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砂時計の真名

『砂が鍵なのではない。脈を打つ“名前”の方が鍵になる。』

午前六時。第1鐘。


目が覚めた瞬間、私は右手の指先へ触れた。

皮膚の下に沈んだ小さな砂時計の痕は、朝の光でだけ薄く浮かぶ。商会との黒砂契約。終鐘を越えても消えない束縛。あれがある限り、私は黒砂に近づける。


墨手帳を開く。

港での対抗歌、禁書庫の沈黙、そして地下庫で見た黒い硝子の砂時計。脈を打つ、あの異様な器。


――鼓動砂時計。

――“預かり”。塔へ返すもの。

――白鐘師と会頭だけが触る。

――“脈を合わせる”。


そこまで分かっていても、まだ足りない。

砂そのものが鍵なのか。

砂時計の形が鍵なのか。

あるいは、もっと別の“名前”があるのか。


私は手帳の新しい頁に、ひとつだけ書いた。


――第二鍵の真名。


黒砂墨の字が皮へ沈む。

鼓動が一拍だけ欠けた。


砂時計館へ入る時、私はもう迷わなかった。


黒い硝子の建物は、昼でも夜みたいに光を吸う。正面の砂時計紋は静かなのに、その下をくぐると歯の裏がちり、と鳴る。時間が剥き出しの場所へ入る時の音だ。


受付の男は、私を見るなり露骨に顔をしかめた。

だが視線が私の指先へ落ちた瞬間、いつものように“身体だけが先に反応”した顔になる。


「……地下か」

「帳場の照合です」

私は平静に答える。

「誰の」

「あなたの身体が知ってる方の」


男は舌打ちしそうになり、できずに顎で奥を示した。

契約は理不尽だ。縛られている当人だけが、なぜ動くのか説明できない。だから余計に気味が悪い。


階段を下りる。

黒い匂い。乾いた時間の匂い。

地下庫の空気は相変わらず重く、呼吸するたび歯の裏が小さく鳴る。


帳簿棚の前で、若い書記が一人、束ね紐を締めていた。

ユアンだ。


前の周で黒砂を吸い込み、膝をついた男。助けた相手。助けた理由の最初が優しさではなかったと、私に思い知らせた相手。


彼は私を見るなり、手を止めた。

「……あんた」

声が掠れている。喉の奥にまだ砂が残っているような、少しザラついた声だ。

「会ったことある?」

私は聞いた。

ユアンは眉を寄せた。「分からない。……でも、見た瞬間、鼻の奥が嫌な感じする」


身体の方が覚えている。

傷や引っかかりは、記憶にならなくても残る。


私は彼の前まで行き、小さく言った。

「預かり品の帳簿を見たい」

ユアンの顔から、迷いが一瞬で消えた。

「駄目だ。あれは会頭と――」

「白鐘師だけ、だろ」

私が先に言うと、彼は言葉を失った。

「どうして、それを」

「前に聞いた」


嘘ではない。前の周に、確かに彼の口から聞いた。


ユアンは周囲を見回した。監視の目は無い。だがこの場所では、壁そのものが聞いていそうな気配がある。

彼は低く囁いた。


「帳簿は二つある」

「二つ?」

「表の帳簿は普通の売買。裏の帳簿は“預かり”。在庫じゃなくて、返納するもの。……会頭は表に載せない」


私は息を呑んだ。

表帳簿と裏帳簿。

黒砂商会が二つの顔を持っているということだ。


ユアンは迷った末、帳簿棚の一番奥へ手を伸ばした。黒い革張りの薄い帳面を一冊だけ引き抜く。表紙に題は無い。代わりに、背の内側に砂時計の焼印が押してあった。


「少しだけだ」

彼が言う。

私は頷き、帳面を開いた。


頁の最初は、品名ではなく番号で始まっていた。


預かり資産 第零番


その下に、丁寧な字で記されている。


《鼓動砂時計》

所有:塔

保管:商会

返納座:終鐘楼 鐘心臓第二座


私はその行を見つめたまま、しばらく息ができなかった。


第二座。


喉、掌、砂の三座。

