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黒砂帳簿の嘘

『数字は嘘をつかない。だが、人は数字の置き場所を変える。』

午前六時。第1鐘。


私は目を開くなり、右手首ではなく指先を見た。

砂時計の痕は、朝の光にだけ薄く浮く。黒砂契約が残した傷だ。商会の扉を開くための匂い。残るものは、たいてい役に立つ前に私を嫌な気分にさせる。


墨手帳を開く。

皮の上に沈んだ黒砂墨の字が、昨夜の私をそのまま残していた。


――鼓動砂時計=第二鍵。

――表帳簿には無い。

――会頭は今夜、帳簿を入れ替える。


最後の一行を、私は二度なぞった。

表帳簿と裏帳簿。

黒砂商会は、数字を二種類持っている。


私の戦場は紙だ。

刃も楔も必要だが、嘘が最初に立つのはいつだって帳簿の上だ。

今日、私が見るべきは“第二鍵”そのものではない。

それを隠すために、どの数字がどう嘘をつくのかだ。


手首の腕輪を見る。黒い粒はまたひとつ増えていた。

私は数えず、手帳を閉じた。


書記局の朝仕事を早めに片づけ、私は砂時計館へ向かった。

昼の商会は静かだ。静かだが、あの静けさは金の静けさではない。時間を袋へ詰めて、値札をつけて、なるべく音を立てずに売る場所の静けさだ。


受付の男は、私を見ると露骨に嫌な顔をした。

そして視線が私の指先へ落ちると、その嫌さが一拍だけ途切れる。身体が先に契約を思い出す顔。


「今日は何だ」

「帳場の照合です」

「何の」

「数字の並び」


男は鼻で笑ったが、止めはしなかった。

私は階段を下り、地下の帳場へ入った。


昼の地下は夜より明るい。

それでも光は少なく、紙の白より黒砂の匂いが先に目立つ。帳簿棚、封箱、秤、黒い小壺。ここは物を保管する場所というより、数字を保管する場所だ。


ユアンがいた。

前の周で助けた若い書記だ。顔色はまだ悪いが、立てている。立てているだけで十分だと思った。そう思ったことに、前より少しだけ罪悪感が刺さる。


「……また来た」

「また来た」

私は答えた。


ユアンは周囲を見回し、声を潜めた。

「会頭は今夜、表の帳と裏の帳を替える。見せる数字を変えるんだ」

「どの数字を」

「祭前夜の出庫」

彼は唇を湿らせた。「黒砂坑から来る分の一部を、表では“祭礼予備”にしてる。本当は違う」


第二鍵だ。

私は息を止めた。


「見分けはつく?」

「つく」

私は即答した。

書記にとって帳簿は文字だけじゃない。糸の向き、裁ち口の癖、罫線の深さ、頁をめくる指の油の移り方。数字は書き替えなくても、帳簿の“体”は簡単に嘘をつけない。


私は表帳簿を一冊借り、人気のない棚の陰で開いた。

祭前夜出庫の頁。

行頭の罫線が少し浅い。書いたのは若い手。インクは乾ききっている。頁の下端には、わずかな石粉。

私は骨の細いへらを取り出し、綴じ糸の結び目のすぐ脇へ、ごく小さな傷をつけた。

書記にしか気づかない傷。

次に、頁の角を目で測り、余白の幅を記憶した。

これで、夜に帳簿が替われば分かる。


「見つかったら」

ユアンが言いかける。

「見つからない」

私は言った。

言い切ったのは、相手を安心させるため半分、自分を縛るため半分だ。


地下を出る前に、私はもう一つだけ確認した。

裏帳簿の棚の位置。

右から三つ目。下から二段目。

手が届く。

だが、夜に会頭がそこへ来るなら、昼のうちに触るのは愚かだ。私は我慢した。


夜。


終鐘まではまだ少しある。

私は砂時計館の裏手、積み上げられた樽の影に身を潜めた。黒い壁は月光を吸い、窓から漏れる灯りだけが細く地面へ落ちている。


今夜の餌はゼフではない。

今日は釣り針を投げていない。

代わりに、私は昼に付けた“傷”に賭ける。


二十二時を少し過ぎた頃、地下の小窓に灯りが増えた。

足音。

