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チカは、マッキーをまだ許していなかった


昨日の話し合いのあと、セイランは黒冠へ戻った。


本日の協議内容は、黒冠深部へ持ち帰ります。


そう言って、影の中へ消えた。


だから本来なら、今日は返事待ちの日だった。


返事待ち。


いい言葉だ。


来客がない。

決定もない。

とりあえず飯を出して、受付を回して、黒冠のことは明日以降に考えればいい。


牧人は、そう思っていた。


だが、まめじいは帳面を三冊増やした。


黒冠初期確認台帳。

黒冠方面補給構想控え。

黒冠返答待機記録。


増やすな。


牧人はそう思ったが、口には出さなかった。


口に出したところで、まめじいは「必要でございます」と言う。

そして、たぶん必要なのだろう。


それが分かるから、余計に嫌だった。


今朝の本家も、いつも通り騒がしい。


飯だけの者は左。

怪我人は右奥の手前。

武器持ちは受付前。

変なものは受付へ。

鍋に毒はだめ。


ベロは鍋を見ている。

ナナは右奥の戸の前にいる。

ヒナは梁の上から案内している。

イトは天井の影から足を見ている。

イシコは石壁のぐらつきを直している。

ミズハは水桶を並べている。

ネムは右奥を静かにしている。

ぷるは灰を吸っている。

ニコは板を抱えて待っている。

若頭は門の横に伏せている。


そして牧人は、昨日より増えた板を見ていた。


黒冠、返事まち


ニコが朝から出した板である。


「待たなくていいんだけどな」


牧人が言うと、ニコは首を横に振った。


「来る」


「来なくていいんだ」


「来る」


断言だった。


ヒナが梁の上で笑った。


「やだ、ニコの予言が怖い!」


ザガが腕を組む。


「来るだろうな。あの使者の影、最後に動いてた」


「見てるだけって言ってたぞ」


牧人が言うと、若頭の中央が低く言った。


「見るだけで終わるやつは、そもそも深層から見ない」


「嫌なこと言うな」


若頭の右が牙を見せた。


「来たら噛むか」


「噛むな」


「相手による」


「まず噛む前提を捨てろ」


ベロが鍋の前から言った。


「来るなら飯だ」


「ベロまで」


「腹が減ってると荒れる」


それは昨日、牧人自身が言ったことだった。


言った言葉は戻らない。


そして、たいてい自分に返ってくる。


世の中はよくできている。

嫌な方向に。


---


昼前。


本家の門前の空気が、ふっと沈んだ。


風が止まったのではない。


人も魔物も、列も鍋も看板も、そのまま動いている。


だが、影だけが少し遅れた。


地面に落ちている影が、持ち主より少しだけ重くなった。


ミズハの水桶の水面に、黒い冠の形が映る。


「来た」


イトが天井から短く言った。


「黒い」

「でも、昨日の男じゃない」


ザガが槍に手をかける。


ナナが右奥の戸の前で姿勢を変える。


ヒナが梁の上で翼を少し広げた。


ベロは鍋の蓋を閉めた。


クロが門の横で立ち上がった。


三つの首が、同時に門の外を見る。


右が低く唸った。


いつもの威嚇ではなかった。


肉を取られそうな時の唸りでもない。

気に入らない相手を噛む前の声でもない。


もっと深い。


自分より上のものを、本能で測った時の声だった。


中央が、わずかに首を低くする。


「……いるな」


左が、ほとんど息のように言った。


「古い獣だ」


牧人は門の外を見た。


そこに、女が立っていた。


動きやすそうな黒い上着に、深い色の帯。

背には、布に包まれた大きな剣らしきものを背負っている。


重さが隠れていない。

布越しでも、あれが飾りではないと分かる。


顔の一部には影がかかっていた。


けれど、目だけは見えた。


黒冠の奥にある、濡れた石のような目。


楽しそうで、冷たくて、少しだけ懐かしそうな目。


その少し後ろに、茶色いトイプードルがいた。


小さな犬だった。


少なくとも、牧人にはそう見えた。


だが、クロはその犬を見ていた。


三つの首が、女より先に、その小さな犬を見ている。


右が牙を見せる。


「……犬の形をしているだけだ」


中央が低く言った。


「下がるな。だが、軽く見るな」


左は、さらに低く呟いた。


「俺たちより古い」


梁の上で、ヒナの翼がぴたりと止まった。


「……やだ、見た目、犬なのに。空気がぜんぜん犬じゃない」


