第十六話 もう一度
忘れたと思っていた。
でも、心の奥にしまった思い出は、なくなったわけじゃなかった。
社会人になって数年。
私は毎日、目の前の仕事に追われていた。
学生の頃とは違う責任。
新しい人間関係。
忙しいけれど、充実した日々。
いつの間にか、小学生の頃の記憶は遠いものになっていた。
あの公園。
毎年のバレンタイン。
卒業の日の「またね」。
そして。
神崎湊くんのこと。
大切な思い出ではある。
でも、それはもう過去のものだと思っていた。
⸻
その日は、取引先との打ち合わせだった。
初めて訪れる会社。
受付で名前を伝え、案内された会議室で資料を確認していた。
しばらくすると。
扉が開いた。
「失礼します。」
その声を聞いた瞬間。
なぜか、胸の奥がざわついた。
知っているはずがない。
なのに。
どこか懐かしい。
不思議な感覚だった。
顔を上げる。
そして。
時間が止まった。
「……。」
目の前にいた男性も、私を見て動きを止めた。
数秒の沈黙。
その人は、少し驚いたように目を見開いた。
「……木下さん?」
その苗字を聞いた瞬間。
私は確信した。
「……神崎くん?」
口に出した名前は、昔の呼び方だった。
でも、すぐに気づく。
私たちはもう、小学生じゃない。
目の前にいる彼は。
あの頃の少年ではなかった。
背が伸びていた。
落ち着いた雰囲気をまとっていた。
大人の男性になっていた。
でも。
少しだけ目を細めて笑うところは、昔のままだった。
⸻
「久しぶり。」
湊くん……いや。
今の彼をそう呼ぶには、少しだけ距離がある気がした。
「久しぶりです。」
私もそう返す。
お互い、大人になった距離感。
不思議だった。
あんなに毎日一緒にいたのに。
今は敬語で話している。
⸻
打ち合わせは、仕事として進んだ。
資料を確認して。
予定を調整して。
普通に会話をする。
でも。
心の中では、何度も思っていた。
本当にいるんだ。
湊くんが。
⸻
打ち合わせが終わり、帰ろうとした時。
「木下さん。」
呼び止められる。
振り返る。
湊は少し迷うような表情をしていた。
「元気でしたか?」
その言葉に。
胸の奥が少しだけ痛んだ。
何年も会っていなかった人。
なのに。
その一言が、昔と同じ優しさに感じた。
「はい。」
私は笑う。
「元気でした。」
本当は聞きたいことがたくさんあった。
どんな中学生活だったのか。
どんな高校生活を送ったのか。
今、何をしているのか。
でも。
急には聞けなかった。
⸻
会社を出る。
冷たい風が頬に当たる。
私は歩きながら考えていた。
まさか。
こんな形で再会するなんて。
もう二度と会わないと思っていた人。
忘れたつもりだった初恋。
でも。
一度閉じた記憶の扉は。
彼の姿を見た瞬間、簡単に開いてしまった。
後ろの席だった君。
夏の公園にいた君。
毎年チョコレートを受け取ってくれた君。
卒業の日に「またね」と言った君。
全部。
昨日のことみたいに思い出せた。




