親父は、黒冠を商談だと思っていた
黒冠大迷宮からの正式接触は、飯のあとに始まった。
少なくとも牧人の頭の中では、そういう順番になっていた。
まず、飯を食う。
それから、話す。
腹が減った状態で難しい話をすると、人間はだいたい判断を誤る。魔物もたぶん誤る。クロの右など、空腹が限界に達すると、交渉相手を肉に分類しかねない。
それは困る。
かなり困る。
だから、黒冠の使者にも椀が出た。
黒い外套をまとった細身の男――セイランは、少し戸惑いながらも門前の列に従った。
受付で名を告げる。
ぷるに靴底の灰を吸われる。
ニコの板を確認して、飯だけの者と同じ左側へ回る。
黒冠の正式使者としては、おそらく一度も経験したことのない手順だった。
それでも、セイランは声を荒げなかった。
ベロから椀を受け取り、静かに頭を下げる。
「……いただきます」
ベロが真顔で頷いた。
「残すなよ」
「承知しました」
ヒナが梁の上で小さく笑った。
「やだ、黒冠の使者が本家ルールに従ってる」
ニコが板を出した。
黒冠、飯中
セイランはその板を見て、わずかに沈黙した。
「……食事中であることも記録されるのですね」
まめじいが帳面を開いた。
「重要な初回対応でございますので」
牧人は思った。
交渉が始まる前から、すでに黒冠は本家に巻き込まれている気がする。
---
正式な話し合いは、受付小屋の横に置かれた長机で行われることになった。
長机とはいっても、元は作業台だ。角は欠けているし、片方の脚は少し短い。その下には、イシコが親切心で置いた石が噛ませてある。
その上に布をかけると、なんとなく会議の席に見えた。
見えるだけである。
すぐ横では、ベロの鍋が湯気を上げている。
少し後ろには、飯を待つ小型魔物たちが並んでいる。
梁の上にはヒナがいる。
戸の前にはナナがいる。
天井の隙間からはイトが足元を見ている。
ぷるは机の下で、落ちた灰を逃さない構えだった。
そしてクロは門の横に伏せていた。
三つの首のうち、右だけが、明らかにセイランの椀の中身を見ている。
「若頭」
ベロが低く注意した。
「人の飯を見るな」
クロの右がそっぽを向いた。
「見ていない」
「見てる」
「確認だ」
「飯は足りる」
右は黙った。
少しだけ不満そうだった。
この席には、澄玲も同席していた。
今日は手帳だけではない。書類鞄も、封緘された書類束も、監察局の印章も持っている。表情は冷静だが、目の下が少し重い。
S級迷宮の正式使者が本家に来た。
それだけでも、監察局としては頭が痛い。
しかも場所が、冥門組本家の炊き出し広場である。
胃に悪いにも程がある。
国枝も来ていた。
今回の黒冠接触は、最初に国枝商会へ問い合わせが来ていた。だから、商会としても無関係ではいられない。
ローは少し離れた場所で、記録石を持っていた。
配信ではない。
記録である。
澄玲に何度も釘を刺されているので、今日はさすがに大人しい。
水越本人は来ていない。
代わりに、副官が外縁警備を指揮している。都市防衛局の職員たちが、本家の外側で見物人や探索者を止めていた。
本家の内側は本家。
外側は都市側。
その線引きが、いつの間にかできつつあった。
牧人は、長机の前に座った。
本当は、椀を持ったまま端の石に腰かけて聞くつもりだった。だが、澄玲とまめじいと国枝の三人に同時に見られた。
座るしかなかった。
人間は、視線で動かされることがある。
魔物より怖い時がある。
セイランは長机の向こうに立った。
椀は空になっていた。
一滴も残していない。
ベロが少しだけ満足そうだった。
「それで」
牧人は言った。
「黒冠の使者さんは、今日はどんな商談で?」
澄玲がすぐにこめかみを押さえた。
「牧人さん。相手はS級迷宮の正式使者です」
「はい」
「もう少しだけ、言い方を」
牧人は三秒ほど考えた。
