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第一話・忌むべき土地(前編)

※本作品は日本国の法律を扱ったフィクションです。ただし、物語の都合により実際の法律や解釈とは違う場合があります。

私と同じ顔の失踪者。遠藤華那《えんどうかな》は、2001年6月7日生まれで、同い年だった。

2018年の春。当時高校二年生になったばかりの、十六歳だった彼女は、忽然と姿を消したという。

その日、本人には特に変わった様子もなく、病院の定期健診に行ったきり、家に戻っていない。


最後に目撃されたのは医療法人須比智会 西中央総合病院。

生まれた頃から難病を患い、病院で定期的な検査を受けていたのだと資料にあった。


診察が終わり、病院を出てからの足取りが掴めていない。

病院を出る華那の姿は、監視カメラにも記録されていたという。


「それにしても……」


どうして私と同じ顔をしているのか。

遠藤華那さんと親戚?まさか。聞いたこともない。


その夜、私は実家に電話をした。

「お母さん。遠藤さんって親戚の人いる?」


母は知らなかった。

少なくとも父や母の知る限り、親戚に遠藤さんは居なかった。


なかなか寝付けない夜だったのを覚えている。



【壱】


神代(かみしろ)法律事務所のパキラは、水をもらったことがない。


少なくとも私がここで働き始めてから、誰かがじょうろを手にしているのを見たことがない。

それなのに葉は艶々していて、事務所の中でいちばん健康そうに見える。


「先生、あのパキラ、水あげてるんですか」


「いいえ」


神代(かみしろ)先生は書類から顔も上げずに答えた。


「枯れないので」


理由になっていない、と思った。

けれどそれ以上は訊かなかった。

司法試験浪人の身で、雇い主の観葉植物の管理状態に難癖をつけていられるほどの余裕はない。


その朝、そんな観葉植物の葉が動いた。


窓は閉まっている。

エアコンも止まっている。

それなのに一番下の葉が一枚だけ、誰かに撫でられたようにゆっくりと持ち上がり、また下りた。


直後に、インターホンが鳴った。


【弐】


田中誠市(たなかせいいち)と名乗ったその人は、六十を少し過ぎたくらいに見えた。

地元で小さな不動産会社を経営しているという。

日に焼けた顔に、人の良さそうな皺が刻まれている。


「古賀(こが)先生のところに行きましたら、独立したと言うことだったんで、挨拶も兼ねて立ち寄らせて貰いました」


田中さんは、神代先生が独立前から面識のある人だったようだ


「古賀先生に頼んでいた相続案件が無事に終わったんですがね、ただ、ちょっと妙なことがありまして…そんな話をしたら神代先生なら話を聞いてくれるだろうと言われまして」


古賀誠一郎は、神代先生が独立する前にいた事務所の所長だ。

私も採用試験の面接で三十分ほど話した。

古賀先生は私の履歴書をしばらく眺めて、言った。


「不採用」

そう言って、独立の準備をしている神代先生を紹介された。

どうして私をここへ寄越したのかは、今も分からない。


「古賀先生は、何と?」


「それが……」


田中さんは膝の上で両手を組み直した。


「『法律上は全部終わっている。だから私にできることはない。ただ、神代くんなら、終わったあとの話も聞いてくれる』と」

妙な言い回しだった。

終わったあとに何があるというのか。


神代先生は小さく頷いて、ノートを開いた。


「では、終わるまでの話から伺えますか」


話を聞くのだ。

終わった話を。

終わってからの話を。


始まりは、田中さんのお父さんが亡くなったことだった。


相続財産の中に、町外れの山林が一筆あった。そこだけが、お父さんの単独名義ではなかった。明治の頃から集落の家々の共有地になっていて、登記簿には共有者が十一人並んでいたのだという。


「全員、とうに亡くなってる人たちです。古賀先生が戸籍をたどって、その子や孫を一人ずつ探してくださった。一年近くかかりましたよ。持分を買い取らせてもらったり、放棄してもらったり」


最後に一人だけ、残った。


「金子仁朗(かねこじろう)、という人です」


戸籍はあった。本籍も住所も記載されていた。登記簿にも、ほかの十人と並んで共有者として名前があった。


「ところが、誰も知らなかったんです」


集落の古老に訊いても、首を振るばかり。記載された住所地を訪ねると、そこは昔から畑で、家が建っていた形跡すらない。配偶者も子もいない。戸籍の上では一人の人間として存在しているのに、その人がどこかで暮らしていた痕跡が、ひとつも見つからない。


