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対抗歌

『歌は従わせるためだけにあるのではない。』

午前六時。第1鐘。


私は目を開いてすぐ、胸の内側の冷たさに気づいた。

昨夜、私は若い書記ユアンを助けた。助けたはずなのに、最初に浮かんだ理由は「死なれると困る」だった。


墨手帳を開く。

黒砂墨の字は、いつもより少しだけ冷たく見える。


――鼓動砂時計=“預かり”。塔へ返すもの。

――白鐘師と会頭だけが触る。

――“脈を合わせる”。

――今夜は見るだけ。

――若い書記ユアン、生存。

――助けた理由の最初が、優しさじゃなかった。


その最後の一文を見つめていると、喉の奥が乾いた。

乾く理由は分かっている。黒砂の匂いじゃない。自分自身の変わり方だ。


手首を見る。

百粒の腕輪。黒い粒はまたひとつ増えていた。


私は手帳を閉じ、顔を洗い、書記局を出た。

今日の狙いは決まっている。


ルツの共鳴術に、正面から対抗できる手段を知ること。

鍵としての歌だけでは足りない。歌で縛られるなら、歌で濁すしかない。


そのために必要なのは、ミラだ。


朝の聖歌院は、今日も白かった。

白い石、白い布、白い鈴。

何もかもが清らかそうに見えて、実際には息を揃え、人の喉を一つの拍へ押し込めるための色だと、今の私は知っている。


礼拝堂へ入る前に、私は裏回廊で立ち止まった。

白い粉の落書きはもう信用しない。だから、自分の足で近づくしかない。


前に“昨日も来た?”と口にした小姓が、今朝も油壺を抱えて歩いていた。

私は彼の前へ出る。


小姓は私を見るなり、一瞬だけ喉へ手をやった。

それから、迷うように眉をひそめる。


「……また?」

掠れた声。

引っかかりは、まだ消えていない。


「ミラに会いたい」

私が小声で言うと、小姓は首を傾げた。完全に分かっていない。だが、足だけが動く。

彼は何も言わず、裏庭へ続く細い回廊の方をちらりと見て、そのまま歩いていった。


十分だった。


ミラは、裏庭の井戸のそばにいた。

喉の銀の輪。薄い顔色。朝の光の中で見ても、声を削っている人間の色をしている。


「来ると思った」

彼女は言った。前より少し掠れた声で。

「今日は、別のことを聞きに来た」

「歌のこと?」


私は頷いた。


「縛る歌じゃなくて、ほどく歌はある?」

ミラはすぐには答えなかった。

井戸の縁を指でなぞり、しばらく考える。考えるというより、自分の喉の奥を探っているみたいだった。


「あるよ」

やがて彼女は言った。

「でも、“ほどく”っていうより、“濁らせる”かな」


私は息を止めた。

欲しかった答えだ。


「白鐘の歌は、みんなの息を同じところで止めるの」

ミラは喉元へ手を当てる。「同じ長さで吸って、同じ長さで吐いて、同じところで黙らせる。……だから、そこに違う“揺れ”を入れると、揃わなくなる」


「対抗歌」

私がそう言うと、ミラは少し笑った。

「そんな立派なものじゃないよ。きれいじゃないし」

「きれいじゃなくていい」

私はすぐに返した。

きれいな歌で勝てるなら、こんな都にはなっていない。


ミラは私の返答を聞いて、ほんの少しだけ目を細めた。

「……あなた、前より声が固い」

私は言い返せなかった。

固い。冷たい。そういう言葉を他人から向けられるたび、胸のどこかが遅れて痛む。


「試せる?」

私が問うと、ミラは空を見上げた。

「場所による」

「場所?」

「白鐘の歌は、石の箱の中がいちばん強い。聖歌院とか、鐘楼の中とか。逆に、水辺とか、ざわざわした場所だと、呼吸が散るから弱い」


硝子港。

私はすぐにその名を思い浮かべた。風、波、ガラス船の鳴き声。

音が散る場所。


「じゃあ、港で」

ミラは小さく頷いた。

「今夜、白い人たちが“整える歌”を流すはず。祭前日の前夜、いつも一度だけやるから」