「えー、黒冠大迷宮様におかれましては、本日はどのような御用件で、お見えに、おなられもうしたので、御座いましょう?」
ヒナが梁の上で口を押さえた。
ザガが低く言った。
「敬語に慣れてないやつの敬語だな。言葉遣いがおかしいよ」
牧人がザガ見て、言い直した。
「えーっと、本日は、どのような御用件で、こちらへお越し、あそばせましたの?」
ヒナが梁の上で崩れ落ちた。
「お嬢様っぽくなった!」
セイランは表情を崩さなかった。
「黒冠大迷宮は、冥門組本家との正式接触を求めます」
「接触」
「はい」
「さっきしましたよね。名前も書いてもらいましたし、飯も食べましたし」
セイランは一瞬だけ黙った。
ローの肩が震えた。
澄玲がローを見る。
ローは記録石を下げた。
まめじいが静かに言った。
「親父殿。黒冠側は、外交上の取り決めを申し出ているものと思われます」
「外交」
牧人は眉を寄せた。
商談じゃないのか。
国枝が穏やかに補足した。
「商談に近い部分もあります。ただ、相手が商会ではなく、S級迷宮です」
「迷宮って、商談するんですか」
セイランが静かに答えた。
「黒冠は、必要であれば交渉します」
牧人は困った。
迷宮が交渉する。
言葉としては分かる。
意味としては、あまり分かりたくない。
---
セイランは、黒い巻物のようなものを机に置いた。
紙ではない。
薄い影を固めた札に、銀の文字が浮いている。
澄玲が目を細める。
国枝も姿勢を正す。
まめじいはすでに筆を構えている。
セイランは、静かに言った。
「まず、黒冠大迷宮からの初期確認事項をお伝えします」
「初期確認」
牧人は少しだけ安心した。
確認なら、まだ分かる。
商談でも、最初に確認はする。
人数とか、場所とか、支払いとか、誰が偉いのかとか。
最後のやつは、できれば確認したくない。偉い人が増えると、話が長くなる。
ただ、最近は「確認」と言われて、本当に軽かった試しがない。
セイランは続けた。
「第一に、黒冠と灰環の間には、旧時代の古い経路が残っている可能性があります」
まめじいの筆が走る。
「古路、残存可能性」
牧人は眉を寄せた。
「古い道ですか」
「はい。現在は安定していません。ですが、冥門組本家の家主名仮登録により、黒冠側の古い経路が反応しました」
「家主名……」
牧人は嫌な顔をした。
あの長い名前のことだ。
捨てられない場所の親父。
できれば忘れたかった。
忘れたいのに、周りが忘れさせてくれない。
ひどい。
セイランは表情を変えずに続ける。
「第二に、その古路が動けば、黒冠側から個体が流れる可能性があります」
ザガの目が細くなった。
「残党か」
「はい。黒冠竜王の残党、強硬派、名なし個体。そのいずれも可能性があります」
「まとめて来るなよ」
ザガが低く言った。
セイランは静かに答えた。
「黒冠は、流れを止めることに長けています。ですが、一度道が目を覚ませば、完全には読めません」
牧人は少し黙った。
道が起きる。
迷子が出る。
そこは、妙に分かった。
分かりたくないところほど、たまに分かる。
「第三に、本家との接触に反発する黒冠側勢力が存在します」
まめじいの筆がまた走る。
「黒冠強硬派、存在」
「特に、ガルドレイ殿は、冥門組本家を危険な流入点と見るでしょう」
牧人は首をかしげた。
「流入点?」
「黒冠は、長く閉じることで成り立ってきた迷宮です。そこへ、飯を出し、名前を聞き、追い出さない場所が接続される。強硬派から見れば、それは秩序を崩す穴です」
牧人は黙った。
穴。
自分では、穴を開けているつもりはない。
迷ったやつが来たら受付に回す。
腹が減っていたら飯を出す。
怪我をしていたら右奥へ送る。
名前がなければ、急がず聞く。
それだけだ。
それだけのはずなのに、相手側から見ると、どうやら違うらしい。
セイランは、さらに言った。
「第四に、黒冠には名を持たない個体がいます」
