第10話 想定外
開いた扉を前に、安達は深く息を吐く。
彼はジャケットの裏ポケットに入れていた眼鏡を取り出し、装着する。
特怪が特注している『仕事道具』。その一つ。
怪異の存在を認知できない体質のものであっても視覚的にその存在を把握できるようになる優れ物。
そのレンズ越しに周囲を確認した安達は、リビングの扉の先で蠢く巨大な泥の塊のような存在が透けて見える事を確認した。
「お前、あれに『ふわふわさん』って名前つけたのか」
「さっきまではもっと小さかったんだよ」
本能的な拒絶感と、全身の毛が総毛立つような威圧感。
それを一身に受けた安達は生唾を飲み込んだ。
また、眼鏡の装着から五秒が経過した辺りで頭痛や眩暈を覚えた安達はすぐに眼鏡を外す。
「対象を確認。推定危険度の更新を要するものと判断。緊急討伐を開始する」
「了解」
特怪の刑事は定められた基準を超える脅威となる怪異と遭遇した際、申請の過程を飛ばした上で即座に対応する『緊急討伐』の判断を下す権利を有している。
一般の申請が承諾された場合、もしくはバディの刑事が緊急討伐の許可を下した時のみ、慧のような対怪異人員は己の得物を用いる事を許可されていた。
安達は慧の手を取り、玄関を潜る。
「玄関扉は難なく開いたな」
「うんうん、義一が言った通りだね。……お邪魔しまーす」
「律儀に挨拶してる場合か」
怪異盗伐に際して、靴を脱いでいる余裕はない。
二人は土足のままリビングへと向かった。
リビングへ繋がる扉を開け、中を見た安達は鋭く息を呑む。
つい先程、家を後にするまではあったはずのテレビが姿を消していた。
斉藤宅のリビングにあったのは六十インチの大型テレビだ。当然、人が易々と持ち出せるような代物ではない。
この家に住まう怪異の仕業であることは明白。
また、大型テレビを消せる力を持つ怪異がより強大な力を秘めていた場合、人すら飲み込むことが出来るのではないか。
そんな嫌な予感が安達の頭を過る。
「ほら、ついたぞ」
「ありがとう」
ここはマンションの一室。他にも住人がおり、この怪異がいつ彼らへ牙を剥くかもわかったものではない。
一刻も早く討伐しておくべきという自分の判断が正しいものであると確信した安達はスマートフォンで早乙女に斉藤宅の事態の急変と緊急討伐に当たる旨をSNSのメッセージで送る。
通話をしなかったのは、彼女が電車移動中で応答できない事を見越していたからだった。
慧は竹刀袋に収まっていた刀を持ち、刃を抜く。
目元を帯で隠している彼は、まるで何かが見えているかのように顔を動かしていた。
慧は視覚の代わりに、怪異を視覚情報として認識することが出来た。
真っ黒に塗り潰された彼の視界の中、怪異の姿形だけが白い湯気のような揺らめきで象られている。
それは慧の存在を警戒してか姿を膨らませ、壁や天井を覆い始めたが、慧は怪異の『白い光』の中でも一層強い光の集合を見つける。
「……視えた」
光の集合はテレビ台に面した壁に存在していた。
慧は鞘をその場へ放り壁まで距離を詰めると、躊躇なく刀を突き立てるのだった。
怪異にはそれぞれ『核』が存在する。
生物でいう心臓に当たるものであり、これを潰す事で怪異は力を失い、消滅する。
そしてその核こそが、慧の見ている光の集合であった。
刃を突き立てられた壁からは白い淀み――実際には汚泥のような黒い淀みが溢れ出し、同時にけたたましい悲鳴が部屋中に響き渡る。
「うわ、うるさ」
慧はその音に顔を顰めつつも、より深く刀を刺す。
刀の先端は確かに光の集合を捉えていたし、核さえ潰せばどれだけ狂暴な怪異も消滅する。
そう考えたが故の判断だったのだが。
刀の切り口から溢れた淀みは触手のような強度を持つと、慧の手や足へ巻き付いた。
「……っ」
想定外の出来事に慧は息を呑む。
絡み付く触手を振り解こうと力を籠めるも、彼の細い手足ではその拘束を解く事はおろか、寧ろ壁の中で蠢く怪異の本体へと引きずり込まれそうになる。
更には天井や他の壁にまで広がった怪異の一部すらもリビングの中へと溢れ出し、慧へにじり寄る。
その時だった。
乾いた破裂音が二つ、リビングに鳴り響く。
瞬間、慧に絡んでいた触手が消滅する。
「慧っ」
更に慧は首根っこを掴まれ後退させられる。
そうして前に出たのは眼鏡をかけた安達だった。
彼は両手で拳銃を構えると、慧の刀が突き刺さっている付近へ三発目の弾を放つ。
それは確かに核を撃ち抜き、怪異は苦しそうな声を上げた。
しかし消滅する気配はない。
「義一、核が」
「わーってる。ったく、どーなって――」
安達が文句の一つも言い終わらない内。
核を攻撃されていた怪異が突如体を痙攣させる。
かと思えば次の瞬間、それは刀に突き刺さった一部だけを残し、目にも留まらぬ速さで壁を伝って玄関の方へと消えていく。
「な……っ」
更に玄関へ辿り着いたそれはそのまま家の外へと飛び出し、遠ざかっていった。
「まずい、あのでかさが住宅街に突っ込むのは……っ」
「義一っ」
「分かってる!」
慧は壁に突き刺していた刀を引き抜く。
同時に、残された怪異の一部は塵のように霧散して消滅した。
安達は鞘を回収して慧へ押し付ける。
そして慧が刃をしまったのを確認してから、安達は彼を抱き上げた。
「義一、眼鏡」
「っ、ああ」
走り出そうとした安達が僅かに体勢を崩したのを悟った慧がすかさず指摘する。
安達はそれに従い、眼鏡を外した。
彼が再び眼鏡を装着してから現在に至るまで、既に十秒以上が経過していた。
一時的に怪異を認識できる力を手に入れた代わりに激しい頭痛や眩暈、吐き気などの症状に襲われた安達はこれ以上の装着は負担が大きすぎると判断した。
脳の過剰な稼働に耐え切れなかった体が反応し、彼の鼻から微量の血が流れる。
「体は?」
「問題ない。それより、急ぐぞ」
「うん」
安達はそれを雑に指で拭い、慧を抱いたまま、怪異を追って玄関から飛び出すのだった。