ザガも槍を握り直した。


「若頭が先に反応した時点で、ただの犬じゃねえ」


「若頭より?」


ヒナが小声で言った。


ザガは、少しだけ黙った。


その沈黙が、答えだった。


牧人は、茶色い小さな犬を見た。


ふわふわしている。

足も短い。

顔も、どう見ても犬だ。


なのに、本家の空気だけが、そこを中心に少し冷えている。


牧人は困った顔になった。


「最近、見た目で判断できないやつが多すぎないか」


若頭の右が、低く言った。


「親父。あれは、見るな」


「犬を見るなって難しいな」


「目を合わせるな」


中央が言った。


「敵意はない。だが、格が違う」


牧人は、ますます困った。


敵意はない。

でも格が違う。


犬に使う説明ではない。


女は、まず若頭を見た。


それから、後ろの茶色い犬へ目を落とす。


「小太郎」


その呼び方は、短かった。


茶色い犬は吠えなかった。


ただ、耳だけを少し動かした。


牧人は、その犬の名前をそこで初めて知った。


小太郎。


名前だけ聞けば、近所の犬みたいだった。


だが、クロが警戒している時点で、ただの近所にいる犬ではない。


たぶん。


いや、絶対に。


ヒナが梁の上で、小さく言った。


「やだ、犬の名前は普通なのに、圧が普通じゃない」


ザガが低く返した。


「名前で判断するな」


牧人は心の中で少しだけ同意した。


この家では、名前と中身が一致しないことが多い。


---


女は、門前の敷居の手前で止まった。


勝手には入らない。


そこは、妙に礼儀正しかった。


牧人は、その女を見ていた。


知らない女。


そう思った。


思ったはずなのに、胸の奥に小さな棘が引っかかった。


女も、牧人を見ていた。


まっすぐに。


けれど、その目にはまだ確信がなかった。


探っている目だった。


昔見たものと、今見えているものを、ゆっくり重ねているような目。


「……変な顔」


女が、小さく言った。


牧人は眉を寄せた。


「何が」


「困った時の顔」


その声を聞いた瞬間、牧人の背中に嫌な汗が出た。


知っている声ではない。


そう思った。


思おうとした。


でも、どこかで聞いたことがある。


ずっと昔。

まだ本家も、若頭も、まめじいも、飯の列もなかった頃。


もっと狭くて、もっと息苦しくて、もっと何も持っていなかった頃。


女は、少しだけ首を傾げた。


「……マッキー?」


断定ではなかった。


確かめる声だった。


その名前が門前に落ちた瞬間、牧人の体が固まった。


本家の空気も止まった。


ヒナが梁の上で、小さく言った。


「やだ、親父に謎の女」


ザガの声が低くなる。


「親分」


ナナが短く言った。


「誰」


ミズハが水桶を抱え直した。


「親父?」


まめじいの筆が、ぴたりと止まった。


その止まり方が怖かった。


まめじいが書かない時は、かなり大事な時だ。


牧人は答えられなかった。


マッキー。


その呼び方をする人間は、多くない。


今は、ほとんどいない。


いや。


いた。


昔、いた。


牧人の反応を見て、女の目が細くなった。


探る目が、そこで初めて確信に変わった。


「……やっぱり」


女は少し笑った。


笑ったようにも見えた。

怒ったようにも見えた。


「久しぶり、マッキー」


牧人は、ようやく声を出した。


「……チカ?」


女の目が、ほんの少しだけ揺れた。


懐かしそうにも見えた。


でも、優しくはなかった。


「覚えてたんだ」


牧人は答えられなかった。


覚えていた。


忘れていたわけではない。


ただ、思い出さないようにしていた。


そういうものは、忘れたことにはならない。


厄介なことに、ちゃんと残っている。


ヒナが梁の上で、そっとザガに囁いた。


「チカって誰?」


ザガは牧人から目を離さずに答えた。


「知らねえ」


「親父の昔の知り合い?」


「たぶんな」


「やだ、親父に過去があった」


「誰にでもあるだろ」


「親父に過去の女現る!?」


それは否定できなかった。


牧人自身も、否定できなかった。


---


千景は敷居の外に立ったままだった。


入ってこない。


だが、帰りもしない。


その立ち位置が、妙に正確だった。


本家の内側ではない。

外でもない。

境目。