「番号や役目だけで呼ばれていた者」
「誰かの所有物として扱われていた者」
「名前を与えられる前に、用途だけ決められた者」
その場の空気が、少し変わった。
ニコが板を抱え直す。
ナナが、少しだけ顔を上げる。
ミズハも水桶の手を止めた。
ネムが右奥から、眠そうな顔だけを出した。
牧人は、ゆっくり息を吐いた。
「それは、来るかもしれないってことですか」
「はい、古路が動けば、流れ出す可能性があります」
「じゃあ、来たら名前を聞けばいい」
セイランの影が揺れた。
「名前がない場合は」
「欲しいか聞く」
「欲しいと言えない場合は」
牧人は少し考えた。
「言えるまで飯を出す」
場が静かになった。
ヒナも笑わなかった。
ザガも何も言わなかった。
ナナが短く言った。
「待つ」
ネムが右奥から言った。
「寝床、いる」
ミズハが静かに言った。
「水もね」
ぷるが、ぷるんと揺れた。
ニコが板を出した。
名前、あせらなくていい
牧人は板を見て頷いた。
「それでいい」
セイランは、その板を見ていた。
足元の影が、ほんの少しだけ薄くなったように見えた。
「……黒冠へ、そのまま伝えます」
まめじいが帳面へ書いた。
黒冠初期確認。
古路、残存可能性。
黒冠側流入、可能性あり。
強硬派、反発予想。
名なし個体、流入可能性あり。
本家方針、名の強制なし。
飯、水、寝床。
本人の意思確認まで待機。
牧人は帳面を覗いた。
「本家方針って、また大きくなってないか」
まめじいは筆を止めずに答えた。
「大きくなっておりますな」
「そこは否定してくれ」
ヒナが梁の上で小さく笑った。
「やだ、親父の小さい発言がまた方針になった」
---
セイランは巻物を閉じかけた。
その前に、牧人が手を上げた。
「あの、いいですか」
「はい」
「今の話って、つまり……道がつながるかもしれないから、迷子が出ないようにした方がいいってことですよね?」
場が静かになった。
澄玲が静かに目を閉じる。
国枝は口元を押さえる。
まめじいの筆が、いったん止まる。
セイランの影が、わずかに揺れる。
ヒナが梁の上で、ぱちぱちと瞬きした。
「迷子」
セイランが、ゆっくり聞き返した。
「はい。迷子です」
牧人は真面目だった。
「黒冠と灰環の古い道が動くなら、行き来するやつが出るでしょう。人間も、魔物も。途中が危ないなら、絶対に迷う。戻れなくなるやつも出る。だから、まず看板がいると思います」
ニコがすぐに板を出した。
迷子、だめ
セイランは、その板を見た。
「……分かりやすい」
ヒナが小さく笑った。
「やだ、黒冠の初期確認が板に負けてる」
牧人は続けた。
「ここから先は危険とか、右に曲がるなとか、戻るならこっちとか。あと、勝手に奥へ行くな、とか」
ナナが短く言った。
「止める」
「そう。止める人もいる」
イトが梁の上から言った。
「足、見る」
「そう。足を見る人もいる」
イシコが地面に手を置いた。
「石、覚える」
「そう。道を覚える人もいる」
牧人は指を折った。
「それから、飯場はいるな」
セイランの影が、はっきり揺れた。
「飯場」
「長い道を歩いてる途中で腹が減ったら困るでしょう。腹が減ると、人間も魔物も怒りっぽくなる。だから途中に飯を出す場所がいる」
ベロが鍋の前で頷いた。
「飯はいる」
クロの右も頷いた。
「いる」
牧人は右を見た。
「お前はいつもいるだろ」
右は聞いていない顔をした。
牧人はさらに数えた。
「飯場。水場。怪我人が出るなら手当てする場所。黒冠の毒とか瘴気は俺には分からないから、詳しい人も必要だと思う。あと、危ないところには止まれって板。変なものは受付。武器は抜かない。鍋に毒を入れない」
澄玲が小さく言った。
「最後は本家規則ですね」
「大事です」
ナナが短く言った。
「大事」
ベロも言った。
「鍋に毒はだめだ」
