第一話・忌むべき土地(後編)
※本作品は日本国の法律を扱ったフィクションです。ただし、物語の都合により実際の法律や解釈とは違う場合があります。
【五】
足は、動かなかった。
「珠坂さん」
神代先生の声は、事務所で書類の誤字を指摘するときと同じ調子だった。
「前へ進めますか」
「む、無理です」
「後ろは」
言われて、右足を後ろへ引いてみた。
動いた。
靴底が土から剥がれる感触が、はっきりあった。
「……動きます」
「右は」
動く。
「左は」
動く。
「前は」
動かない。社の方へは、半歩も出ない。
先生はノートに何かを書き、社と私の足元とを交互に見た。それから内ポケットから銀の懐中時計を取り出して、パカっと蓋を開けた。
何かを確認したあと、蓋を閉め、時計をまた内ポケットにしまうと、落ち葉を一枚拾って、私の爪先の少し先に置いた。
「そこから先が、向こうの敷地のようですね」
「敷地って」
「拘束しているわけではなさそうです。立入禁止か、退出禁止か、それを確認していました。珠坂さんのは、立入禁止のほうです」
「ちょっと冷静に分析しないでください! 動けないんですけど!」
「後ろには動けます」
「そういう問題じゃ……」
言いかけたところで、ふっと足が軽くなった。前にも出られる。けれど、出たいとは思わなかった。
黒い石は、崩れた屋根の下で濡れたように光っていた。視線は、まだそこにあった。
先生はしばらく石を見ていた。それからノートを閉じた。
「今日は帰ります」
「え」
私は思わず先生の顔を見た。
「話をするんじゃないんですか。相手方がいるって」
「相手が誰なのか分からないのに、何を話すんです」
先生は石に向かって、軽く頭を下げた。
「出直します」
藪を抜けて戻ると、田中さんがガードレールのそばで青い顔をして待っていた。
「何か、ありましたか」
「社がありました」
先生が答えると、田中さんはきょとんとした。
「社? あそこに?」
知らないのだ。自分の土地の真ん中にあるものを。
【六】
「金神という信仰は、あります」
事務所に戻ると、先生は本棚から古い民俗事典を抜き出して、私の前に置いた。
「方位の神です。陰陽道の系統で、その年に金神がいる方角に向かって土を動かしたり、家を建てたりすると祟る、と言われていた」
「じゃあ、あの社の神様が金神なんですか」
「分かりません」
「またそれですか」
「珠坂さんにそう見えた、というだけです」
先生は事典を閉じた。
「それに、金神は一か所に留まる神ではありません。年ごとに方角を移っていく。社に据えて祀るのとは、少し相性が悪い」
「じゃあ、私が見たのは」
「分かりません」
三回目だった。
「名前は、今は脇に置きましょう。知りたいのは、あの土地で何が祀られていたかではなく、あの土地で誰と誰が、何を約束していたかです」
先生は電話を取った。田中さんに、お父さんの家に古い書き付けが残っていないか探してほしいと頼んだ。登記よりも前の、集落の頃のものを。
それから、古賀先生に電話をかけた。
スピーカーにはしていなかったが、声は私の席まで漏れてきた。低くて、よく通る声だった。
『神代。あの土地の件をやってるのか』
「はい」
『手続きは終わったはずだ』
「存じています。先生が整理された共有者の一覧、原資料の出所を伺えますか」
『……明治の土地台帳からだ。役場に写しがあった。何を探してる』
「十一人目です」
電話の向こうが、少し黙った。
『あれは誤記として処理された』
「はい。誤記だと思います」
先生は、あっさり同意した。
「ですから、誰が、何を書き誤ったのかを知りたいんです」
【七】
三日後、田中さんが事務所に運び込んだのは、段ボール箱が三つだった。
「親父の家の、仏間と納戸にあったものです。片づけるつもりで、手をつけてなかった」
中身は、ほとんどが紙くずに見えた。農協の古い通帳。町内会の回覧。輪ゴムで束ねた昭和の年賀状。領収書。誰かの葬式の香典帳。湿気を吸って波打った紙が、ぎっしり詰まっている。
「先生、これ、全部見るんですか」
「全部見ます」
先生はもう白い手袋をはめていた。