黒冠らしい、という言い方が正しいのかは分からない。


牧人は一歩前に出ようとして、ザガに腕で止められた。


「親分」


「大丈夫だ」


「大丈夫じゃねえ顔してる」


牧人は黙った。


ザガは正しい。


自分でも、今どんな顔をしているか分からない。


千景は、本家の門前をゆっくり見た。


看板。

飯の列。

受付小屋。

鍋。

ぷる。

梁の上のヒナ。

戸を守るナナ。

石壁を押さえるイシコ。

水桶を抱えるミズハ。

天井のイト。

帳面を持つまめじい。

門の横の若頭。


そして、自分の後ろにいる小さな犬。


千景は、小太郎を一度だけ見た。


それから、牧人を見る。


「相変わらず、来たものを追い返せないんだね」


その一言は軽かった。


軽く聞こえた。


でも、牧人の胸には重く刺さった。


千景は続けた。


「魔物も」

「人間も」

「行き場のない子も」

「名前のない子も」

「今度は、黒冠まで受け入れるつもり?」


牧人は言葉に詰まった。


「受け入れるっていうか……来たやつを、いきなり追い出すのも違うだろ」


「そういうところだよ、マッキー」


昔の呼び方が、門前に落ちる。


本家の誰も、茶化せなかった。


千景の声が、少しだけ低くなる。


「帰そうとするのは、いいよ」

「戻る場所を作ろうとするのも、いい」

「誰かが帰れるなら、それは悪いことじゃない」


牧人は、息を止めた。


千景は、まっすぐに見ていた。


「でも、帰れなかった側のことは覚えてる?」


牧人は何も言えなかった。


千景の声は荒くない。


怒鳴らない。


責めるために声を高くする必要がない人間の声だった。


それが、かえって痛かった。


「帰っていく子の後ろにいた子」

「戻れなかった子」

「助けが来たのに、手が届かなかった子」

「帰る道の外に残った側」


牧人の喉が動いた。


声は出なかった。


ザガが低く言った。


「おい」


千景はザガを見た。


「怒らないでよ」

「私は、まだ殴ってない」


ヒナが小さく言った。


「殴る予定はあるんだ……」


千景は少しだけ笑った。


「相手による」


クロの右が低く言った。


「気が合いそうだ」


「合わないでくれ」


牧人は、やっとそれだけ言った。


千景は牧人を見る。


「そういうところも、変わってないね」


「……チカ」


「何?」


「お前、黒冠にいたのか」


「いたよ」


「いつから」


「マッキーが知らない間に」


それは答えになっていない。


けれど、答えだった。


牧人は、昔のことを思い出そうとした。


思い出したくなかった。


何かが来た。

放っておけなかった。

帰した方がいいと思った。

たぶん間違ってはいなかった。


でも。


その後ろに残ったものまで、見ていなかった。


そういう記憶がある。


具体的な形にならない、覚えていないのに、なにか分からない罪悪感だけは形を持っている。


一番嫌な種類の過去だった。


---


まめじいが、そっと筆を置いた。


「親父殿」


牧人は答えない。


まめじいも、それ以上は言わなかった。


澄玲がいれば、きっと状況を整理しただろう。

国枝がいれば、黒冠側の意図を読んだだろう。

水越の副官がいれば、外縁警備を固めただろう。


でも、今ここにいるのは本家だった。


飯を出す。

怪我人を見る。

名前を聞く。

追い出さない。


その本家の前で、牧人は過去から来た女に言葉を失っている。


千景は、門前の板を見た。


誰も捨てられない場所


ニコが出した板だ。


あの日から、ずっと残っている板。


千景はそれを見て、少しだけ笑った。


「いい言葉」


牧人は顔を上げた。


千景の目は、笑っていなかった。


「でも、言葉は綺麗なほど、外に残った側には刺さる」


牧人は、また答えられなかった。


ナナが短く言った。


「親父、困ってる」


千景はナナを見る。


「うん」


「いじめてる?」


「少し」


ナナは、静かに一歩前へ出た。


「だめ」


千景は目を細める。


「守られてるんだ」


ナナは短く答えた。


「守る」


千景は、なぜか少し寂しそうに笑った。


「いいね」


その言い方に、牧人は胸を突かれた。


いいね。


羨ましい、に近い音だった。


ミズハがそっと水桶を置いた。


「……水、いる?」


千景は少し驚いた顔をした。


「私に?」


「立ったまま話してるから」