ぷるが、ぷるんと揺れる。
牧人は頷いた。
「ほら」
セイランは、しばらく黙っていた。
足元の冠影が、静かに揺れる。
「つまり、冥門組本家としては」
「はい」
「古路が動いた場合に備え、通行者の迷子防止、補給、治療、危険区画表示を兼ねた中継拠点が必要である、という方針ですね」
牧人は止まった。
「中継拠点」
国枝が静かに言った。
「補給線構築案ですね」
「違います」
牧人は即答した。
「迷子防止と腹減り対策です」
まめじいの筆が、とんでもない速さで走り始めた。
黒冠方面補給構想。
親父殿、初期方針。
迷子対策、飯場、水場、怪我人対応、危険区画表示。
鍋毒禁止。
牧人は帳面を覗いた。
「最後も書くのか」
「重要規則でございます」
「まあ、そうだけど」
澄玲は頭を抱えた。
「これを行政文書にすると、どうなるんでしょう……」
水越の副官が外縁から戻ってきて、静かに言った。
「黒冠・灰環間における暫定通行管理および避難補給拠点設置案、でしょうか」
澄玲は副官を見た。
「今すぐ正式名称にしないでください」
「失礼しました」
ヒナが梁の上で笑った。
「やだ、人間側も名前をつけるの早い!」
---
セイランは、改めて黒い巻物を開いた。
「黒冠側としては、古路再接続に関して、三つの懸念があります」
牧人は頷いた。
「三つくらいなら聞けます」
澄玲がかすかに言った。
「数の問題ではありません」
セイランは続けた。
「第一。黒冠の残党が、本家を都合のよい逃げ場として利用する可能性」
ザガの目が細くなった。
「残党ってのは、竜王派か」
「はい。ヴァルザーク消滅後も、黒冠深部には対話を拒む者たちが残っています」
牧人は嫌そうな顔をした。
「それって、飯を出しても食べないタイプですか」
セイランは、珍しく答えに迷った。
「……おそらく、最初は拒むでしょう」
ヒナが梁の上で吹き出した。
「やだ、親父の強硬派判定が飯!」
ベロが真顔で言った。
「食わないやつは、話が通じない」
「そういうものなのですか」
セイランが思わず聞いた。
ベロは頷いた。
「腹が減ったやつは怒りやすい」
牧人も頷いた。
「それは本当にそうです」
セイランは、なぜか少し考える顔になった。
まめじいが書く。
強硬派対応。
飯、拒否の可能性あり。
初期対応、要検討。
牧人は帳面を見た。
「飯を拒否するだけで、対応項目になるのか」
「なりますな」
まめじいは真顔だった。
---
「第二」
セイランは少し声を落とした。
「黒冠の強硬派の一部は、この冥門組本家を、黒冠を内側から侵食する危険な拠点と見る可能性があります」
ザガが腕を組んだ。
「本家が、黒冠を乗っ取ろうとしてるように見えるってことか」
「はい」
セイランは頷く。
「本家の主は人間でありながら、深層級の魔物を伴い、灰環最深部の家主名を得ている」
「さらに、魔物も人間も名なし個体も受け入れるという方針を持つ」
「強硬派からすれば、これは黒冠の秩序を崩す侵食点です」
牧人は、自分の空の椀を見た。
侵食点。
椀を持って飯を食っていただけなのに。
評価の振れ幅がひどい。
国枝が言った。
「つまり、黒冠内部にも、本家との接触に反対する勢力がいる」
「はい。特に、ガルドレイ殿は強硬です」
「ガルドレイ」
まめじいが帳面に書く。
黒冠強硬派、ガルドレイ。
牧人は眉を寄せた。
「その人は、話せば分かる相手ですか」
セイランは少し沈黙した。
「飯を差し出しても、テーブルごと叩き割る可能性があります」
牧人は深刻な顔になった。
「それは、かなり難しいタイプですね」
ヒナが笑った。
「やだ、テーブルを割ったら、イシコ姐さんが怒る!」
セイランは、意外にも真面目に頷いた。
「黒冠でも、食卓を破壊する者は交渉が難しいとされています」
「そこは同じなんだ」
「食わぬ者は、受け取らぬ者です」