二日かかった。私は途中で三回くしゃみをし、一回、見なかったことにしたい大きさの虫を見た。先生は一枚ずつ、日付と差出人だけをノートに控えていった。
二日目の夕方、先生の手が止まった。
香典帳と香典帳のあいだに、薄い和綴じの帳面が挟まっていた。表紙には墨で「山割帳」とある。紙は茶色く焼けて、端が虫に食われていた。
先生はそれを机の真ん中に置いて、一枚ずつ頁を繰った。私は横から覗き込んだが、崩し字はほとんど読めない。
「山の割り当て帳ですね」
先生が言った。
「集落の家々が、共有の山をどう使うか。薪を取る区画、下草を刈る順番。それを家ごとに決めて、書き留めてある」
先生の指が、冒頭の頁の家名を順になぞった。
「一、二、三……十」
十軒。
「十戸です」
私は、古賀先生の一覧表を引き寄せた。
共有者、十一人。
「一人、多い」
「ええ」
先生は頁をめくり、ある一行で指を止めた。家名の列の最後、十軒目の後ろに、名前ではない書き込みがあった。
先生が、ゆっくりと読み下した。
「社地、旧のごとく置く。山の内一所、触るべからず」
「……それって」
「十軒で山を分けた。けれど、その内に一か所だけ、どの家にも割り当てない場所があった。誰のものでもない。触ってはいけない」
「それが、あの社ですか」
「分かりません」
四回目だった。
「山の内一所、としか書いていません。どこなのかは、この帳面からは分からない」
翌日、先生は法務局から古い地図の写しを取り寄せた。明治の頃に作られた、旧土地台帳附属地図。和紙に手で描かれた、字図と呼ばれるものだという。現在の公図と並べると、線の歪み方がまるで違った。
先生はその二枚と、山割帳とを見比べた。帳面には、家ごとの割り当てが土地の呼び名で書いてある。何々の沢から、何々の尾根まで。何々の窪から、大杉のところまで。先生はそれを一つずつ字図の上に拾い、鉛筆で薄く塗っていった。
十軒分を塗り終えたとき、山の中ほどに、一か所だけ塗られていない場所が残った。
先生はその位置を、現在の公図に移した。それから、私があの日現地で撮った写真の位置情報を、地図に重ねた。
ぴたりと、重なった。
私が足を止められた場所。黒い石のある、崩れた社。
「……空白だ」
思わず呟いていた。
閉鎖登記簿の、シミの消えたあとと同じだった。誰のものでもない場所は、どの記録の上でも、誰のものとも書かれないまま残っていた。
田中さんに電話をすると、一時間もしないうちに飛んできた。
先生は、帳面の最後の頁を開いた。
そこには、別の筆跡で、日付と家名が短く並んでいた。祭りの当番の記録のようだった。十軒が一年ずつ、順番に。
その記録は、昭和三十年代の半ばで途切れていた。
「……ここで、誰も来なくなったんですね」
田中さんが、ぽつりと言った。
「親父は、知ってたのかな」
誰も答えなかった。
【八】
「整理します」
先生はホワイトボードの前に立った。こういうとき、先生は妙に楽しそうに見える。
「集落の十軒は、山を共有していた。その中に、社の一角があった。そこは誰の持ち分でもなかった。人間たちは、それを知っていて、触らなかった」
ボードに、十個の丸と、少し離れて一つの三角が描かれる。
「明治になって、国は土地に所有者を定めることにした。土地台帳を作り、やがて登記簿を作った。すべての土地に、誰の土地かを書かなければならない」
先生のペンが、三角の上で止まった。
「では、ここは誰の土地か」
「……十軒の共有、じゃないんですか」
「人間の制度ではそうなります。でも、集落の人たちにとっては違った。ここは十軒のものではなかった」
「じゃあ、何て書けば」
「それです」
先生は、三角の下に空白の枠を描いた。
「誰かが、何かを書こうとしたのだと思います。この十軒のほかに、ここに関わる者がいると」
先生は閉鎖登記簿の写しを取り上げた。前に見た、あの一行。
シミは、もうなかった。罫線だけが残っている。
「おそらく、ここが十一人目の起点です。人間の制度へ移されたとき、何かが起きた。最初は空白だったものが、後の記録では金子仁朗という人間になっている」
「どうやって?」
「それは、まだ分かりません」
先生はあっさり言った。
