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逆針冠の噂

『逃げられないなら、朝そのものをずらすしかない。』

午前六時。第1鐘。


目を開けた瞬間、私は北壁の霧を思い出した。

白い布みたいに張りつき、風では揺れず、向こう側の鳥と草だけを止めたままにしていた境界。

都の外は止まっている。

逃げ道は、最初から折られていた。


私は寝台の上でしばらく動かず、掌を見つめた。

逆針の疼きはまだ薄く残っている。境界杭に刻まれていたあの印――円を一本の線が逆向きに貫く印――は、石板にも、綴じ錐にも、私の血筋にも繋がっていた。


なら、次に探すものは決まっている。


逆針の印が付いた“何か”。

逃げられないなら、場所ではなく朝をずらすしかない。

そのための道具が、どこかにある。


墨手帳を開き、黒砂墨を一滴だけ使った。鼓動が一拍欠ける。


――都の外は止まっている。

――境界杭にも逆針の印。

――次は、逆針の噂。


その最後の一行を見つめながら、私は無意識に呟いた。


「冠……」


なぜその言葉が出たのか、自分でも分からなかった。

けれど、石板や綴じ錐より、もっと“身につけるもの”の気配がした。


午前中、私は書記局の古記録を漁った。

針返しの家。戻し線。終鐘鋳造の補助記録。

だが、そこにあるべき行が、あまりにも綺麗に抜けている。


三冊目の綴じ帳の欄外に、細い擦れ跡を見つけた。

頁を破いたのではない。

必要な単語だけを刃で削っている。


指で触れる。

粉が付く。白い。石粉ではなく、白鐘合金の削り粉に似ている。

ルツか。

あるいはルツに近い誰かが、ここまで来て“逆針”の行だけを抜いている。


私は舌の先で奥歯を押した。

情報が消されている。

なら、紙の外へ行くしかない。


石工通りへ向かうと、ドーラは工房の前で石を割っていた。

槌の音が乾いている。短く三回、間、長く一度――あの楔を殺すリズムとは違う、ただの仕事の音だ。それが妙に安心した。


「今日はどこが崩れる」

私を見るなり、ドーラはそう言った。

「今日は崩れない」

「じゃあ珍しいな」


私は工房の壁際の逆針石板を見上げた。

「この印の噂を知りたい」

ドーラの槌が止まる。

彼女は石板ではなく、私の顔を見た。


「どこで聞いた」

「境界杭」

私が言うと、彼女の眉がほんの少しだけ動いた。


「外まで行ったのか」

「行って、戻された」

「そりゃそうだ」

ドーラは鼻を鳴らした。「あの印は“戻し線”だ。石工の言い方じゃな。だが、もっと古い連中は別の名で呼んでた」


「何て?」

彼女は周囲を見回し、職人たちが遠いのを確かめてから低く言った。


逆針冠さかばりかんむり


私は息を止めた。


「冠?」

「被るって意味じゃない。都の“朝”に被せる輪だって話だ」

ドーラは石板の逆針を指で叩いた。「古い石工の噂だ。鐘楼が今の形になる前、始まりの一打を数息だけ前後させる輪があったってな」


数息だけ。

起点を少しずらす。


「どこにある」

私がすぐ問うと、ドーラは首を振った。

「そこまでは知らん。ただ、そんな噂を漁るなら書庫じゃなく市場だ。古いものの場所は、紙より先に値段がつく」


彼女はそこで槌を拾い直し、付け足す。


「気をつけろ。ここ数日、その噂だけ妙に消える。言った奴が次の朝には口を噤む。……白い粉も残る」


ルツも探している。

私は頷き、そのまま迷宮市場へ向かった。


迷宮市場の“深い場所”は、いつもの露店通りにはない。

ゼフに合図を送る必要がある。


「鈴は三段」

「指は黒」


今日は噴水ではなく、香油売りの裏手だった。

ゼフは布の陰から現れ、私の顔を見てすぐに言った。


「いい顔してない。掘る気だな」

「逆針冠って知ってる?」

私の問いに、ゼフは笑わなかった。

笑わない時の彼は、いつもより市場に近い。


「値の張る噂だ」

「今日の釣り針はある」

「言え」


私は低く言う。

「十五時八分、南織路の荷紐が切れる。布は落ちるが泥はつかない。衛士は拾い直しに寄る。東の地下口が四分空く」


ゼフは頷き、私を市場の裏、さらに裏へ連れて行った。

布と布の隙間を抜け、錆びた梯子を下り、湿った石室へ入る。

そこは露店ではなく、“噂の保管庫”みたいな場所だった。紙片、骨鈴、削れた印章、名前の消えた地図。


石室の奥に、老婆がいた。

前に音写貝を貸した片目の澄んだ婆だ。


「また喉かい」

彼女が言う。

「今度は朝だ」

私が答えると、老婆の片目が少しだけ面白そうに細まった。


「逆針冠」

私が名を出す。

老婆は何も言わず、足元の木箱を蹴った。中から、擦れた紙片が一枚滑り出る。

紙片の端は削られていた。必要な単語だけが消されている。白い粉が薄く残っている。


「皆、最近それを聞きたがる」

老婆は言った。「でも答えを買う前に、答えのある紙が削られる」


私は紙片を見た。

残っている文字は少ない。


――逆針冠

――市場の下

――採石場の古い空洞

――白鐘の棺


棺。

遺跡。

私は喉が乾いた。


「起点をずらすのか」

老婆は頷きもしなかった。

「ずらすのは場所じゃない。“最初の鐘”の方さ。人間ひとりぶんの息か、せいぜい数分。だが、その数分で死ぬ奴も助かる奴も出る」


数分。

それで十分だ。

同時成立の鍵を合わせるには、数分でも足りる。


「どこだ」

「そこまでの地図は高い」

老婆が言った、その時だった。


ゼフが床の端を指で弾いた。

そこに、小さな白い粉の点が落ちていた。

新しい。

まだ湿っている。


私はそれを見る。

老婆も見る。

片目だけが冷える。


「ついさっきも客が来た」

彼女が言う。

「黒手袋。白い輪。こっちの値より高い値を置いて、削れるだけ削っていった」


ルツ。


確証だった。

ただの勘ではない。

同じ噂を、同じ朝のずれを、同じ冠を――ルツも探している。


老婆は私へ紙片を押し出した。

「それでも買うかい」

私は頷いた。

「代金は」

「今度は釣り針じゃない」

老婆は片目で私の懐を見た。「その手帳の中に、“誰にも見せてない一行”を一つ書いて、ここへ置いていきな」


私は息を止めた。

手帳そのものではない。

一行だけ。

けれど、誰にも見せてない一行。

それは噂じゃなく、私の芯だ。


私は墨手帳を取り出し、少し迷ってから一行だけ新しい頁へ書いた。


――私は、朝をずらしてでも明日を見たい。


黒砂墨の字が沈む。

その頁を破ることはできない。

代わりに、私はその一行を老婆へ読ませた。

片目が細くなり、彼女は紙片を私へ渡した。


市場の下。

採石場の古い空洞。

白鐘の棺。


逆針冠は、そこにある。

少なくとも、噂はそう言っている。


石室を出る時、ゼフがぽつりと落とした。


「お前の前に来た白鐘師、珍しく焦ってた」

「何で分かる」

「値切らなかった」


私は笑えなかった。

ルツも急いでいる。

つまり、こちらにも時間がない。

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