その言い方には、黒冠らしい冷たさがあった。
閉じる迷宮。
戻さない迷宮。
食わない。
受け取らない。
名を持たない。
道を閉じる。
牧人は、少しだけ分かった気がした。
分かりたくないことほど、たまに分かる。
「じゃあ」
牧人は言った。
「最初は、無理に食べさせない方がいいですね」
ベロが鍋の前から顔を上げた。
「食わせないのか」
「無理やり口に押し込んだら、それこそ戦争になる。腹が減って、自分で食べたいと思うまで置いておく」
ベロは少し考えた。
「温めておく」
「それでいい」
まめじいが書く。
強硬派対応。
飯、強制せず。
温存。
牧人は見た。
「また温存か」
ニコが板を出した。
飯、温存
ベロが頷いた。
「それは正しい」
牧人はもう止めなかった。
正しいらしいので。
---
「第三」
セイランは、黒い巻物の端を押さえた。
「古路そのものが、まだ安定していません」
牧人は顔を上げた。
「道が?」
「はい、黒冠側から見ても、今はまだ、方角が定まった程度です」
「通れる道として開いたわけではありません」
「無理に踏み込めば、迷う者、戻れなくなる者、途中で傷を負う者が出るでしょう」
牧人は嫌な顔をした。
それは、さっき考えたことと同じだった。
道がある。
でも、ちゃんとした道ではない。
人も魔物も、たぶん勝手に行く。
そして、迷う。
最悪だ。
「じゃあ、やっぱり看板がいるな」
ヒナが小さく笑った。
「戻った」
牧人は真面目だった。
「戻るも何も、そこが一番大事だろ」
「通れない道なら、通れないって書く」
「危ないなら、危ないって書く」
「戻る場所があるなら、戻る場所も書く」
「書いても読まないやつはいるけど、書かないよりはましだ」
ニコが板を出した。
読め
ナナが短く言った。
「読まないやつ、止める」
イトが梁の上から言った。
「足、見る」
イシコが地面に手を置く。
「石、覚える」
ミズハが水桶を抱え直した。
「怪我人が出るなら、水場も近い方がいいわ」
ベロが言った。
「飯場もだ」
クロの右が頷いた。
「肉も」
牧人は右を見た。
「肉は後でいい」
「よくない」
「今は道の話だ」
「道でも腹は減る」
牧人は反論できなかった。
セイランは、そのやり取りをしばらく見ていた。
そして静かに言った。
「黒冠側の懸念に対し、本家側は、通行管理、補給、治療、危険表示、帰還誘導を重視する」
まめじいの筆が走る。
「親父殿、黒冠方面初期対応方針」
牧人はすぐに言った。
「まだ方針じゃない」
「では、仮方針で」
「仮をつければ通ると思うな」
ヒナが梁の上で笑った。
「やだ、また仮で進んでる!」
---
話し合いは、牧人の予想よりずっと長引いた。
黒冠側は、とにかく言葉が重い。
不可侵。
権益。
古路。
同盟。
侵食。
本家側は、とにかく生活に寄る。
飯。
水。
寝床。
迷子。
看板。
お粥。
鍋に毒禁止。
それを、国枝が商談の言葉へ直す。
澄玲が行政の言葉へ直す。
まめじいが本家台帳の言葉へ直す。
ニコが板に直す。
結果として、長机の上には、同じ話をしているとは思えないほどの資料が並んだ。
セイランの黒い巻物。
国枝の覚書。
澄玲の監察局メモ。
まめじいの帳面。
ニコの板。
牧人はそれを見て、深く息を吐いた。
どうして、ただの迷子対策と飯場の話が、こんなに増えるのか。
世の中は怖い。
「親父殿」
まめじいが満足そうに言った。
「黒冠方面補給構想、第一期案として取りまとめます」
「取りまとめなくていい」
「もうまとまりつつあります」
「怖い」
国枝が言った。
「親分さん、悪い話ではありません」
「そうか?」
「黒冠と灰環の間に通行が生じるなら、無秩序な流入より、受付と補給を設けた方が被害は少ない」
澄玲も頷いた。
「監察局としても、無断接続より管理された中継点の方がましです」
「まし?」
「かなりましです」