「法務局の人は、シミを名前と読み違えたって」
「それも、一つの説明です」
先生は、それ以上何も付け加えなかった。
私は、思いついたことをそのまま口にした。それが一番自然な結論に思えた。
「じゃあ……神様が、人間の書類に入り込んだってことですか。登記の隙間から」
先生は、すぐには答えなかった。帳面の一行と、写しの空白と、古賀先生の一覧表とを、順番に見比べていた。
「……逆ですね」
「え?」
「入り込んだのは、向こうじゃない」
先生はペンで、十個の丸から三角へ、一本の矢印を引いた。
「人間です」
私は、矢印を見つめた。
「十軒の人たちは、この一角を誰のものにもしなかった。そこに所有者の欄を作って、何かを書き入れなければならなくしたのは、人間の制度のほうです。どうやってかは、分からない。でも、結果だけは書類に残っている。人間の記録は、百年以上、この場所を金子仁朗という人間として扱ってきた」
「人間に、してしまった」
そう言った途端、私の背中になにか、冷たいものが降りてきた。
「少なくとも、書類の上では」
【九】
「でも、先生」
私は引っかかっていた。
「それが明治の話なら、なんで百年以上も何もなかったんですか。怒るなら、もっと前に怒ってもよかったはずじゃ」
「何もなかったわけではないと思います」
先生は、十一人目の欄を指で叩いた。
「間違った形でも、そこに誰かがいたんです。金子仁朗という、おかしな人間の姿をしていても。共有者の一人として」
「あ」
「人間の書類の上でも、この山は田中家だけのものではなかった。十一人目の持ち分が、ずっと残っていた。形は歪んでいても、昔の約束の、名残のようなものが」
先生は、少し間を置いた。
「それを、今回、消しました」
存在しない人物の記載だから、更正する。残りの持分もすべて整理して、田中さんに集める。
人間の書類の上で初めて、この山は、人間だけのものになった。
「……古賀先生が、悪いってことですか」
「いいえ」
先生は首を振った。
「古賀先生は間違っていません。法務局も間違っていない。田中さんもです」
「でも」
「人間の法律では、全員正しいんです」
先生はホワイトボードの三角を、じっと見ていた。
「だから、話をしなければならない」
【十】
二度目に林へ入ったとき、田中さんも一緒だった。
「私が行かないと、始まらないんでしょう」
林の入口で、田中さんはそう言った。顔色は悪かったが、足取りはしっかりしていた。
藪を抜けると、社があった。前に来たときと、何も変わっていない。崩れた屋根と、黒い石。
けれど、私には違って見えた。
石の向こうに、何かが立っている。
立っている、と言うのは正確ではない。そこにいる、というほうが近い。石の向こうの木立ちが、まとめて一つの大きな顔になって、こちらを見下ろしているような。あるいは、足元の土の下から、ずっと深いところから、見上げられているような。
輪郭は、なかった。
「珠坂さん」
先生が小声で言った。
「何か、聞こえますか」
聞こえてはいなかった。耳には、何も届いていない。
それなのに、意味だけが分かった。
頭の中に、直接、置かれるように。
「……此処は、我が領地なり」
口に出すと、声が震えた。
「そう、言ってます」
田中さんが、息を呑んだ。田中さんには、何も聞こえていないらしかった。
神代先生は、驚かなかった。
「そうでしょうね」
私は耳を疑った。
「先生?」
「山割帳のとおりです。十軒の誰のものでもない一か所。それがここです。向こうの主張には、理由があります」
先生は、一歩前へ出た。落ち葉の境目の、手前ぎりぎりまで。
「ですが」
先生は、石に向かって言った。
「田中さんを拘束することは、認められません」
その瞬間、田中さんが短く声を上げた。
「せ、先生」
田中さんが足を持ち上げようとした。
上がらない。
「後ろへ下がってください」
「駄目です」
「右は」
「動きません」
「左も?」
田中さんが青い顔で頷いた。
私のときとは違う。
私は社へ近づけなかった。
田中さんは、どこへも行けない。
「……退出禁止、ですね」
先生が小さく言った。あの日、私の足元に落ち葉を置いたときと同じ声だった。