そのうちの、砂の座そのものだ。

鼓動砂時計は“鍵候補”ではない。鍵そのものだった。


さらに下に注記が続く。


取扱:脈差が大きい手には応じない

会頭および白鐘師立会いにて確認

拍を誤れば返納不可


私は指先が冷えるのを感じた。

拍。

やはり拍だ。

歌鍵が“息の止まり方”なら、砂鍵は“脈の揃い方”だ。


「真名、って呼ばれてる」

ユアンが小さく言った。

「真名?」

「普通は鼓動砂時計。でも返納帳では、“第二鍵”って呼ぶ。……口にすると怒られるけど」


第二鍵。

私はその言葉を心の中で何度も転がした。

鍵には名前があり、その名前が役目を固定している。

名を知ることは、ただ知識を得ることではない。鍵の向きを知ることだ。


その時、階段の上から足音が降りてきた。

重い。急がない。けれど場の空気を先に押しのける足音。


ユアンの顔色が変わる。

「会頭だ」

私は即座に帳簿を閉じた。

ユアンへ押し戻す。彼はそれを抱えたまま固まる。


「隠れて」

彼が囁く。

私は頷き、前と同じ帳簿棚の影へ身を滑り込ませた。


足音が止まる。


「第零番の頁は」

カーンの声だった。低く、値札のついた声。

「こちらに」

ユアンの返事は少し硬い。だが震えてはいない。前の周に助けたことで、身体が“踏ん張る形”だけは覚えたのかもしれない。


頁をめくる音。

私は隙間から見た。カーンの黒い指が、裏帳簿を押さえている。隣に別の帳簿が置かれていた。表の帳簿だろう。そちらの頁には、当然《鼓動砂時計》の記載はない。


二重帳簿。

嘘の台帳と、本当の台帳。


「表には載せるな」

カーンが言う。

「白鐘師が見るのは裏だけでいい。余計な目に第二座を見せるな」


第二座。

カーンもその名で呼ぶ。


私は拳を握った。

これが嘘だ。

黒砂商会は、都の時間を掘って売るだけじゃない。塔へ返す鍵を隠し持ち、その記録を二重にしている。


「例の見習い書記は」

カーンが続けた。

私の背中が冷えた。

「まだ嗅ぎ回っています」

ユアンが答える。

「近づけるな」

カーンは静かに言った。「次に地下へ入れたら、お前の名前で責任を切る」


名で切る。

この都では、責任も鍵も、最後は名前で締まる。


足音が遠ざかる。

私は息を止めたまま数を数えた。十、二十、三十。

ようやく気配が薄れてから、棚の影を出た。


ユアンはまだ帳簿を抱えていた。

私を見ると、ひどく疲れた顔で笑いそうになり、笑わなかった。


「……聞いた?」

「十分に」

私は答えた。


もう一度だけ、裏帳簿の頁を指で押さえる。

《鼓動砂時計》

返納座:鐘心臓第二座。

第二鍵。


これで、砂の“真名”は取った。


私はそれ以上を欲しがらなかった。

欲しがれば長居になる。長居は高くつく。


地下庫を出る前、ユアンが小さく言った。

「会頭は、今夜どこかの帳簿を入れ替えるつもりだ」

「どこの」

「表と裏。……たぶん、見つかったくない数字がある」


私は頷いた。

次の頁が、もう見えている。


記録室へ戻ると、私はすぐに黒砂墨を一滴だけ使った。鼓動が一拍欠ける。


――裏帳簿あり。

――鼓動砂時計=預かり資産 第零番。

――返納座:終鐘楼 鐘心臓第二座。

――真名:第二鍵。

――表帳簿には存在しない。

――会頭は今夜、帳簿を入れ替える。


書き終えたあと、私は頁の端を押さえ、静かに息を吐いた。


第二鍵。

喉の鍵。掌の鍵。

三つはもう、別々の謎ではなくなってきている。


そして次は、嘘の方だ。

帳簿そのものの嘘。

そこを暴けば、ルツとカーンがどこで手を組んでいるのか、紙の上にまで引きずり出せる。

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