プロローグ・同じ顔の失踪人
※本作品は日本国の法律を扱ったフィクションです。ただし、物語の都合により実際の法律や解釈とは違う場合があります。
真新しいオフィスに、真新しい表札
「神代法律事務所」
近代的なオフィスには不釣り合いな白木の新しい神棚がフロアの一角で目を引く、というか、目線が吸い寄せられる。
開業してまだ三日目の法律事務所には、相談者の姿もなく、机の上には書類の一枚も置かれていない。
窓際にはパキラの鉢植えが青々としている。
私はまだ水をやったところを見たことがない。
春らしい穏やかな日差しがオフィスの中を照らしている。
給湯室から香ばしいコーヒーの香りが漂ってきた。
「珠坂さん、コーヒーをどうぞ」
そう言って、淹れたてのコーヒーを私に持ってきたのは、フチなし眼鏡が印象的な若い弁護士、神代拓真先生。
思わず立ち上がって
「先生、そういうことは私がやるので、言ってください」
と言った。
先生は何も言わず、コーヒーの香りを楽しみながら、自分の机に向かった。
「開業して三日ですけど、弁護士って営業とか挨拶回りとか、しなくてもいいもんなんですか。この事務所、開業したことに誰か気づいてるのかな……」
言ってから気づいた。
司法試験浪人生の身で雇われている私なんかが心配することではない。
でも、神代先生は呑気にコーヒーを啜っている。
私は椅子に座り直して、民法の参考書に目を戻した。
空気が暖かくなって、街はすっかり活動的になった。
時計を見ると午前十時を回ったところだ。
突然電話が鳴る。
いや、電話とは突然鳴るものだ。
思わず肩を揺らして、体を引いてしまった。
初めての電話応対に緊張しながら、受話器を取る。
「はい、神代法律事務所です」
『お!あかりちゃん?古賀です』
電話の向こうから男性の低い声が響いている。
「あ、古賀先生。ご無沙汰しております」
『どう、新しい事務所は?拓真は?何してる?』
「先生は、窓の外を見ています。代わりますね」
私はまだ見慣れないオフィスの電話で、初めて使う保留ボタンを探しながら、
「先生、古賀先生からお電話です」
と言って、保留ボタンを押した。
「はい、神代です」
「古賀先生、その節は大変お世話になりました」
電話先の古賀誠一郎は、神代先生が独立前に働いていた弁護士事務所の代表弁護士だ。
私を面接の会場で不採用と宣告し、神代先生の開業前の新しいオフィスを紹介した印象深い人でもある。
事務所の入口には、「祝開業・古賀誠一郎」と立札が添えられたフラワーアレンジメントのバスケットが飾ってあった。
「はい、お待ちしております。それでは」
神代先生はそう言うと、受話器を置いた。
「珠坂さん、午後にお客様第一号が来ます」
先生は落ち着いた声で、そう言った。
特別に嬉しそうな表情はしていなかった。
「え、古賀先生が紹介してくださったんですか」
「はい。何やら事情がありそうですが」
神代先生はそう言うと、私の顔を少し見てから、手元に置いてある銀の懐中時計に目を落とした。
午後二時を過ぎた。
事務所のインターホンが、初めて鳴った。
『古賀先生からのご紹介で伺いました遠藤です』
インターホンから女性の声が聞こえる。
先生が出迎えて、応接室に通した。
私は用意していた急須にお湯を入れ、二人分の湯飲み茶碗に煎茶を注ぐ。
「失礼します……」
先生と遠藤さんは、応接室のテーブルに向かい合わせに座っていた。
私はテーブルサイドに回り込んで、お盆に乗せたお茶碗を緊張しながら、テーブルに置いていった。
その時、私は強烈な視線を感じた。
見ると、相談に来ていた遠藤さんが、私の顔を凝視している。
目を丸く見開いて、口に手を当てている。
「か、華那。どうしてここに……」
「遠藤さん、落ち着いてください。彼女は珠坂あかりさんです。この事務所の助手をしてもらっています」
「で、でも、そんな。こんなことって」
遠藤さんは明らかに動揺している。
私は状況が呑み込めないまま、一歩、テーブルから離れた。
「珠坂さん、一度、机に戻っていてください」
先生に言われるまま、私は静かに一礼してから、応接室を出た。
しばらくして、遠藤さんが事務所を出ていった。
ひどく疲れた顔をしていたのが印象的だった。
最後に私の顔をちらりと見ていた。
なにかを惜しむように。
「珠坂さん。少しよろしいでしょうか」
先生が私を応接室のテーブルに呼んだ。
「先ほどの方、何かあったんですか。私、何かしましたか」
恐る恐る聞いてみた。
「まず、私の質問に答えてください」
神代先生は真剣な眼差しを私に向けている。先ほどまでの呑気な表情は微塵も残っていない。
「お名前をお願いします」
「珠坂あかり、です」
「ご両親のお名前は」
「父は珠坂賢吾、母は珠坂さや、です」
「生年月日を教えてください」
「2001年5月12日、です」
「ご住所は」
先生はまるで採用試験の面接官のように、私の履歴を確かめていった。
手元には、採用面接のときに提出した履歴書があった。
そして、何枚か、見慣れない紙がそこにあった。
「先生、これはどういう……」
「珠坂さん。先ほどの遠藤さん、遠藤春恵さんは、八年前に娘さんが行方不明になったということで、失踪宣告の手続きの相談にいらっしゃいました」
失踪宣告。
不在者の生死が七年間明らかでないとき、家庭裁判所が利害関係人の請求により失踪を宣告し、法律上死亡したものとみなす制度だ。
「これが、八年前の娘さん、華那さんの写真です」
先生が差し出した一枚の紙。そこには制服姿の女子高校生の写真が印刷されている。
まだ幼さの残る顔立ち。どこかで見たような気がした。
「そして、こちらが八年後の今の顔を推定して描かれたものです」
先生はもう一枚の紙を私の前に差し出した。
私は息が止まった。
そこにあったのは、私の顔だった。




