第10話【残響する火種】
5弦を握った夜の熱は、胸の奥で静かにくすぶり続ける。
夢の幻影と、現実の優しい声が灯をともすとき——
彼女に、新たな火種が迫りつつあった。
(本作のタイトル画像および挿絵には、AI生成の画像を使用しています)
・残る熱・
11月下旬の冷たい朝。
窓の外では、夜明け前の薄暗い空に、冬の気配が濃く立ち込めていた。
枯れ葉が冷たい風に舞い、遠くから聞こえる車の音も、どこか凍えたように響く。
美葉子はアパートのベッドの上で、浅い眠りの中にいた。
夢の中で、彼女は無限に続く鏡の回廊に立っていた。
青白い光が冷たく反射する無数の鏡。
その中央に、一人の女性が静かに佇んでいる。
肩で切りそろえたボブヘア。眼鏡のない素顔。
鋭く、冷たく、しかし激しく燃える瞳。
鏡の中の「美夜」が、静かに手を差し伸べた。
「眼鏡を外した時の感覚……覚えているでしょう? IronChainを握った瞬間、世界が変わったあの瞬間を。もう一度、あの炎の中に飛び込む勇気は……ある?」
美葉子が何か答えようとした瞬間——すべての鏡が一斉に、鋭くひび割れた。
ガシャン——
激しい破砕音とともに、美葉子はハッと目を覚ました。
額を伝う汗を拭い、乱れた前髪をかき上げる。
(……また、あの夢か)
眼鏡をかけ、窓の外の薄明かりを見つめる。
指先が、無意識にB弦を押さえる幻覚のような動きをした。
(……影の中を選んだはずなのに。あの炎が私を惑わせる……)
美葉子は小さく息を吐き、いつもの冷たい無表情を取り戻した。
しかし、胸の奥に残る熱は、昨夜より少し強くなっていた。
・波紋の夕暮れ・
その日の夕方、劇場「夜鎖座」は、いつもより少しざわついていた。
「最後の灯火」の千秋楽が終わり、劇場では片付けと設備の点検がおこなわれていた。
美葉子が舞台袖に入ると、照明スタッフの先輩がすぐに声をかけてきた。
「美葉子ちゃん、お疲れ! 千秋楽の嵐の音、常連さんたちからめっちゃ褒められてたよ。『最近、劇が変わった』って言ってる人までいるんだって」
美葉子は4弦ベース・Warmlockのケースを置きながら、冷たい声で返す。
「……ふん、随分と大げさね。ただの効果音が、劇を変えるなんて、まるで私が世界を救った英雄みたいじゃないの」
すると、控室から灯花が慌てた様子で駆け寄ってきた。
「美葉子さん! お疲れ様です! 昨日の公演、終演後に観客の方が何人も『あの低い音が凄かった』って話してて…… 私も、なんか背筋がぞくぞくしました!」
灯花の大きな瞳がキラキラと輝いている。
美葉子は眼鏡の奥で目を細め、いつものように毒を吐こうとしたが、言葉が少しだけ柔らかくなった。
「……まあ、効果音にしては随分と贅沢な評価ね。君が演じきってくれたおかげで、私の音も死なずに済んだんじゃないかしら」
灯花が驚いた顔でぱちくりと瞬きをした後、嬉しそうに笑った。
「美葉子さん……なんか、今日優しい?」
「……気のせいよ」
美葉子はそっけなく言いながらも、内心で小さく舌打ちした。
(……普段なら出さない言葉なのに。昨夜の炎の残り火が、まだ身体に残っているせいかしら……)
・疼く予感・
美葉子はPAの点検と調整を進めながら、壁際に置かれた5弦ベース・IronChainのハードケースに視線を落とした。
昨夜、5弦を握った感触が、まだ指に残っている。
(……あの炎に近づきすぎた。影の中で生きるはずだった私が、こんなにも熱に浮かされているなんて……)
彼女は小さく息を吐き、Warmlockの弦を軽く爪弾いた。
木の温もりを残した、丸みのある低音。
アタックは柔らかく、しかし芯がはっきりしている。
E弦の解放音はいつものように安定しているが、どこか物足りなく感じる。
(……本当に、これでいいのか? このまま影に留まっていても……)
そのとき、監督が声をかけてきた。
「美葉子、君にお客さんだ。綾瀬さんっていう若い女性がロビーで待ってる。『美葉子さんに直接話がある』って」
美葉子は眉を寄せた。
「綾瀬? ……心当たりはないわ。誰かしら」
・予期せぬ来訪者・
ロビーのソファに座っていたのは、柔らかな黒髪ロングを小さくハーフアップにした穏やかそうな物腰の女性だった。
