第四話 勇者は胃袋を掴まれ リィベは頰をつっつく その3
頭をぶつけた衝撃は一向に襲ってこない。
ゆっくりと目を開けると、心配そうにこちらを見る彼女が覆い被さっていた。
「大丈夫?」
「あ、ああ。あんたは大丈夫なのか?」
「おかあさんは大丈夫よ」
「でもさっきすごい音が……!」
「それは本棚の本が崩れたからよ。おかあさんは怪我ひとつしてないわ」
良かった。
それを聞いて、胸をなでおろしたボクは、初めて指に違和感を感じた。
そこに鋭い痛みを感じたのだ。
痛いと訴える左人差し指を見てボクは固まる。
本棚に手をついたときに切ったのか、人差し指が小さく裂け、そこから異質な体液が……。
「ユーちゃん?」
しまった。見られた!
彼女がこっちを見ている。正確にはボクの指の傷、そこから流れる体液を見つめていた。
ボクの異様な身体の一部を見て、目が離せないのだろう。
口に手を当てたまま固まっていた。
「何でもない。何でもないから!」
ボクは背中を向けて、人差し指を口に含み、流れ出す鉄の味の液体を吸う。
早く止まれ早く止まれ早く止まれ!
そう念じて吸うも、一向に舌に伝わる鉄の味は薄くならず、むしろ濃くなっているようだ。
焦って血圧が上がってるのか止まる気配がなかった。
「大丈夫? おかあさんに見せて」
指を口に入れたままなので、首を左右に振って拒否する。
「おかあさんに見せて、ね?」
嫌だ! これだけは誰にも見られたくない!
ボクは首が千切れるほどの勢いで左右に振り続けた。
「おかあさんに見せなさい。ユーちゃん」
彼女は逆らい難い強い口調で、ボクの左腕を掴んできた。
「やめろっ!」
「ユ、ユーちゃん?」
ボクの大声で驚いたのか、彼女の手がビクリと震えてその場で止まる。
それを見て胸のあたりに針が刺さったような痛みが走った。
けれど、それ以上に見られたくなかったのだ。
右掌で覆うようにして傷口を隠す。
傷口はまだ少し痛むが、彼女に大声を上げてしまった時に刺さった針の方が心臓の鼓動のように大きく疼いていた。
「ユーちゃん。傷口を見せて」
「嫌だ。見るな」
「おかあさんは、怖がったり変な目で見たりしないわ」
「えっ?」
その言葉の意味を飲み込むのほんの少しの間に、彼女の柔らかな両掌がボクの両手を包み込んできた。
「やめろ、見ないで、くれよ……」
気づくと頰が濡れている。ボクは泣きながら懇願していた。
「ユーちゃん。まだ、おかあさんの事を誤解してるみたいだから言っておきます」
「誤解?」
彼女は真っ直ぐボクの目を見て頷き口を開く。
「おかあさんは何があってもユーちゃんの味方」
「み、味方? 何で、何でだよ」
「何で? そんなの決まってるじゃない貴方のおかあさんだからよ」
その一言でボクの心を縛り付けていた鎖が一瞬にして吹き飛んでいくのを感じた。
「見せてユーちゃん。怪我が悪化したら大変だから、ね?」
ボクは顔を伏せたまま、左手を覆っていた右手をゆっくりと退けていく。
顔を伏せたままなのは、怖かったからだ。
見た途端、彼女もおぞましいモノを見た顔をするかもしれない。それがとてもとても怖い。
彼女はボクの手に両手を添えたまま、待ってくれているようだ。
彼女の掌から伝わる温かさで心の氷が溶けていく。
ボクは右手を退けて左人差し指を彼女に見せた。
「血は出てるけど、傷は深くないし、破片とかも入ってないみたいね。良かった〜」
心底安堵したのが彼女の掌から伝わってくる。
「……気持ち悪くないのかよ」
「何の事?」
「ボクの血、気持ち悪い色してるだろ」
指から流れる血液は赤ではなく緑色。
彼女にはどう見えているのか?
ボク本人も後々知ったのだが、身体を作り変えられた時に、血の色まで変えられてしまったらしい。
初めて人に見られた時の、あの目は忘れられない。
目は口ほどに物を言うというが、あの時は本当に目が喋り、視線は文字となってボクの心を貫いたのだ。
「化け物」と。
でも、彼女はボクの血を見ても驚きも慄きもしていない。
むしろ純粋に怪我したことを心配しているような素振りだ。
「気持ち悪くなんてありませんよ……あむっ」
はっ! えっええと……?
自分の目の前の光景で起きていることが信じられない。
彼女が、ボクの指を口に含んでいる。
「な、何してるんだよ!」
「んあっ、何って血を止めないと、それにバイ菌入ってるかもしれないわ。はぷっ」
「うあっ」
そう言って、また口内に指を取り込まれてしまう。
何かが、傷口を撫でた?
