第8幕 正妃殿下は淑女
ジャーダ宮を訪れるのは、実は初めてだ。
王太子殿下と正妃殿下の宮だもの。側妃が軽々しく訪れることはできない場所なのよ。陛下と王妃殿下の宮であるスメラルド宮も訪れることはないわね。側妃はお相手が訪れるのを待つしかないのだ、と考えれば、幸せな夫婦とは程遠い。
まぁ、アウジリオ様に愛されたいかと言うと……。初夜での対応が違えば、印象も変わったのだろうか?
こんな考えをすることも不敬かしらね。
宮と言えば、軍部の中心であるルビーノ宮と文官の中心であるザッフィーロ宮を訪れることもないわ。護衛の手配をした時も侍女に手紙を預ける形式だったし。王城の中心であるディアマンテ宮は、晩餐会や舞踏会が開かれば訪れるだろうけど……。正妃殿下が臨席されるなら、側妃である私はペリドート宮に待機だろう。
何だか籠の中の鳥って感じで嫌だわ。
マリアンヌ様が待つ応接室へと案内する侍女の気配があまりに薄くて、つい余計なことまで考えてしまった。
侍女だけではないわ。衛兵やメイドの気配も薄い。視界には入るのに、まるで置物のよう。同じ王宮でもペリドート宮とは全然違うのね。
やがて応接室に着いた。ノックの音まで静謐だわ。
「どうぞ」
涼やかな声はジャーダ宮に、とても合っていた。
「正妃殿下にご挨拶申し上げます。側妃クラリッサでございます。本日はお招き頂きありがとうございます」
「マリアンヌよ。楽になさって」
ソファに腰掛ければ、音もなく紅茶が置かれる。どこまでいっても静かだ。マリアンヌ様が一口飲まれるのを見て、私も喉を潤す。
「ふふ、一緒にお茶を飲めて嬉しいわ」
「私もです」
軽やかな笑みを浮かべられるマリアンヌ様には、気品がある。地味な色合いであるはずの茶髪も艶やかで、ぽってりとした唇と柔らかな頬にも色香がある。それでいて白魚のような手が添えられると、清純な雰囲気がある。
「ごめんなさいね。本来ならもっと早くに誘うべきだったのに」
「いえ、お忙しいのは存じていますから」
格は違えど同じ妃だからか、あっさりと謝罪されるのに、ちょっとどきりとしてしまう。張りぼて側妃の心臓は伯爵令嬢のままなのだ。
「あなたも忙しいのではなくて?」
「いえ、全然ですわ」
本当に。今のところ、側妃としての決まった公務もないからね。
「ブオナパルテ領に行かれたと聞いているわ。ファビオ様はお元気でしたかしら」
私の用件を把握されている?
それとも直近の話題を上げただけ?
「ええ。領内の案内もして頂きました。快活なご様子でしたわ」
「良かったわ。悩まれているようだったから心配していたのよ」
マリアンヌ様はレケメデル領の現状を、やはり把握されておいでなのね。私が相談しに来ることも織り込み済みかしら。であるならば、と口を開こうとしたところで、意外なことを聞かれた。
「今日はアウジリオ様のことかしら?」
「アウジリオ様?」
「ええ。アウジリオ様よ」
あれ、優先順位が高いのはこっち?
