表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
35/39

鐘造りの系譜

『喉が歌い、砂が脈を打つなら、最後に要るのは“誰の掌か”だ。』

午前六時。第1鐘。


目を開けた瞬間、私は掌を見た。

皮膚の上には何もない。けれど、奥の方で逆針が小さく疼いている。鐘心臓の扉の掌座へ触れた時の感触が、いまだに骨の内側へ残っていた。


喉の鍵はミラ。

砂の鍵は鼓動砂時計。

なら、最後の一つは何だ。


私は墨手帳を開き、黒砂墨で小さく書いた。


――喉=歌い手。

――砂=第二鍵。

――掌=誰。


誰。


その一文字が、皮の上で妙に重たく沈んだ。

ルツは前に言った。

“君は、扉に選ばれている”

あれが比喩でないなら、私はただそこに立っているだけの人間ではない。


手首を見る。黒い粒はまた一つ増えていた。

私は数えるのをやめ、手帳を閉じた。


今日、確かめるべきは血だ。

正確には、系譜。


書記局の記録棚は、都の嘘を綺麗に綴じて並べる場所だ。

だから私は、自分の知りたい真実がそこに無いことも知っている。

それでも、入口としては十分だった。


塔の建設記録。

基礎補修簿。

鐘鋳造師名簿。

私は昼までずっと、古い革綴じの帳面をめくり続けた。


古い記録は、字より印章の方が正直だ。

人名は消される。役職も書き換わる。だが、家紋や工房印の形は意外に残る。


三冊目の帳面の終わり近くで、私は手を止めた。


頁の下に、小さな焼印が押されている。

円の中を、一本の線が逆向きに貫いている。

逆針。


私は息を止めた。

壁の石板にあった戻し線。

掌の奥の疼き。

それらと同じ形だ。


欄外の注記を読む。


《終鐘鋳造・最終封印担当 針返しの家》


針返し。


私はその言葉を心の中で繰り返した。

鐘造りの工房名か、家名か。

少なくとも、終鐘楼の最後の封印に関わった一族の印だ。


そこへ、扉の外から咳払いが聞こえた。

ハルヴァンだ。


「また古いもん漁ってるのか」

私は帳面を閉じかけたが、遅かった。

彼は焼印をちらりと見て、面倒そうに肩をすくめる。


「その辺の連中、もうとっくに死んだよ。鐘造りの連中は、火を使いすぎて町から追いやられた」

「追いやられた?」

「鐘鋳造は金になるが、煙と火事も呼ぶからな。最後は綴じ屋にでもなったんじゃないか。針回して食う方へ」


綴じ屋。


私は一瞬、喉が詰まった。

母が教えてくれたのは、文字の書き方ではなく、紙の綴じ方だった。糸の通し方。針の返し方。紙束を本へ変える手の動き。


「……どこに」

「南の綴じ小路だよ。今は半分空き家だ」


ハルヴァンはそれだけ言って去った。

私は帳面を閉じ、すぐに外套を羽織った。


南の綴じ小路は、鐘下街と内周の中間にあった。

細い通り。湿った石壁。紙屑と糊の匂い。

今は看板の半分が外れ、店の多くが閉まっている。けれど、風の中にまだ“仕事場の匂い”が残っていた。


私はその匂いを知っている。

母の指。夜更けの灯り。糊の湯気。紙の断ち口。

名前も、呼び方も、色も少しずつ抜けているのに、匂いだけは残っている。


小路のいちばん奥、鍵の壊れた古い戸の前で、私は足を止めた。

ここだと分かった。理由はない。けれど、掌の逆針が小さく熱を持った。


扉を押す。

中は暗い。

作業台、糸巻き、紙束の残骸。埃をかぶった棚。

そして、壁際の小箱。


私は箱を開けた。


中に入っていたのは、針でも糸でもなく、短い**綴じとじきり**だった。紙束へ穴を開けるための道具。母が使っていたのを覚えている。色は思い出せない。けれど、持ち手の丸みは覚えている。


私は震える手でそれを取り上げた。

柄の根元に、焼印がある。


円。

逆向きの一本線。

逆針。


「……そうか」


声が出た。

母は本を綴じていた。

だが、それより前にこの家は、鐘を綴じていたのだ。


私は箱の底をさらに探り、薄い封筒を見つけた。湿気で端が波打っている。封はすでに切れていた。

中には、家系を書いた短い覚え書き。きちんとした戸籍ではない。移転の時に持ち歩くための、簡易な継承書らしい。


そこにあった名を見た瞬間、私は息を呑んだ。


針返し家 末流 紙綴手へ移る


その下に、母の旧姓があった。

私はその姓を読めた。読めたのに、胸の奥で何かが深く沈んだ。

読める。

でも、その名で母を呼んだ記憶はない。もう失っている。


私は書面をめくる。

最後の行は擦れていて、途中から読めなかった。


鐘心へ掌を入れるは、針返しの血の……

その先が、ちぎれている。


掌。

やはり、ただの家系ではない。

この血筋は、鐘心臓の掌座と関わっている。


私は綴じ錐と書面を胸へ抱えた。

温かくはない。だが、これまで曖昧だったものへ輪郭が生まれた。


ルツが私を殺しきらない理由。

扉が私の掌へ反応した理由。

喉と砂だけでは足りない理由。


私は“最後の鍵の家系”に属している。


外へ出ると、夕方の光が綴じ小路を斜めに切っていた。

灰月祭前日の都は、相変わらず何も知らない顔で忙しく動いている。

その中で私だけが、自分の血の古さに気づいて立ち尽くしていた。


墨手帳を開く。黒砂墨を一滴だけ使う。

鼓動が一拍欠ける。


――針返しの家=終鐘鋳造の最終封印担当。

――末流は紙綴手へ移った。

――母の旧姓、針返し家の末。

――綴じ錐に逆針の焼印。

――掌座はこの血と関係。

――古文書断片「鐘心へ掌を入れるは、針返しの血の……」


そこまで書いて、私は筆を止めた。


まだ足りない。

血筋だけでは扉は開かない。

文書が途中で切れている以上、何か別の条件がある。


私は綴じ錐を手帳の上に置いた。

母の道具であり、鐘造りの名残。

それを見ていると、ようやく一つだけ、はっきりしたことが分かった。


私が書記なのは偶然じゃない。

綴じる手を、家が残してきたのだ。


そしてその手は、今度は本ではなく、鐘心臓の扉に触れる。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