地下遺跡
『埋めたはずのものほど、いちばん深いところで息をしている。』
午前六時。第1鐘。
私は目を開くなり、墨手帳を胸の上へ引き寄せた。
昨夜の黒砂墨は、皮の奥へすでに沈んでいる。
――逆針冠。
――市場の下。
――採石場の古い空洞。
――白鐘の棺。
――ルツも急いでいる。
手首を見る。
百粒の腕輪。黒い粒は三十七。
三十七回目の朝。
数字だけなら、もう十分に狂っていてもおかしくない。なのに私はまだ、紙へ向かう時だけは指が震えない。書くことで、かろうじて形を保っているのだと思う。
私は墨手帳を開き、新しい頁へ一行だけ足した。
――今日は、見るだけでは済まさない。
黒砂墨が沈む。
鼓動が一拍だけ欠けた。
石工通りへ着くと、ドーラは工房の裏で石を選っていた。
朝の光の中、灰色の髪が石粉をかぶって白く見える。私の足音を聞いても振り向かず、先に言った。
「顔で分かる。良くない噂を掴んだな」
「逆針冠」
私がその名を出すと、さすがに彼女の手が止まった。
「市場の下、採石場の古い空洞、白鐘の棺」
私は続ける。
ドーラは舌打ちし、石を置いた。
「……とうとうそこまで行ったか」
「場所を知ってる?」
「場所だけなら」
彼女は私を睨んだ。「だが、あれは“見つけたら持って帰れる”類のもんじゃない」
私は答えなかった。
持って帰れるとは思っていない。
けれど、実在するかどうかだけでも確かめたい。
ルツが急いでいるなら、なおさら。
ドーラは工房の隅から古い燭台と、油の染みた布巻きを持ってきた。
「灯りはこれ。風がないから、裸火でも死にはしない。……たぶんな」
「一緒に来る?」
「入口までだ」
彼女は即答した。「石の鳴き方は教える。だが、その先はお前の血が呼ばれてる」
血。
私は掌を見た。
皮膚の上には何もない。けれど奥で、逆針がもう小さく疼いていた。
旧採石場は、昼の光の下で見ると夜より荒れて見えた。
崩れた石段。乾いた草。半ば土に埋まった古い荷車の車輪。
その一角、壁がえぐれたように凹んだ場所へ、ドーラは無言で向かう。
「ここだ」
石壁の根元に、半ば崩れた石積みがあった。前に坑道を見つけた時の封とは違う。もっと古く、もっと雑に“塞いだまま忘れられた”形をしている。
だが、忘れられていない証拠が一つだけあった。
白い粉。
石の継ぎ目に、指で払ったような新しい削り粉が残っている。
そしてその横に、黒い砂が一粒。
ルツは来ている。
「最近、誰かが触った」
私が言うと、ドーラは鼻を鳴らした。
「見れば分かる。石の息が変わってる」
彼女は壁へ耳を当て、しばらく動かなかった。
その姿は祈っているようにも見えたが、たぶん石工の仕事は祈りよりずっと正確だ。
「中は空洞だ。けど、まっすぐじゃない」
ドーラは立ち上がった。「崩して入るなよ。支えが古すぎる。左の三段を外して、奥へ押せ」
私は指示どおり、石積みの左下へ手をかけた。
一つ。二つ。三つ。
古い石が乾いた音を立てて外れ、奥の板石が少しだけ浮く。そこへ肩を入れて押すと、石の継ぎ目がすうっと開いた。
冷気が来た。
けれど、ただの冷気ではない。底の方に、微かな暖かさが混ざっている。
あの、塔の喉から上がってきた息と同じ種類の温度だ。
「戻らなきゃならん時は、灯りを消せ」
ドーラが言った。
「暗い方が道が見える?」
「いや。お前が自分の足音を聞ける」
私は頷き、燭台へ火を移した。
炎は小さい。小さいが、十分だ。
私は入口へ身を滑り込ませた。
中は坑道というより、古い遺跡の喉だった。
壁は自然の岩肌ではない。削られ、磨かれ、ところどころに白鐘合金の釘のようなものが打ち込まれている。
天井は低く、息を吐くと音がすぐ戻ってくる。
床には、古い足跡と新しい白い粉。
誰かが先に通った道だ。
灯りを上げる。
壁に、逆針の印がいくつも走っていた。
石板で見た戻し線より細く、綴じ錐の焼印より古い形。まるで最初に描かれた図案みたいに簡素だ。
私は胸の奥が重くなるのを感じた。
ここはただの隠し通路じゃない。
都が今の形になる前から、この印のために掘られた場所だ。
通路は途中で下り、広間へ開いた。
思わず息を呑む。
広間の中央に、白い金属で縁取られた石棺があった。
地面に置かれているのではない。三本の鎖で、浅い穴の上へ吊られている。
棺というより、何かを封じるための箱だ。
蓋の表面には白鐘の線。その中心へ、逆針の印が打ち込まれている。
白鐘の棺。
市場の噂は、本当だった。
私はゆっくりと近づいた。
周囲には、最近削られた跡がある。蓋の縁の一部が薄く削られ、石床には白い粉が散っている。
ルツはここまで来ている。けれど棺は開いていない。
なぜだ。
私は燭台を近づけ、蓋の縁を見た。
そこには、削られて消えかけた古い文字がわずかに残っていた。
……始まりの一打を……す輪……
その先が削られている。
輪。
冠。
私は喉が乾くのを感じながら、蓋へ手を伸ばした。
触れていいのか分からない。
分からないのに、掌の奥の逆針が熱を持ち、指先を引く。
鐘心臓の掌座に触れた時と同じだ。
ここでも、私は“呼ばれている”。
白い金属に指先が触れた瞬間、痛みが走った。
痛いのは棺ではない。私の掌の内側だ。
皮膚の上には何もないのに、奥の方で細い針を押し込まれたみたいな痛み。
そして、蓋が――わずかに鳴った。
かち。
本当にほんの指一本分だけ、蓋が浮く。
その隙間から、冷たいのに熱を孕んだ空気が漏れた。
私は反射で燭台を近づける。
中にあったのは、冠だった。
王冠ではない。
輪の内側に、逆向きの針のような線が何本も走っている。白鐘合金と黒い硝子が絡み合い、光を受けるたびに“朝の縁”みたいな色を返す。
見たことがないのに、見た瞬間に分かった。
逆針冠。
実在する。
私は息を止めたまま、それを見つめた。
欲しい、という感情より先に、怖いと思った。
これを被れば、時間の方がこちらへ被さってくる。そんな予感が、理屈より先に皮膚へ来る。
そして、その隙間からもう一つ見えた。
棺の内側に、白い粉で書かれた新しい線。
誰かが最近、爪か刃で刻んだ短い記号。
円。
一本線。
逆針。
ルツはここまで来て、棺を開けきれなかった。
私の掌だけが、蓋をわずかに動かした。
私はその事実に、背中がぞくりとした。
その時、掌の痛みが強くなった。
前に切った指の傷跡が、開くでもないのに熱を持つ。
蓋の縁へ、赤いものが一滴落ちた。私の血だ。
次の瞬間、棺の蓋がもう一度、かち、と鳴った。
今度はさっきより、ほんの少しだけ深く。
私は息を呑んだ。
この棺は、私の血に反応している。
その理解が形になる前に、広間の入口の方で石が鳴いた。
誰かが来る。
あるいは、遺跡そのものが目を覚ました。
私は反射で蓋から手を離し、燭台を抱えた。
白い冠の輪が、暗がりの中で微かに脈を打った。