水越の副官も言った。
「都市防衛局としても、外縁で止める線を作りやすくなります」
牧人はセイランを見た。
「黒冠側は?」
セイランは答えた。
「黒冠側としても、古路が勝手に開くより、本家を経由した方が混乱は抑えられます」
「つまり」
牧人は慎重に言った。
「道をつなぐなら、迷子が出ないようにする」
「はい」
「飯場を作る」
「はい」
「水場も作る」
「はい」
「怪我人を見る」
「はい」
「危ないところに看板を立てる」
「はい」
「鍋に毒を入れない」
「……はい」
最後だけ、セイランの返事が少し遅れた。
まめじいが満足そうに筆を置いた。
「親父殿、黒冠方面初期方針、仮確定でございますな」
「また、仮か」
ヒナが梁の上で言った。
「やだ、最近の本家、仮で全部進む!」
ザガが低く笑った。
「仮でも進むなら、進んでるってことだ」
牧人は頭を抱えた。
進んでしまっている。
怖い。
---
夕方近くになって、最初の話し合いはようやく終わった。
セイランが、静かに顔を上げた。
足元の冠影が、少しだけ濃くなる。
「ただし、ひとつ。先にお伝えすべきことがあります」
澄玲の顔が険しくなる。
国枝も姿勢を正す。
まめじいが筆を持ち直す。
牧人は嫌な予感がした。
こういう時の「ひとつ」は、だいたい重い。
セイランは言った。
「本日の協議内容は、黒冠深部の御方へそのまま持ち帰ります」
牧人は、少しだけ安心しかけた。
持ち帰る。
いい言葉だ。
その場で決まらない。
一度帰って、向こうで考える。
最高である。
「じゃあ、返事は後日ということで」
「はい」
セイランは静かに頷いた。
「ただし、黒冠深部の御方がどう受け取るかは、私にも分かりません」
「分からないんですか」
「はい。黒冠の奥は、私の判断より深い場所にあります」
牧人は困った顔をした。
「深い場所の人は、だいたい話が重いですね」
ヒナが梁の上で小さく笑った。
「やだ、親父が深層全般に文句言ってる」
セイランは、表情を崩さずに続けた。
「黒冠王座も、本家の応答を見ています」
「黒冠深部の御方も、すでに冥門組本家を認識している可能性が高い」
澄玲が目を細めた。
「可能性、ですか」
「はい。現時点で、直接の命は届いておりません」
牧人は頷いた。
「じゃあ、まだ会うとか会わないとかの話ではないんですね」
「現時点では」
その言い方が、少し嫌だった。
現時点では。
つまり、後で変わるかもしれない。
まめじいが帳面に書く。
黒冠協議内容、持ち帰り。
黒冠深部の御方、認識可能性あり。
直接命令、現時点では未達。
牧人は帳面を見た。
「未達って書くと、後で届くみたいじゃないか」
まめじいは筆を止めずに言った。
「届く可能性がございますので」
「嫌な正確さだな」
ニコが板を出した。
黒冠、返事まち
牧人は、その板を見て深く息を吐いた。
「それでいい。返事待ち。今日はそこまで」
ヒナが少し笑った。
「やだ、親父が話を閉じようとしてる」
「閉じたいんだよ」
牧人は本気だった。
その時、セイランの足元の影が、ほんの一瞬だけ震えた。
冠の形をした影の先が、黒く細く伸びる。
セイラン自身も、それに気づいて目を伏せた。
だが、すぐには何も言わなかった。
牧人は見逃さなかった。
「……今の、何ですか」
セイランは少しだけ間を置いた。
「黒冠側の反応です」
「返事ですか」
「いえ、まだ、返事ではありません」
セイランは静かに言った。
「ただ、向こうがこちらを見た。それだけです」
それだけ。
牧人は、最近その言葉を信用しないことにしている。
見るだけで列を整える若頭がいる。
見るだけで水面を止める黒い輪がある。
見るだけで話を増やす深層がある。
世の中、「見ただけ」で済まないものが多すぎる。
とは言え、今日は。
「はあ~、長かった。疲れた」
牧人は最後に、本音を吐き出した。