一つは重く、ゆっくり。

もう一つは軽い。ユアンだろう。


私は裏の搬入口から忍び込んだ。契約の痕を持つ指先が、鍵穴へ触れる。白鐘合金の冷たさが一瞬だけ肌を撫で、扉は息を吸って開いた。


地下へ降りる。


帳場の灯りは一つだけ。

私は帳簿棚の陰に身を沈め、息を殺した。


見えた。

会頭カーン。


背は高くない。だが、立っているだけで“値段が決まる”ような圧がある。細い指。黒い外套。顔は痩せていて、どこを見ているのか分かりにくい目。怒鳴らなくても人が黙る種類の声を持った男だ。


彼は表帳簿を机に置き、裏帳簿を開いていた。

ユアンがその横に立つ。顔色は悪いが、紙の扱いだけは正確だ。


「ここを落とす」

カーンが言う。

指先が示したのは、“祭礼予備 一二単位”の行。

「代わりに」

別の頁をめくる。

「北灯区分を六下げろ。表では寒さのせいにできる」


私は歯を食いしばった。

数字で、人が寒くなる。

数字で、灯りが減る。

数字で、第二鍵が隠される。


ユアンが小さく問う。

「第零番は」

「裏にだけ残せ」

カーンは淡々と言った。「白鐘師が見るのは裏だ。市壁も評議会も、表しか読まん」


そこまで聞いて、私は胸の中で一つの線が繋がるのを感じた。

黒砂の流れを握る者は、都の息の長さまで握れる。

これはただの商売じゃない。政治だ。


カーンは表帳簿の頁を抜き、別の帳簿の頁と差し替えた。

糸を切るのではない。事前に緩めていた綴じを、器用に外して入れ替える。慣れた手だ。

私は目を凝らした。

昼に付けた微細な傷が――消えている。


やはり替えた。

しかも頁ごと。


カーンが新しい頁を押さえたまま、ふと指を止めた。

「誰か、この帳に触ったか」

私の背筋が凍る。


ユアンが息を止めたのが見えた。

「……いえ」

「結びの際に、爪が入っている」


書記の傷は、書記にしか見えない。

カーンは値札の男である前に、帳簿を読める男でもあった。


私は袖の中で指を握った。

ここで動けば見つかる。

動かなければ、ユアンが切られるかもしれない。


カーンは帳簿を閉じ、静かに言った。

「明日、帳場へ入る者を一人減らせ」

「誰を」

「まだ決めていない。……だが、見る目のある手は邪魔だ」


ユアンの顔から血の気が引く。

私は息を止めたまま、喉の奥が冷たくなるのを感じた。

これ以上ここにいれば、何かを助けるために自分を出すことになる。

だが今日は違う。今日は数字を持ち帰らなければならない。


私は動かなかった。


やがて帳簿の入れ替えが終わり、二人の足音が遠ざかった。

完全に消えるまで待ち、私は棚の影から出た。


表帳簿を開く。

昼の傷はない。

余白の幅も違う。

行頭の罫線も深い。別の頁だ。


そして、“祭礼予備 一二単位”は消えている。

代わりに“北灯区分 六単位減”が増えていた。


私はその数字を見た瞬間、妙に腹が立った。

黒砂は塔へ行く。

その代わり、北灯区の灯が減る。

寒さは事故になる。

事故は自然に見える。


私は急いで墨手帳を開き、黒砂墨を一滴だけ使った。鼓動が一拍欠ける。


――表帳簿と裏帳簿は頁ごと差し替える。

――「祭礼予備」一二単位は偽装。実際は第零番(第二鍵)側。

――その穴埋めに北灯区分を六減らす。

――黒砂の流れは都の政治そのもの。

――カーンは傷を見抜く。帳簿の目を持つ。


書き終えたところで、私はようやく息を吐いた。

ユアンを今すぐ救うことはできない。

それが胸に棘のように残る。

だが今日は、紙の嘘の形を取った。

形が取れれば、次に折れる。


地下を出る前、私は一度だけ振り返った。

黒い帳場。白い粉。差し替えられた頁。

都は、こうして数字で冷やされている。

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