「それで古賀先生が、法務局で古い登記簿を遡ってくださったんです。閉鎖登記簿というんですか。紙の時代の」


田中さんは鞄から、コピーの束を取り出した。


「その金子さんの名前があるはずの場所が、こうなってまして」


黒いシミだった。


手書きの共有者の欄の一行分が、墨をこぼしたような黒で潰れている。周りの文字は達筆でくっきりしているのに、そこだけが、何かが内側から滲み出たように黒い。


「法務局の方が原本を調べたら、これは文字じゃない、単なる汚れだったんじゃないかと。シミが薄いところを透かして見ると、下には何も書かれていないようだったんです」


「何も」


神代先生が繰り返した。


「ええ。つまり最初から、共有者は十人しかいなかったんじゃないかと。どこかで帳簿を書き写したときに、誰かがこのシミを名前だと思い込んで、転記してしまったんだろうと。それが金子仁朗になって、そのままずっと」


法務局は、登記官の職権で共有者の記載を更正した。存在しない共有者は、登記簿から消えた。


「それで、相続は全部片づきました。土地は私のものになった。古賀先生も『これで終わりです』と」


「終わったのに、ですね」


神代先生が静かに言った。


田中さんは、少し驚いたように先生を見た。それから、自分の足元に目を落とした。


「登記が済んだ週に、測量の人と境界を確認しに行ったんです。あの山林の真ん中あたりで、足が、動かなくなりました」


痛くはない。痺れてもいない。地面がぬかるんでいたわけでもない。ただ、一歩が出ない。脚に力を入れているのに、足の裏が地面から離れない。


「十分くらいで、ふっと戻りました。疲れてるんだろうと思った。でも、その日、測量の人も同じことを言ったんです。先の方で急に立ち止まって、真っ青な顔で。それに……」


田中さんは言いよどんだ。


「林の中から、ずっと誰かに見られている気がして」


私は思わず、窓の外を見た。事務所の外は、いつもの駅前の雑居ビル街だった。


「二度目に行ったときも、同じでした。それで古賀先生に相談したら」


田中さんは苦笑した。


「『田中さん、相続の手続きは終わっています』『分かってます』『登記も正常です』『それも分かってます』『足が動かないと言われても、それは私の専門ではありません』。……まあ、そうですよね」


神代先生は笑わなかった。ノートに何か書きつけてから、顔を上げた。


「古賀先生は、ほかに何か」


「一つだけ、気にしてらっしゃいました。そのおかしなことが始まったのは、金子さんを登記から消してもらった日からじゃないか、と」


先生のペンが止まった。


【参】


先生が、田中さんの持ってきた資料を一枚ずつ机に並べていく。相続関係説明図。持分の移転の経緯。現在の登記事項証明書。そして古賀先生がまとめた、明治以来の共有者の一覧表。