ええと、聞かれているなら言葉を返すべきよね。興味ありません、は角が立つか。
「申し訳ございません。アウジリオ様のことではありません」
「違うの?」
「はい」
「本当に?」
「ええ」
「今日は側妃として訪れたのではなくて?」
「アウジリオ様に興味ありませんので」
あ、繰り返し聞かれるから、ついポロっとしちゃったわ。冷や汗がたらりと背を伝うけど、マリアンヌ様に浮かぶ表情は困惑だ。
「アウジリオ様がペリドート宮を訪れたのは二回だけだと聞いているわ」
初夜とファビオ様が訪れた時ね。間違っていない。
「その後、頻繁に手紙のやり取りがあったとも聞いているわ」
一時、ベルとディアが入れ替わり立ち替わりジャーダ宮を訪れていたのだ。宮の主としては把握しているよねぇ。
「でも、アウジリオ様がペリドート宮を訪れることはなかったと……。だから側妃の立場表明にいらっしゃったのではないの?」
あ、手紙の内容までは知らされていないのね。立場表明という意味では、間違いではないのだけど。
そうね、アウジリオ様は秘密にしておきたかったのかもしれないけど、マリアンヌ様も知っておいて頂きたいことだわ。国の未来に関わることではあるのだし。レケメデル領の話をする上でも必要なことだわ。
「正妃殿下、少々込み入った話をしても?」
「構わないわ。私のことはマリアンヌと呼んでちょうだい」
「ありがとう存じます。私のことも是非クラリッサとお呼びください」
仲違いすることはない、とお互い表明し合ったところで、マリアンヌ様が右手を小さく掲げられる。途端にメイドも近衛も侍女もいなくなる。静かに、速やかに。ペリドート宮とは雰囲気が違うだけで、統率は取れているのよね。
人払いされたのを確認すると、私は大前提をまず打ち明けた。
「マリアンヌ様、私はこの二年の間に離縁する予定ですわ」
「離縁?」
「はい。手紙は、その際の細かい決め事をするためですね」
訪ねてくるのではなく、まさかの文面でのやり取りに、最初は辟易としたけどね。
でも、遺産やら賠償やら。アウジリオ様は意外と真面目だった。期間も最大二年と決まったわ。ご懐妊のタイミングによっては短縮されることもあるけど、延びることはないだろう。一年以内に子を成せるのなら。
「でも、クラリッサ様は愛妾などではなく、婚姻を交わした側妃なのよ。婚姻は魔法契約よ。離縁などできるはずないわ」
「ええ、でもアウジリオ様とは白い結婚ですから」
マリアンヌ様が虚を突かれたような顔をされる。
そう、婚姻を交わしても一年以上、契りを交わさなければ他人とみなされ、魔法が解かれる。婚姻をすれば初夜の儀を行うのもセットのようなものだから、本来離縁はできないとなるのよね。初夜を放棄したことは噂で聞いていたと思うけど、ある意味、神に背くようなことだからね。王族がそんなことをするはずはないと思っていたのかも。
アウジリオ様には秒で初夜を終えてきたとでも言われていたのだろうか。ちょっと笑える。
「けど、それでは、継嗣の問題が残るわ」
力のこもってない声は儚く、不安を感じさせるわ。ただ一人愛されていた喜び。それを覆い隠すような憂い。女性であり王族でもあるが故の葛藤。
正妃として誠実な方なのだろう。
だから、私は力強く言った。
「大丈夫ですわ。アウジリオ様は一年以内に子を成すと宣言されましたわ」
「一年以内?」
「ええ、一年以内ですわ」
途端にマリアンヌ様の顔が真っ赤になる。
「そ、そうなの。だから、あんなに夜の訪いが……」
ん? 消え入りそうなつぶやきに、首を傾げそうになったところで気付く。え、もしかして一年以内に子を成す方法って、まさかの数打ちゃ当たる戦法? アウジリオ様っていかにも理知的ですって外見なのに、実は脳筋なの?
一先ず聞かなかったことにしよう。清純な乙女である私には、荷が重い話だもの。
一度息を整えたところで、私はようやく本題を切り出した。
「マリアンヌ様、レケメデル領のことでお願いがありますの」
途端に正妃の顔になる。私も清純な乙女から真面目な側妃に切り替える。
将来的な薬草問題解消のために、王族としてレケメデル領の統治に介入したい。そしてマリアンヌ様に仕事を引き継ぎたい。
要点をまとめれば、こんなところかな。
マリアンヌ様は一度頷かれる。
「レケメデル領のことは私も気になっていたのよ。むしろお願いしたいくらいだわ」
やはり聡い方だわ。そして、真面目な方だった。
「このことはアウジリオ様も把握されているのかしら? 離縁の際の文面にきちんと織り込まれているのかしら?」
「え?」
手紙のやり取りはブオナパルテ領を訪れる前だったから、レケメデル領に関する権利などは何も決めていない。マリアンヌ様に引き継ぐまでの繋ぎのつもりでいたし。
「成果にはきちんとした褒賞が必要よ」
何だか離縁後もお金に困ることはなさそう。
産前産後の助けになるような薬草もあったかしら? この国の将来に繋がるものが一つでも増えるといいわ。
そのためにもきちんとレケメデル領を立て直さないとね。降ってわいたような領地経営に、私の胸は高鳴った。




