助けるほど冷える
『救うたびに優しくなれるとは限らない。』
若い書記は、石床へ膝をついたまま動けなかった。
黒砂の粒が小壺からこぼれ、暗い床の上で湿った虫みたいに光っている。
鼻から細い血が落ち、指先は震え、息は浅い。黒砂の匂いを吸いすぎたのだ。量は多くない。それでも、この地下の空気は濃すぎる。時間を紙へ閉じ込める前の、むき出しの砂の匂い。普通の肺には毒だ。
私は帳簿棚の影に身を沈めたまま、動かなかった。
動けなかった、という方が正しい。
目の前には鼓動砂時計がある。
黒い硝子の中で、砂が落ちる代わりに脈を打つ。
どくん。
どくん。
喉ではなく、部屋全体で呼吸しているみたいに。
そして、その前に立つ会頭カーン。
急いでいない足音。値札のついた声。
この男に見つかれば、私は砂の鍵から遠ざかる。二度とここまで来られないかもしれない。
若い書記がもう一度、血を吐いた。
黒砂の粒が床を擦り、歯の裏がちり、と鳴る。
「片づけろ。今すぐだ」
カーンの声は冷え切っていた。
助ける気はない。使えるなら使う。壊れたら別を買う。そういう顔だ。
私は拳を握った。
助ければ見つかる。
見捨てれば情報源が減る。
胸のどこかで、最初にそう計算した自分に気づいて、嫌な汗が背中を伝った。
それでも、私は動いた。
帳簿棚の一番端に置かれた巻物束を、指先で軽く押す。
束が崩れ、反対側の棚で派手に落ちた。
ばさり、と紙の音。
カーンが振り向く。
視線が帳簿棚の崩れた方へ向く、その一瞬で私は影から滑り出た。
若い書記の脇へしゃがみ、口元を袖で覆う。
「息を浅く」
彼は答えられない。目だけが私を見た。
私は床の黒砂を靴で散らさないように寄せ、こぼれた小壺の蓋を閉める。こいつをこれ以上吸わせたら死ぬ。
背後でカーンが苛立った声を上げた。
「誰だ、そこ」
私は若い書記の襟を掴み、棚の裏の狭い空間へ引きずった。
重い。力が抜けているから余計に重い。
鼓動砂時計から一歩、二歩、遠ざかる。
見るべきだった。もっと近くで。もっと形を。
けれど今は、その距離を捨てる。
帳簿棚の陰へ押し込み、私は彼の口元の血を拭った。
「吐け。吸うな」
若い書記は苦しそうに咳き込み、黒い砂を混ぜた唾を吐いた。肩が震える。まだ意識はある。
カーンの足音が近づいた。
私は棚の隙間から見た。黒い靴。止まる。
その時、上階から別の声が降ってきた。
「会頭。白鐘師が来ます」
ルツ。
その一言で、地下の空気がさらに硬くなる。
カーンは短く舌打ちした。
「片づけておけ。見苦しいものを見せるな」
彼の足音が遠ざかる。
私はようやく息を吐いた。
若い書記は壁にもたれ、目を閉じていた。
「……まだ聞こえるか」
私が囁くと、彼はかすかに頷いた。
「名前」
「……ユアン」
掠れた声。
私はその名を心の中で一度だけ繰り返した。
「ユアン、聞いて。さっきの砂時計」
彼の焦点の合わない目が、私へ向く。
「何だ、あれ」
普通なら、そんなことを聞くべきじゃない。
助けながら情報を引き出す。
私は自分の声が冷たいのを感じた。けれど、止めなかった。
ユアンは唇を動かした。
「……品じゃ、ない」
「知ってる」
「会頭は……在庫って呼ばない」
彼は息を詰めた。「“預かり”だ。塔へ返すまで……」
塔。
やはりだ。
「誰に返す」
私が畳みかけると、ユアンは喉を押さえた。黒砂の匂いで声が削れている。
「白鐘師……と、会頭だけが……触れる」
「何をするために」
「脈を……合わせる」
どくん。
鼓動砂時計が、まるで返事みたいに一拍強く脈打った。
脈を合わせる。