「珠坂さん。向こうは、何と」
私は、置かれた意味を、なんとか言葉にした。
「……この土地は、もう、この人のものだと、人が決めた。ならば、この人も、この土地のものだ、って」
先生は、小さく頷いた。
「やはり、そうですか」
「どういう意味ですか」
田中さんが、泣きそうな声で訊いた。
「所有の意味が、違うんです」
先生は、ようやく田中さんの方を向いた。
「人間の法律では、人が土地を所有します。土地は人のものになる。けれど、向こうの理では逆なんです。土地のものになるのは、人のほうです」
「……」
「珠坂さんは、この土地と何の関係もない。だから、入るなと言われた。田中さんは、この山を完全に自分のものにしました。向こうから見れば、それは田中さんが完全にこの山のものになった、ということになる。だから、出るなと言われている」
同じ、足が動かないという現象なのに。
私は部外者で、田中さんは所有者で。
向こうは、その違いを正確に知っている。
足が動かないのは、攻撃ではない。
向こうの側の、所有の手続きなのだ。
「それじゃ、話にならないじゃないですか」
私は思わず言った。
「同じ言葉なのに、意味が逆なんて」
「だから、話をするんです」
先生は、静かにそう言った。
【十壱】
先生は、鞄から書類を取り出した。
こんな場所で書類を広げる人を、私は初めて見た。
「珠坂さん。私の言うことを、向こうに伝えられますか」
「……やってみます」
伝えられるのかどうか、分からなかった。けれど、先生が話し始めると、言葉が自分の中を通って、向こうへ流れていく感覚があった。
「昔の約束を、そのまま戻すことはできません」
先生は、石に向かって、依頼人に説明するときと同じ口調で話した。
「十軒の集落は、もうありません。当番を回す家もない。田中さんには、田中さんの暮らしがある。この山を使い、必要なら手放す権利が、人間の法律の上ではあります」
木立ちが、ざわりと動いた気がした。
「ですから、新しい約束をしましょう」
先生は、書類の上に図面を広げた。山林の公図だった。
「社の敷地を、この山から切り分けます。そこは田中さん個人の土地にする。残りは、田中さんの会社の土地にします」
田中さんが、目を丸くした。
「そのうえで、社の土地のために、残りの土地に権利を設定します。社へ通う道を塞がないこと。社を望む眺めを妨げないこと。それを、地役権として登記します」
「ち、地役権……」
田中さんが呟いた。不動産屋さんなのだから、言葉は知っているはずだ。ただ、こんな場所で聞くとは思っていなかったのだろう。
「社は再建していただきます。祭りも、田中さんの家で継いでください。会社の土地利用計画にも、社のことを明記する」
「……会社が、もし人手に渡ったら」
「地役権は登記されますから、新しい持ち主にも主張できます。社の土地を田中さんから誰かが相続すれば、この権利も一緒に移ります。約束は、人が忘れても、登記が覚えています」
先生は、石の方へ向き直った。
「その代わり、あなたには、社の外の土地を人が使うことを認めていただきたい。田中さんも、これから先の持ち主も、縛らないでいただきたい」
長い沈黙があった。
林の中の、音という音が消えていた。
私の中に、何かが置かれた。問いのようなものだった。
「……名は、と訊いてます」
私は言った。
「我が名は、何と書くのか、って」
先生は、少しの間、黙っていた。
「あなたを名前として書くことは、人間の文字ではできません」
先生の声は穏やかだった。
「昔の人も、それができなかった。そして人間の記録は、あなたを金子仁朗という、誰でもない人間として扱ってきた。それは、人間の側の誤りです」
先生は、公図の上の、社の一角を指で示した。
「地役権の登記には、権利者の名前は書かれません。書かれるのは、どの土地のためか、何のためか。それだけです。あなたがここにいることを、人間の登記簿は、その形でなら正しく書き留められます」
ざあ、と風が吹いた。
吹いていなかったはずの風が、林の奥から社を通り抜けて、私たちの間を過ぎていった。
私は、思わず先生の胸元を見ていた。