「どこで」

「硝子港の西寄り。倉庫と水路の間。人が一番多い時間に」


それも十分だった。


夜。

硝子港の風は、今日も冷たかった。


ガラス船の船腹が、波に押されてきい、と鳴く。

倉庫の間を抜ける風が塩の匂いを運び、人のざわめきと混ざって音の輪郭を崩す。

白鐘の歌にとって、たぶん最悪の場所だ。


私はミラと、倉庫の屋根の陰に身を潜めた。

下の広場では、荷役の列がまだ動いている。魚、塩、黒砂の箱、祭のための布。人は多い。多いからこそ、白い外套の一団が現れた瞬間、空気が変わった。


聖歌院の補助歌隊。

四人。輪の形に散り、低い導入音を始める。


ざわめきが一拍遅れて静まる。

人々の肩が揃う。息が同じところで止まり始める。

私は喉が勝手に固まるのを感じた。


ミラが私の袖を掴んだ。

「今」

彼女は囁き、息を吸う。


歌う、というより。

息をずらす。


最初の音は低かった。導入歌隊の音程の少し外側。

次の音は、入るタイミングが半拍だけ遅い。

三つ目は高くなく、ただ“止まらない”。


その瞬間、下の広場の空気が崩れた。


一斉に揃いかけた荷役人たちの呼吸が、ばらばらになる。

一人が咳き込み、別の一人が首を振り、荷車の馬が不機嫌に足を鳴らした。

白い外套の一団の一人が、明らかに音を外した顔をする。


濁った。

確かに、濁った。


「もう一つ」

私は囁いた。

ミラは頷き、二度目の対抗歌を流した。今度はもっと短い。

導入歌隊の“沈黙”へ、わざと薄い震えを差し込むような音。


下の群衆が、息を取り戻す。

ざわめきが戻る。

誰かが怒鳴る。

誰かが「何だ今の」と喚く。

白い歌はもう、広場全体を揃えられていなかった。


ミラがそこで口元を押さえた。

指の隙間から、細い赤が滲む。


「十分」

私は言い、彼女の肩を引いた。

「もういい」


だが、その時すでに遅かった。

下の補助歌隊の一人がこちらを見上げていた。白い粉のついた袖。

共鳴が完全には崩れていない。濁っただけだ。

見つかった。


「走れる?」

私が聞くと、ミラは掠れた息で笑った。

「歌ったあとは、いつもそう聞くね」


私たちは屋根の反対側へ飛び降りた。倉庫裏の狭い路地。水路の匂い。ガラスの破片。

背後で白い声が追う。歌ではない。命令だ。

だが水音と船鳴りに散らされて、喉まで届かない。


港を抜け、古い荷揚げ場の影へ滑り込んだ時、ミラは壁に手をついた。肩が上下し、喉元の銀の輪が細かく震えている。


「……効いた」

私が言うと、ミラは息の合間に頷いた。

「うん。でも、塔の中じゃ、もっと難しい」

「どうして」

「音が逃げないから。白い歌の方が、箱の形を味方につける」

彼女は喉を押さえたまま続けた。「逆に、ここはいい。風と水と、船の泣く音で……みんなの呼吸が最初から揃わない」


私は港を見た。

黒い水路。揺れる灯り。ガラス船の軋み。

この場所なら、白鐘の歌は弱い。

逆に言えば――硝子港は、こちらの聖域になり得る。


ミラが目を閉じた。

「本当はね」

掠れた声が、風に混じる。「歌の“間”の書き方、もっと昔の形がある。聖歌院の表の歌じゃなくて、もっと古いの。たぶん禁書庫にしか残ってない」


禁書庫。

私はその言葉を心の中で拾い上げた。


今夜は、対抗歌で濁せると分かった。

次は、その根まで辿る。


私はミラの肩へ手を添えた。

「今日は戻ろう」

彼女は目を開け、少しだけ苦く笑った。

「あなた、前より命令が上手くなった」


返事ができなかった。

そうかもしれないと思ったからだ。


遠くで、終鐘楼の方から低い鐘が一度だけ鳴った。

夜はまだ終わらない。

けれど、私はすでに次の頁の最初の一行を決めていた。


――港では、白い歌は濁る。

――次は、禁書庫。

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