美葉子が近づくと、彼女はパッと顔を輝かせて立ち上がった。
「美葉子ちゃん! 突然ごめんね。私、澪……って、覚えてる?」
美葉子は眼鏡の奥で冷たい視線を細めた。
「……昨日の公演のあと、燐火と一緒に来たドラマーの子ね。突然訪ねてくるなんて、随分と積極的だわ。何か用?」
澪は少し照れくさそうに笑いながら、手に持っていた紙コップを差し出した。
「コーヒー買ってきたの。寒いでしょ? 話しながら飲んでくれたら嬉しいな。……ちょっと、二人で話したいことがあって」
美葉子は一瞬、警戒の色を浮かべたが、澪のまっすぐで優しい眼差しに、わずかに肩の力を抜いた。
「……ふん。随分と物怖じしない子ね。まあ、いいわ。時間は少しだけよ」
二人は劇場近くの小さな公園のベンチへと移動した。
・影と軸の邂逅・
澪は紙コップを両手で包みながら、静かに話し始めた。
「急に呼び出して、ごめんね。昨夜のこと、ちゃんと話した方がいいと思って」
「……私に?」
澪は紙コップの湯気を見たまま、続けた。
「ひょっとして、燐火のこと気にしてるんじゃないかって思ったから……」
「……別に」
美葉子は否定しきれず、視線だけを外した。
澪は小さく笑って、遠い目をした。
「燐火ってさ、高校の頃からずっとああいう子だったの。教室の窓際、一番後ろの席でいつもイヤホンしてて、誰ともほとんど話さない。周りからは『冷たい子』って避けられてたけど……ある日、席替えで隣になったの」
澪は紙コップを握りしめながら、懐かしそうに続ける。
「昼休みに、燐火のイヤホンから漏れてくる音が聞こえて。スラッシュメタルの激しいブラストビート。私、思わず『Ride the Thunderの一曲目?』って声かけちゃった。燐火、びっくりした顔でこっち見て……それから、初めてちゃんと話したの」
美葉子は紙コップを膝に置きながら、黙って聞いていた。
澪の声が少し温かくなる。
「初めてスタジオで音を合わせた日のこと、今でも忘れられない。燐火がギターを鳴らした瞬間……私、鳥肌が立った。静かで、いつも遠くを見てたような子が、突然、世界を焼き尽くすような炎を奏でるの。帰り道、二人でコンビニで袋いっぱいの駄菓子を買い込んで、公園のベンチに座って……『一緒に世界を目指そう!』って、約束したの」
(世界を……目指す?)
美葉子の心にざわめきが広がる。
澪は少し照れくさそうに笑いながら、言葉を続けた。
「『IronSylph』とか『燐火』とか、大層な名前を名乗ってるけど、もともとは女子高生が駄菓子をかじりながらノリで付けた名前なの。あの子の本名は鈴叶、私は美帆。どっちも、ちょっと格好つけて変えただけ。……今思うと、すごく子供っぽい誓いだったけど、あの時の燐火の目、本当に輝いてた」
美葉子は思わず、小さく鼻で笑った。
「……案外、可愛い名前じゃないの。それにしても、燐火が駄菓子で大騒ぎなんて想像もつかないわね。あのプライドの塊がスナックやグミを頰張ってるなんて……猫が犬語を話すより珍しい光景だわ」
澪も笑いながら頷いた。
「でしょ? 意外と可愛いんだよ、あの子。口が悪いのも、実はすごく真剣だから……失敗するのが怖くて、誰にも近づかせないようにしてるの。……美葉子ちゃんも、ちょっと似てるよね」
美葉子は笑みを引っ込め、眼鏡の奥で目を細めた。
「……似てる、ですって?」
「うん。冷たい顔してるけど、音に対しては誰より熱い。だからこそ、あのバトルで、あんなにすごい音が出たんだと思う。二人が本気でぶつかったら、きっとすごいものが生まれるよ」
美葉子は紙コップを握る手に力を込めた。胸の奥が、熱く疼く。
(……似ている、か。あの冷たい炎と、私の鎖が……)
彼女は小さく息を吐き、いつもの毒舌で返すが、声の端にわずかな柔らかさが混じっていた。
「……ふん、佑飛に対しても思ったけど、あんたみたいな素直な子が、よくあんなわがままな奴と、いつまでもつるんでるわね」
美葉子は澪と会話する中で、少しずつ自分の心が解きほぐされていることを感じていた。
目の前にいるのは、燐火の炎とともに世界を目指すことを決めたドラマー。
(影の中にいる私と、何が違うのか?)