鐘心臓へ。
歌と、掌と、砂の拍。
私はそれ以上を聞きたかった。
回転の向き。挿し込む場所。拍の数。
だが、上階からまた足音が降りてきた。複数。急ぎ足。
ルツが来る。
私はユアンの肩を掴んだ。
「立てる?」
彼は首を横に振る。
私は舌打ちしそうになって、飲み込んだ。
飲み込めたことに少し驚いた。少し前の私なら、たぶん本当に舌打ちしていた。
「動くよ」
私は言い、彼の腕を自分の肩へ回した。
帳簿棚の裏から、さらに奥へ。排水溝の点検用らしい狭い隙間がある。石工用ではない。ただの人ひとりが身を隠すための窪み。
私はユアンをそこへ押し込み、自分の外套を半分だけ掛けた。
「息を浅く。喋るな」
「……何で」
彼は苦しそうに問うた。
何で助けるのか。
私は一瞬だけ迷い、正しい答えではなく、本音に近い方を選んだ。
「死なれると困る」
言ってから、自分でその冷たさに気づいた。
困る。
悲しいではなく。嫌だではなく。
困る。
ユアンは何か言いたそうだったが、言えなかった。代わりに、私の袖を一瞬だけ掴んで離した。
その時、地下室の扉が開いた。
冷たい白い粉の匂い。
空気の揃い方。
ルツだ。
私は窪みから離れ、逆側の影へ滑り込んだ。
鼓動砂時計が見える位置。
カーンの黒い背も見える。
そして、白い指輪。
「遅かったな」
カーンが言う。
「時刻は合っている」
ルツの声は静かだった。
私は息を殺した。
鼓動砂時計の前で、二人の男が黒い砂の脈を見つめる。
ルツはそれに触れない。
ただ指先の白い指輪を軽く鳴らし、砂時計の脈を数えるように目を細める。
「拍は」
カーンが言う。
「まだ浅い」
ルツが答える。
「今夜は見るだけだ」
見るだけ。
それでも十分だった。
砂の鍵は、もうルツの計画の中にある。まだ使わない。だが確かに見に来る。
私はそれを刻みつけるように目で追った。
どくん。
どくん。
鼓動砂時計の拍は、私の心臓より少し遅い。
やがて二人の足音が去る。
私はしばらく待ってから、窪みへ戻った。
ユアンはまだ生きていた。呼吸は浅いが、目は開いている。
「……いなくなった」
私が言うと、彼は小さく頷く。
「立てるなら、今のうちに上へ」
「……あんたは」
「残ると売られる」
それだけ言って、私は彼を引っ張り起こした。
地上へ戻った時には、夜風が肺を刺した。
私は聖歌院でも鐘楼でもなく、ただの空気を吸うだけで、少しだけ生き返る気がした。
だが、その気持ちが長く続かなかったのは、帰り道でやっと自分の心に気づいたからだ。
私はユアンを助けた。
そう。助けた。
けれど最初に浮かんだのは、「彼が死ぬと困る」だった。
情報源だから。証言者だから。次へ繋がるから。
優しさが無かったわけじゃない。
でも、優しさより先に効率が来た。
私はそのことに、吐きそうなほど寒くなった。
記録室に戻り、墨手帳を開く。
黒砂墨を一滴だけ使う。
――鼓動砂時計=“預かり”。塔へ返すもの。
――白鐘師と会頭だけが触る。
――“脈を合わせる”。
――今夜は見るだけ。
――若い書記ユアン、生存。
そこまで書いて、手が止まる。
少し迷ってから、最後に一行足した。
――助けた理由の最初が、優しさじゃなかった。
黒砂墨の字が皮へ沈むのを見ながら、私は自分の指先がやけに冷たいことに気づいた。
救うたびに、温かくなるとは限らない。
むしろ逆だ。
助けるたびに、私は“どう助ければ得か”を先に考え始めている。
それでも、助けないよりはましだと思いたかった。
まだ、そう思いたかった。
深夜零時。終鐘。
骨の裏で、世界が鳴った。