あの日、ここで鳴った時計。
風が止んで、林に音が戻ってきた。鳥が一羽、どこかで短く鳴いた。
懐中時計は、鳴らなかった。
先生は、コートの上から一度だけ、そこに手を当てた。それが何を意味するのか、先生は何も言わなかった。たぶん、先生にも分からないのだと思う。
「……田中さん」
先生が言った。
田中さんは、自分の足を見下ろしていた。それから、そろそろと右足を上げた。
上がった。
田中さんは社に背を向けて、林の出口の方へ、一歩踏み出した。
落ち葉の上に、ちゃんと足跡がついた。
もう一歩。また一歩。
田中さんは振り返って、信じられないという顔で、自分の足跡を見つめていた。
【十参】
視線は、消えなかった。
けれど、それはもう、私の背中や首筋に刺さってはいなかった。林全体を、ゆっくりと見渡しているような。見張っているのではなく、見守っているような。
帰りの車の中で、田中さんは何度も礼を言った。社の再建のことを、早速誰に頼もうかと考え始めていた。
先生は、助手席で手帳を開いていた。
「田中さん。念のため、会社の取締役会の議事録もご準備ください」
「議事録?」
「田中さんご本人と会社との間で権利を設定するので、利益相反取引になります。承認の決議には、田中さんは加われません」
「私の会社なのに?」
「田中さんの会社だからです」
田中さんは、しばらくぽかんとしてから、笑い出した。
「じゃあ、倅に頼むしかないな」
笑いながら、少し泣いていた。
事務所の前で車を降りると、田中さんが運転席の窓を下ろした。
「親父も、そうしてくれればよかったのに」
ぽつりと、そう言った。
「当番のことも、社のことも。一言くらい、教えてくれれば」
神代先生は、少し考えてから答えた。
「お父様の頃には、もう当番を回す家がなかったのかもしれません」
「……」
「山割帳は、捨てずに残してありました」
田中さんは、長いこと黙っていた。それから、ハンドルを握り直した。
「先生、あんたに頼んでよかった」
車が角を曲がって見えなくなるまで、先生は頭を下げていた。
事務所への階段を上りながら、私は、ずっと訊きたかったことを口にした。
「……先生」
「はい」
「今日は勝ったんですか」
「誰にです?」
「……神様に」
「いいえ」
「じゃあ、負けたんですか」
「それも違います」
「……じゃあ」
先生は、鞄を持ち直しながら言った。
「話がまとまったんです」
【十四】
二週間後、分筆と地役権設定の登記が済んだ。
社の再建は、地元の大工さんが引き受けてくれたという。田中さんからは、祭りの当番を息子さんと二人で回すことにした、と電話があった。
古賀先生から連絡があったのは、その翌日だった。
先生は電話を受けながら、途中から一言も喋らなくなった。
受話器を置いたあとも、しばらく黙っていた。
「何かあったんですか」
「金子仁朗の戸籍です」
先生は、机の上にファクスで届いた紙を置いた。戸籍謄本の写しだった。
「登記の方は、誤記として訂正されました。けれど、戸籍は法務局の管轄ではない。市役所の記録です。訂正するには家庭裁判所の許可がいりますが、申し立てる利害関係のある人がいない。田中さんの相続は、もう終わっていますから」
「……じゃあ、残ってるんですか」
「残っています。そして」
先生は、紙の一か所を指で叩いた。
「出生の届出があります。父母の名前も書いてある」
私は、紙を覗き込んだ。
確かに、そこには父と母の名前があった。出生地も、届出人も。
「でも、登記の誤記から戸籍は生まれませんよね。役所が違うんだから」
「ええ」
「じゃあ、誰かが、届け出た」
「そうなります」
「この人……いないんですよね」
「少なくとも、私たちが探した範囲では」
「じゃあ」
私は、自分の声が小さくなるのを感じた。
「誰なんですか」
先生は答えなかった。
先生は、戸籍の写しの一か所を、ずっと見ていた。生年月日の欄だった。
私の位置からは、その数字は読めなかった。
先生も、読み上げなかった。
窓際で、パキラの葉が一枚だけ、ゆっくりと持ち上がった。
でも、インターホンは鳴らなかった。
(第一話『忌むべき土地』 了)




