第九話 夏の匂い
季節が変わるたびに、思い出は少しずつ増えていった。
あの夏の暑さも、笑い声も、全部が今でも鮮明に残っている。
梅雨が終わる頃。
教室の窓から入ってくる風が、少しだけ夏の匂いになった。
「暑い……。」
大和が机に顔を伏せる。
「まだ夏本番じゃないよ。」
莉央が笑う。
「もう無理。」
「大和は毎年言ってる。」
そんな会話を聞きながら、私は後ろを振り返った。
湊くんはいつものように静かに本を読んでいた。
暑くないのかな。
そう思っていると。
突然。
「神崎くんって、暑いの平気なの?」
莉央が聞いた。
私より先に聞いてくれるところが、莉央らしい。
湊くんは本から顔を上げる。
「普通。」
「また普通って言った。」
大和が笑う。
湊くんは少しだけ困った顔をした。
その表情がおかしくて、私も笑った。
最初は、何を考えているかわからない人だと思っていた。
でも最近はわかる。
湊くんは、無口なだけ。
冷たい人じゃない。
⸻
ある日の昼休み。
「今日は外行こうぜ!」
大和が言った。
「暑いよ?」
莉央が心配そうにする。
「だから楽しいんじゃん!」
大和の言葉に、みんなで校庭へ向かった。
鬼ごっこをして。
ボールで遊んで。
汗だくになって。
「湊、こっち!」
大和が叫ぶ。
「パス!」
湊くんがボールを受け取る。
そのときの湊くんは。
いつもの静かな顔じゃなかった。
楽しそうだった。
夢中になっていた。
「あ。」
思わず声が出た。
「何?」
莉央が聞く。
「ううん。」
私は首を振った。
ただ。
湊くんにも、こんな顔があるんだと思った。
⸻
帰りの時間。
教室に戻ると、湊くんの机の横に水筒が置いてあった。
「あれ。」
大和が言う。
「湊、水筒忘れてない?」
湊くんが振り返る。
「……あ。」
珍しく、少し焦った顔。
その瞬間。
私たちはみんな笑った。
「湊でも忘れ物するんだ!」
大和が笑う。
「するよ。」
湊くんが答える。
「意外。」
莉央も笑う。
私は、そのやり取りを見ながら思った。
完璧な人だと思っていた。
何でもできて。
静かで。
かっこよくて。
でも。
ちゃんと忘れ物もするし。
困った顔もする。
普通の男の子なんだ。
そのことが、なんだか嬉しかった。
夏休みまで、あと少し。
私はまだ知らなかった。
この夏が。
湊くんとの思い出でいっぱいになることを。