美葉子の心に、僅かな好奇心か湧き起こる
「ひとつ聞いてもいいかしら? あんたがドラムを叩く理由って何?」
澪は少し驚き、やがて少し俯きながら、ゆっくりと語りだした。
声が少しだけ低くなる。
「私ね……小さい頃、父親の暴力が怖かったの。毎晩押し入れに隠れて耳を塞いでた。次に何が起きるかわからない音が、全部怖くて……『自分では止められない音を、いつか自分の音で塗り替えたい』って、心の中でずっと誓ってた」
彼女は紙コップを握りしめ、静かに続ける。
「中学に入って吹奏楽部でドラムを叩いた瞬間、初めて思ったの。『これは、自分から出せる音だ』って。襲ってくる音じゃなくて、自分が空間を塗り替えられる音。メタルの激しいビートを叩けるようになるたび、父親の声が少しずつ遠くなっていく気がした……」
澪は遠くを見る眼差しで、少し照れた笑顔を浮かべる。
「だからドラムは、私の救いなんだ。……自分が無力な場所に戻らないための、『地面みたいなもの』なんだと思う」
美葉子は思わず、小さく鼻で笑う。
その目には微かな優しさが浮かんでいた。
「……駄菓子をかじる燐火も想像できないけど、押し入れの中で『もっとうるさい音』を目指してたあんたも、なかなか尊い過去の持ち主ね」
澪も笑いながら頷いた。
「でしょ? 意外とみんな、音に救われてるんだよ。……美葉子ちゃんも、きっとそうだよね」
美葉子は紙コップを口に運びかけたまま、軽く鼻を鳴らす。
「……私? とんでもないわ。家では最悪の反抗期でね、毎朝6時にスラップベースをフルボリュームで叩き鳴らして、両親を地獄に叩き落としてたものよ。親は2人ともクラシックのエリートだったから、親孝行の真逆を全力でやってやったの」
言葉を継ごうとした瞬間、自分でも不思議に思う。
(……なぜ、この子には話してしまうのだろう)
影に隠してきたはずの過去を、こんなにも自然に口に出している。
澪のまっすぐで優しい眼差しが、いつもの冷たい壁を、静かに溶かしている気がした。
澪は目を丸くして、呆れたように笑った。
「朝6時!? 美葉子ちゃん、相当な悪ガキだったんだ……想像したらなんか可愛いけど、怖いわ」
彼女は笑いながらも、徐々に表情を柔らかくして続けた。
「……でも、すごいよね。そうやって自分の音で立ち向かう強さ。私なんか、押し入れから出る勇気もなかったし……あの時の私にも、美葉子ちゃんみたいな強さがあったらよかったのに、って思うよ」
澪は少し照れくさそうに笑い、紙コップを軽く握りしめた。
「だからこそ……美葉子ちゃんの低音、すごく力強いんだなって、改めて思う。影の中にいるように見えて、実はすごく熱いんだよね。それに——」
少し言葉を選びながら、澪は静かに付け加えた。
「美葉子ちゃんの低音は、誰かを救う力があると思う。鎖みたいに、しっかり掴んで離さない……そんな音だよ」
美葉子は紙コップを口元に運ぶ手を止め、眼鏡の奥で目を細めた。
一瞬、言葉が出てこなかった。
(……救う、力……? 鎖みたいに、掴んで離さない……)
胸の奥が、ちくりと疼く。
「……私はただ、目立たずに生きていたかっただけよ。あれだけ逆らった親から学費を出してもらってる半人前に、『熱い』だなんて……随分と不思議な評価だわ」
(……私は音で人を壊した。拓海先輩のギターも、笑顔も、全部飲み込んでしまった。でも、この子は音で自分を救った。……何が、こんなにも違うの?)