私も横から覗き込んだ。


十一人分の名前が縦に並んでいる。明治や大正の生まれの人たち。どれも古風な名前だ。


その一番下の行に、目が止まった。


金神。と書かれている。


「あれ?」


瞬きをした。


金子仁朗。


普通の人名だった。


「先生」


「はい」


「いま、そこ……金神って書いてありませんでした?」


「こんじん?」

田中さんが言った。

「誰です、それ」


私にも分からなかった。ただ、確かに見えた。二文字だけが、そこに。


「金子仁朗です」

先生が言った。


神代先生は私の指差した行を見て、それから私を見た。


「珠坂さん。こんじんの字は?」


「金に……神様の神です」


言ってから気づいた。

またやらかした。

誰にも見えていないものを見てしまった。

いや、見えないものを、見えたと言ってしまった。


「そうですか」

それだけだった。

先生はまた一覧表に目を戻し、ノートに何かを書いた。私の位置からは、読めなかった。


先生が次に手に取ったのは、閉鎖登記簿の写しだった。黒いシミの一行。


私はそれを見ているうちに、コピーの上の黒が、日に当てた水たまりみたいに、縁の方から少しずつ引いていく。

下から文字が浮かんでくるのだと思った。金子仁朗か、あるいは、さっきの二文字か。


けれど、薄くなったシミの下には何もなかった。


罫線だけが残っていた。


「……先生」


声が少しかすれた。


「シミの下は…いえ。なんでもありません」

言わなかった。

言わないことを選んだ。


「……金子仁朗、どこから来たんでしょう」


現在の登記簿には、ついこのあいだまでこの人がいた。戸籍にもいる。住所もある。なのに、この人が最初に書かれたはずの場所には、誰もいない。


神代先生は、しばらく黒いシミを見つめていた。


「逆かもしれません」


「逆?」


「人が書かれていないんじゃない」


先生は、指先でシミをなぞった。


「人には、書けなかったんです」


田中さんが、ごくりと唾を飲む音がした。


「先生、それは、どういう」


「まだ分かりません」


先生はあっさり言った。


「分からないので、見に行きましょう。田中さん、今週末、現地をご案内いただけますか」


「……行くんですか。あそこに」


「足が動かなくなる場所に、足が動くうちに」


冗談なのか本気なのか分からない口調だった。先生は引き出しから一枚の書類を出して、田中さんの前に置いた。


「それと、こちらに署名を」


「これは」


「委任契約書です」


「でも先生、相続の手続きはもう終わってますよ」


「ええ。ですから、相続のご依頼ではありません」


先生は書類の一行を指で示した。


「田中さんが所有する土地を、平穏に利用できるようにするための調査と、必要な交渉です」


「交渉?」


「はい。相手がいるのなら、まずは話を聞かなければなりません」


田中さんは、少しだけ笑った。今日初めての、本当の笑いだった。


帰り際、田中さんは玄関で思い出したように振り返った。


「そういえば古賀先生が、変なことを言ってました。登記の方は直ったけど、金子さんの戸籍の方は法務局の管轄じゃないから、そのまま残ってるんだって。……まあ、関係ない話でしょうけど」


扉が閉まった。


神代先生は何も言わずに、ノートの端に一行、書き足した。


私はうつむいたまま、言葉を喉の奥から捻り出した。

「先生……信じるんですか?」


「何がです」


「金神です。私が見間違いをした文字です」


「珠坂さんが嘘をつく理由がありません」


「いや、普通もっとありません?」


「何がです?」


「疑うとか!」


先生は少し考えた。


「では、疑っておきます」


そういう意味じゃない。


普通は怖がる。

見えないものを見えたと言って、聞こえないものを聞こえたと言って。


皆、私を怖がる。

だから見えないふりをして、聞こえないふりをして。

そうして生きてきた。

でもこの人と居ると、そんなことはどうでもいいような気がした。


「怖く、ないんですか」

私のことを聞いた。

そういうつもりだった。


「怖いですよ」

全然怖くない顔だった。


「じゃあ……」


「珠坂さんには、そういう力があるのかもしれません」


力。

そういう力。

この人はそういうモノを疑わない。

そういうモノを知っているのだろうか。



【四】


土曜日は、曇りだった。


田中さんの車で県道を外れ、舗装の途切れた細い道を登っていく。家がまばらになり、やがて畑も途切れ、両側から雑木林がのしかかってきた。


「ここからです」


田中さんが車を停めたのは、林の入口の、古いガードレールの脇だった。


それだけだった。


何か建物があるわけでもない。ただ、手入れのされていない雑木林が、斜面いっぱいに広がっている。枯れ枝と下草と、湿った土の匂い。


「私は……ここで待っててもいいですか」


田中さんは、林に入ろうとしなかった。


神代先生は頷き、林の中へ一歩踏み出した。私もその後を追った。


足は、動いた。


落ち葉を踏む音が、やけに大きく響く。鳥の声がしない。風もないのに、どこかで枝が軋んでいる。


しばらく歩いたところで、私は立ち止まった。


見られている。


田中さんが言っていた意味が、はっきり分かった。背中ではない。首筋でもない。右の方の、藪の奥。そこから、じっとこちらを見ている何かがいる。


「先生」


「はい」


「あっちに、何か」


先生は私の視線の先を見た。それから、何も言わずに私に道を譲った。


藪を掻き分けて進んだ。棘のある枝が袖を引っかける。視線は、少しも逸れない。むしろ近づくほど、はっきりしてくる。


そして、藪が開けた。


小さな社がそこにあった。


大人の背丈ほどの、木造の祠。屋根は半分落ち、柱は黒く腐り、周りの石垣は崩れて苔に埋もれている。鳥居はない。あったのかもしれないが、もう分からない。何十年も、誰も来ていないであろう場所だった。


崩れた屋根の下に、残っているものがあった。


石だった。


両手で抱えられるくらいの、丸い石。苔ひとつ生えていない。濡れたように黒く光っている。


視線は、そこから来ていた。


「……田中さん、これ、知ってるのかな」


振り返ろうとした。


足が、動かなかった。


痛くない。痺れてもいない。地面もぬかるんでいない。それなのに、足の裏が土から離れない。まるで靴底から根が生えて、地の底の岩にまで届いてしまったみたいに。


「先生」


声が裏返った。


「先生、足が」


背後で、落ち葉を踏む音がした。神代先生が、藪を抜けて私の隣に立った。


先生は私の足元を見て、それから、社の石を見た。


慌てる様子は、まったくなかった。


先生はコートの内ポケットから、ノートとペンを取り出した。


「……先生、何してるんですか」


「記録しています」


先生は石から目を離さずに言った。


「どうやら、相手方がいるようなので」


社の奥の暗がりから、より一層、強い視線が向けられたような、そんな気がした。

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