから、唇の端をわずかに歪めた。
「……ふん、まるで『ハチミツ漬けの氷砂糖』みたいに甘い話ですね。でも、私の低音を『ロックなガールズバンドの土台』として使いたいという……その方向性が、私の望むものと完全に一致するとは限らないわね」
峰岸は苦笑しながらも、柔らかく答えた。
「確かに、あなたの表現したい音楽性と、弊社の目指す方向性に多少のずれがあるかもしれません。しかし、それこそが面白い化学反応を生むと思っています。……どうか、じっくり考えてみてください」
美葉子は名刺を受け取り、静かに立ち上がった。
「……検討しておくわ。ただし、期待しすぎない方がいいと思うけれど」
峰岸は席を立って軽く頭を下げ、親しみやすい笑顔で送り出した。
「今日はありがとうございました。黒崎さんの低音を、いつか一緒に世に送り出せたら嬉しいです」
・現実の残響・
峰岸との面談を終え、劇場「夜鎖座」に戻ってきた美葉子は、IronChainのケースを肩にかけながら稽古場に入る。
面談で提示された好条件がまだ頭に残っている中、劇団の日常に戻ってきたことで、胸のざわめきがさらに強くなっている。
稽古場では、『夜に降る鎖』の稽古が行われていた。
夜の街で、見えない鎖に縛られた人々を演じる役者たちが、うつむいたまま動けないでいる。
その中を、灯花が優しい足取りで歩いていく。
彼女の役は「鎖を解く存在」
——街の人々から「優しい女神」のように慕われている役だ。
灯花が鎖に縛られた役者の前に跪き、優しく手を差し伸べる。
「……無理に戦わなくていいよ。ここにいてもいいんだよ。痛い思いをしなくていいから……」
その声は穏やかで、温かい…。
鎖に縛られた役者が、ゆっくりと顔を上げ、灯花の手を握り返す。
・疼く5弦・
美葉子は稽古場の隅で、静かにその様子を見ていた。
(……優しく、鎖を解いていくのか)
IronChainのケースを軽く抱え直しながら、彼女は心の中で呟く。
灯花の演技は、確かに美しい。
優しく、包容力があり、傷ついた人々を包み込むような雰囲気がある。
美葉子自身も、同じように誰かを支える人生を選んだつもりだった。
しかし今、彼女の指先は、力強く弦を弾く感触を求めている。
(……灯花は、優しく鎖を解いていく。痛みを和らげ、受け止めて、そっと手放させる。それがこの物語の正しい答えなんだろう。でも、今の私は違う。優しく解く余裕なんて、もう残っていない。目の前に鎖があるなら、力づくで引きちぎり、自分の低音で粉々に打ち砕いてしまいたい——そんな衝動が、指の奥で熱く疼いている)
稽古が一区切りついたところで、灯花が美葉子に気づいて駆け寄ってきた。
「美葉子さん! お疲れ様です。峰岸さんとのお話、どうでしたか?」
美葉子はいつもの冷たい声で返す。
「……ふん、随分と大げさな話だったわ。劇団のバイトにまで条件を提示してくるなんて、暇なプロダクションもいるものね」
灯花は少し心配そうな顔をする。
「でも……もし美葉子さんがここを離れることになったら、私、ちょっと寂しいです…… いつも支えてもらってるし、美葉子さんの音、劇団にすごく必要だと思うから……」
美葉子は一瞬、目を細めた。
(……必要、か)
いつもの冷たい声で返す。
「……ふん。必要だなんて、随分と大げさね。私がいなくなっても、劇団はちゃんと回るわよ」
そのとき、監督が声をあげた。
「よし、続きいってみよう! 灯花、もう一回そのシーンやってみて。鎖に縛られた人たちに対して、もう少し『受け止める』感じで」
灯花が頷いて元の位置に戻る。
美葉子は再び、稽古を見つめながら静かに思う。
(優しく受け止めて、鎖を解いていく……それが、この物語の正しい答えなのかしら)
彼女の指が、IronChainのケースをそっと撫でる。
(……今の私なら、優しく解くんじゃなくて…… 力づくで、引きちぎってしまうかもしれない)
・鎖の狭間・
アパートに戻ってスマホを確認すると、佑飛からのメッセージが届いていた。
―――――― 佑飛@Yuhi_IronPink ――――――
美葉ちゃん! 公演見に行くの、凄く楽しみ!