胸の奥が、鋭く疼いた。
二人の会話は自然と途切れた。
澪が紙コップを両手で温めながら、柔らかく微笑んだ。
「今日は急に呼び出してごめんね。でも……美葉子ちゃんに話せてよかった。燐火のこと、ちゃんと伝わったかな?」
美葉子は眼鏡の奥で目を細め、静かに答えた。
「……ふん。随分と熱心に語るのね。正直、あいつの態度にはまだ納得はいかないけど、まあ、悪くは……なかったわ。」
その言葉の端に、ほんのわずかだけ柔らかい響きが混じっていた。
澪は嬉しそうに目を細めた。
「うん。それで十分だよ。美葉子ちゃんが少しでも、私たちのことをわかってくれたらいいなって思ってたから」
二人は立ち上がり、公園の出口に向かって並んで歩き始めた。
夜風が少し冷たくなっていた。
澪がふと足を止め、美葉子に向き直った。
「また話そうね。今度は、もっと明るい話題で。……そして、いつか、一緒に音を鳴らしてみたい」
美葉子は一瞬、言葉に詰まった。
「……随分と物好きね。私は影から劇を支えているだけの、ただのバイトよ」
彼女はそう言いながら、あくまで冷たい表情を保った。
澪は明るく手を振って、夜の道を去っていった。
美葉子は一人、公園の出口に残り、遠ざかる澪の背中をしばらく見つめていた。
(……あの子も、音への葛藤と情熱を抱えた一人。そして燐火も……)
胸の奥が、静かに疼いた。
彼女は小さく息を吐き、劇場へと足を向けた。
・火種の予感・
夜鎖座に戻ると、監督がロビーで待っていた。
少し顔を曇らせた様子で、メモ用紙を手に近づいてくる。
「美葉子、ちょうどよかった。……君に伝えないといけないことがあってね」
監督はため息を一つ吐いてから、続けた。
「君が席を外したあと、妙な連絡が入ったんだ。『峰岸プロ』っていう音楽プロダクションから……君の劇伴について、詳しく話を聞きたいそうだ。担当者が直接連絡を取りたいって言ってるらしい」
美葉子は足を止めた。
眼鏡の奥で、冷たい瞳がわずかに揺れる。
「……峰岸?」
監督はメモを差し出しながら、複雑な表情で言葉を付け加えた。
「かなり本気みたいだよ。『ぜひ一度、話を聞かせてほしい』って……。ひょっとしたら、目を付けられているのかもしれないな。なんせ、プロダクションが直接かけてくるのは初めてでね。どうする? 連絡してみるか?」
美葉子はメモを受け取り、静かに見つめた。
(……劇伴の話にしては、相手が大きすぎるわね)
指先が、メモの端をわずかに強く握りしめた。
ただのバイト先だと思っていた場所に、外側から目が向いたことが、妙に重く残る。
眼鏡の奥で目を細め、唇の端に薄く、自嘲とも予感ともつかない笑みを浮かべた。
「……ふん。火種が一つ増えただけじゃないわ。これはもう、森全体が燃え上がる予感がする……厄介ね」
誰もいない劇場ロビーに、美葉子の呟きが静かに溶けていった。
その瞳の奥には、影と炎の狭間で激しく揺らぐ葛藤が、静かに宿っていた。
・次回、第11話【揺らぐ影、迫る炎】(9月22日【火】20:00公開)
プロダクションの誘いと、IronSylphの視線。
封印を解いた低音は、もう影の中に留まれない。
鏡の中の美夜が、静かに現実へ迫る。
残った熱の行方を、どう見ていただけたでしょうか。
評価やご感想をお待ちしています。