本家では、それだけで水が出る。


敵かもしれない。

過去の知り合いかもしれない。

黒冠の中心にいるかもしれない。


それでも、立ったままなら水を出す。


千景は水桶を見た。


それから、牧人を見た。


「本当に、変な家」


牧人は小さく言った。


「家だからな」


「そう」


千景は水には手を伸ばさなかった。


まだ、受け取らない。


そういう立ち方だった。


ベロが鍋の前で言った。


「飯もある」


「ベロ」


牧人が止める。


千景は少し笑った。


「出すんだ」


ベロは真顔だった。


「並べば出る」


ニコが板を出した。


黒冠、飯なら並ぶ


牧人は板を見た。


「それはまだ出すな」


千景が、今度は少しだけ声を出して笑った。


ほんの少し。


笑ったのに、場の空気は軽くならなかった。


むしろ、余計に分からなくなった。


---


その時、門の外の影が、遅れて揺れた。


千景の影ではない。


もう一本、細い黒い影が、地面の上をすべるように伸びてくる。


ザガが槍を握り直した。


「まだ来るのか」


黒い影の端が、門前の敷居から少し離れた場所で立ち上がる。


そこから、セイランが姿を現した。


昨日のように、最初から本家にいたわけではない。


黒冠へ戻ったはずの使者が、慌てた様子こそ見せないものの、いつもの静けさより少しだけ硬い顔で立っていた。


セイランは千景を見て、頭を下げた。そして牧人に向かって言った。


「この方が、黒冠深部の御方です」


牧人は、そこでようやく分かった。


分かりたくなかったが、分かった。


黒冠深部の御方。


セイランが昨日、直接の命はまだ届いていないと言っていた相手。

黒冠の奥がこちらを見ている、と言っていた、その中心。


それが、チカだった。


いや。


鴉宮千景は、チカだった。


けれど、もう牧人の知っているチカだけではない。


黒冠の影を連れている。

黒冠の使者が膝をつく。

黒冠の王座が反応する。


牧人は、声を絞った。


「……お前が、黒冠の」


千景は言った。


「姫、って呼ばれてる」


ヒナが小さく言った。


「やだ、自分で姫だって」


千景はヒナを見た。


「好きで呼ばせてるわけじゃないよ」


「親父と同じこと言ってる」


「同じにしないで」


即答だった。


牧人は少しだけ傷ついた。


いや、今はそこではない。


セイランは千景に向かって言った。


「姫。正式な返答前に、直接こちらへ来られるとは」


「見たかったから」


「黒冠王座が動きます」


「もう動いてるでしょ」


セイランは沈黙した。


昨日、黒冠へ持ち帰ると言っていた話は、まだ正式な返答になっていない。


なのに、その返答を出す前に、返答を下す側が来てしまった。


牧人は、その面倒さだけは分かった。


「……順番、飛ばしてないか」


千景は少し笑った。


「黒冠ではよくあるよ」


セイランが静かに言った。


「よくはありません」


ヒナが梁の上で小さく吹き出した。


「やだ、使者が訂正した」


千景は牧人を見た。


「マッキー」


牧人の肩が、わずかに強張る。


「ここ、いい家だね」


牧人は答えられない。


「だから余計に聞きたい」


千景の声が、少しだけ低くなった。


「誰も捨てられない場所」


その言葉が、本家の門前に落ちた。


自分で言った言葉なのに。


牧人は今、その重さで動けなかった。


「それ、本気?」


牧人は、答えようとした。


本気だ。


そう言えばいい。


だが、言葉が出なかった。


千景が続ける。


「本気でそう言うなら、こっちの話も聞いて」


黒冠の影が、足元で静かに広がった。


「黒冠は、帰れなかった側の家だよ」


場が凍った。


飯の匂いだけが、まだあった。


千景は、静かに言った。


「それでも、帰る道を作るって言える?」


牧人は、何も言えなかった。


旧帳場の奥で、灰色の線が一度だけ薄く光った。


仮記録。

黒冠深部の姫、来訪。

守谷牧人、旧知。

呼称、マッキー。

本家方針、問われる。

黒冠、帰れなかった側の家。


最後に、一行。


親父殿、未回答。


誰も、その文字を読んではいなかった。


ただ、本家の門前で、牧人は初めて、飯を出せば済む話ではないものの前に立っていた。


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