よかったら、美葉ちゃんもIronSylphのこれまでの音源、聴いてみてね!
特に1stミニアルバムは、私たちの原点だから!
――――――――――――――――――――――
美葉子はしばらく画面を見つめ、結局イヤホンを耳に差し込んだ。
「……ふん。せっかくだから、ちゃんと聴いておくか」
添付の音声ファイルを再生した瞬間——美葉子の指が、ピタリと止まった。
冒頭の静かなSEから一気に炸裂する高速ギターリフ。
冷たく、鋭く、しかし芯に熱を秘めた燐火のギターが、白い炎のように空間を切り裂く。
美葉子は思わずイヤホンを耳に強く押し当て、背筋を伸ばした。
一音一音が、容赦なく心臓を抉る。
高速スウィープが銀色の刃のように空を裂き、タッピングの連打が火花を散らす。
正確無比で、感情すら排除したような冷徹さの中に、底知れぬ情熱が燃えている。
美葉子は唇を強く噛みしめた。
(……なんて音なの……)
人間が到達できる領域を超えたスピードと正確性……
高校時代に追い求めていた「高み」。
自分では到底届かないと思っていた領域を、あの女は平然と支配している。
その炎の下で、一点も揺らがないドラム。
猛烈な手数の中でもブレない軸は、公園で穏やかに話していたあの子のままだ。
指先が無意識に動き、机の上で弦を押さえる幻覚のような感覚が蘇る。
——美葉子は低音パートに耳を傾けた。
ピック弾きによる、硬く、鋭いベースライン。
正確無比で、感情を排したような冷たい響きの中に、わずかな熱を秘めている。
2曲目、3曲目……全てのベースパートに、同じプレイヤーの気配があった。
美葉子は思わずイヤホンを耳に押し当て、目を細めた。
(……このリズムの取り方……低弦を支配しながら、ギターの動きに完璧に同期している……。これは並大抵のベーシストではない)
・火種の予感・
彼女は曲を一時停止し、クレジットを凝視した。
Vocal:佑飛
Guitar, Bass & Programming:燐火
Drums:澪
「……燐火、か」
美葉子は小さく息を吐いた。
(……あいつ、ベースもここまで弾けるの? そこらのサポートベーシストなどとは比べ物にならない。高速連打もポジション移動も恐ろしく正確で、低音の土台としても十分に機能している……)
しかし——
美夜の瞳はわずかに細められた。
(……でも、決定打に欠ける。低音を本気で追い求めた者特有の「粘り」と「深み」が足りない。あくまで「ギタリストがベースも弾いている」レベル……私のIronChainとは、まだ違う)
そう理解した瞬間、美葉子の手が自然に反応した。
指先が机の上で小さく動き、太いB弦を深く沈める感触を幻のように再現する。
(……私なら、B弦をもう一段階深く沈めて、スラップの余韻を長く伸ばし、燐火の高速タッピングに絡みつくような粘りのあるラインを入れる……あいつの冷たい炎を、地面に引きずり下ろすような低音で……)
美葉子はハッとして、指を止めた。
口元が自嘲するように、軽く歪む。
「……ふん。随分と、面白い火種をくれたものね。『ただのバカテクギタリスト』じゃなかったなんて、ますます、許せなくなってきたわ」
胸の奥で、峰岸の好条件と燐火の冷たい炎が、激しくぶつかり合っていた。
美葉子はIronChainのケースをそっと撫で、静かに目を閉じた。
『夜に降る鎖』の公演が、もう間近に迫っていた。
この公演が終わったとき——自分は、どちらの鎖を見つめているのだろう。
峰岸の甘い現実か、それとも燐火の冷たい炎か。
いずれにしても、逃げ場はもう残されていない。
この公演で、何かを決めなければならない。
次回、第13話【影と夜の境界】(9月29日【火】20:00公開)
鉄の鎖をまとった妖精が、舞台に現れる。
眼鏡を外し、IronChainを握った瞬間——
影に生きてきた美葉子は、ついに夜の世界を支配する。
鎖の狭間で立ち止まった夜の気配を感じたなら、
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