何度も何度も傷をこれ以上拡げないように優しく優しく左右に動く。
これ、これは……。
ふと見ると、ボクの指を咥えたまま微笑む彼女と目が合う。
眦を下げて、ほんの少し顔を赤らめる彼女の姿はとても扇情的で、ボクの心臓が一際高鳴り、身体が熱くなってくる。
慌てて目を逸らすが、その顔が頭から離れず、更には指に伝わる熱くて柔らかな感触がボクの全身の血液を沸騰させるみたいだ。
「……うん、止まったみたいね」
っぽんという音と共に、永遠に続くかと思われたそれが終わりを迎えた。
温もりで濡れた人差し指を見ると、血が止まっているどころか傷口も完全に塞がっている。
よく見ると微かな傷痕が見えていたが、それもすぐに消えてしまった。
「あんた一体……」
「おかあさんに掛かれば、それぐらいすぐ治せるんです」
「はあ……」
もう何が何だかよく分からんが、何故だろう。納得してしまう自分がいた。
「ユーちゃんの怪我も治ったし、次は落ちた本を片付けないとね」
彼女は率先して落ちた本を拾い、棚に入れて整頓し始めた。
「ボクがやるよ」
「大丈夫。ユーちゃんはお休みしてて」
いや、こんな小さな傷でお休みも何もないんだが。
その間にも彼女は、散らかっていた本達を手際よく棚に収めていく。
「手伝うってば」
せめて、少しでも手伝おうと床に出来た本の山から一冊を手に取る。
「…………」
表紙に目が釘付けになる。
正しくはその本のタイトルにだ。
《おかあさん達があなたをいっ〜〜ぱい甘やかしてあげるね》
表紙にはそんなタイトルと共に、割烹着を着た女性が中心にいて。
左右には、王冠を頂く少女と、眼鏡をかけたメイドの三人が描かれている。
そして左下には『成人じゃないと買ってはいけません』と注意書きが……。
ペラリペラリと何ページかめくると、目眩く桃色ワールドだったのですぐに閉じた。
うん。これは人前で見たらいけない本だ。
「どうしたのユーちゃん。頭からビックリマーク出して」
「えっ? 出てるのか!」
頭を触るもそれらしいものは見つからなかった。
「冗談よ。そんな表情してたから、もしかしたらと思って。当たってたみたいね」
そりゃこんな本を見たらびっくりマークだって出るさ。
「ユーちゃんユーちゃん」
顔を上げると、彼女が表紙と同じように両手を広げて待ち構えていた。
「おいで〜」
「いや、行きません」
「え〜〜。こういうの好きって本には書いてあったのにおかしいわ」
「いや「おかしい」って、それはこっちのセリフ。この本はどうしたんだよ」
「それはね。本屋さんで見つけて買ったのよ」
「本屋で買った?どこで?」
「ふふふ」
笑ってはぐらかされた。
でもタイトルも中身も日本語で書かれていた。つまり地球で買ったのは間違いないのだろう
「後で全部教えてくれるんだろうな?」
「ええ。さっ、先に本を片付けちゃいましょ」
彼女は目にも留まらぬ速さで本棚を元に戻していく。ピンクい本はいつのまにかボクの手を離れて一番目立つ所に置かれていた。
「やめてくれ。そんなとこに置かれたら表紙が気になって目が離せなくなる!」
出来ればその本は処理して欲しいのですが。
「あらそうよね。おかあさんウッカリしてたわ」
彼女は薄い本を手に取ると、本棚の奥に、その前には他の本を置いて巧妙にカムフラージュしてくれた。
「こういうのは、隠して置いたほうがいいものね。ここにしまっておくから……」
そこまで言って、ボクの耳元に寄ってくる。
「後で読んでみてね」
「読まない!」
「ふふふ。はいはい」
彼女が部屋を出たのを確認してすぐさま、適切な処理をしようとしたのだが……流石に捨てる事は出来なかった。
「後で呼ぶから部屋で本でも読んで待ってて」
彼女は部屋を出る時、そう言っていたので、ボクは部屋で暇をつぶすことに決めた。
以前ならただ寝ることしかなかったのだが、今は本があるので十分時間つぶしになった。
言っておくが、いくら一人になっても、あのピンクい本は見ていませんから。
『……ちゃん』
「ん?」
声が聞こえた?
漫画を読むのを中断して辺りを見回すも誰もいない。
ボク以外にいるのは、もちろん彼女だけだがこの部屋にはいない。
気のせいか。
そう結論を出して視線を漫画に戻す。
するとまた、
『ユーちゃん』
今度はハッキリと聞こえたぞ。
彼女の声だ。けどどこにいるんだ?
左右を見回してもおらず、見上げてもいない。
まさかベッドの下、そんな馬鹿なことを思いついて、覗いてみるが人の姿はない。
『ユーちゃん聞こえてたらお返事して』
「聞こえてるよ。何処にいるんだ? 隠れてるのか?」
『違うわ。おかあさんは下の階よ。だからさっきのオススメした本読んでてもいいのよ』
「いや読まないから!」
どうやらこちらは見えてないらしい。
でも声だけ聞こえてくるのは何故?
聞こえるという表現はおかしいかもしれない。
そう頭の中に声が流れ込んでくるようなこの感覚。これって……。
テレパシーか? もうなんでもありになってきたな。
『もう少ししたら支度出来るからね』
「支度? なんの支度してるんだ?」
誰もいない空間に向かって話しかけてるのは、ちょっと恥ずかしいんだが。
『お夕飯よ』
オユウハンって、夕食の事か?
『出来上がったら呼ぶから待っててね』
それ以降は頭の中で声は響かない。テレパシーによる会話は終わったようだ。
部屋にいつの間にかセットされた時計は午後の六時を指し示している。
この牢獄に閉じ込められてから外の光景は吹きすさぶ雪と風ばかり。
ボクも鎧戸を閉めっぱなしで寝てばかりだったので、ほとんど昼か夜かもわからない生活を送っていたからな。
夕飯といったって、別にボクは食わなくても生きていけるし、そうだ、わざと不味いって言ってやろうっと。
そうすれば、きっと怒って出て行くだろうから、ボクは一人で惰眠をむさぼる日々に戻るんだ……。
何だかそう考えると、胸にポッカリ穴が空いたような気がするのは気のせいだよな?




