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黒冠の奥で、女が笑った


黒冠大迷宮は、かつて王がいた迷宮だった。


黒冠竜王ヴァルザーク。


黒い王冠角を持つ竜が、黒雷で道を焼き、瘴気で息を奪い、出口の扉を閉じていた。


灰環大迷宮にも、区域ボスや深層の災厄はいる。


けれど、灰環の本質は流れだった。


はぐれ。

傷物。

帰る場所を失った魔物。

人間社会から押し出された者。

魔物社会の流れからこぼれた者。


そういうものが、飯と寝床のある場所へ寄っていく。


黒冠は違う。


黒冠の本質は、閉じることだった。


道を閉じる。

退路を焼く。

扉を沈める。

逃げる足元を黒雷で割る。

助けを呼ぶ声も、帰りたいという願いも、奥へ奥へと押し込める。


灰環は、流れ着く。


黒冠は、戻さない。


その違いだった。


その黒冠で、ひとりの女が竜王を斬った。


王になりたかったわけではない。


迷宮を支配したかったわけでもない。


黒冠から力を授かったわけでも、黒冠に選ばれたわけでもない。


ただ、その女は長く黒冠を歩いていた。


危ない通路を知っていた。

黒雷が落ちやすい場所を知っていた。

扉が嘘をつく時の音を知っていた。

魔物が弱ったふりをする時の匂いを知っていた。

帰り道を焼かれた時に、人がどんな顔をするか知っていた。


そして何より。


自分の散歩道で、誰かが捨てられているのが嫌いだった。


逃げ道を塞ぐ奴が嫌いだった。


拾ったものを、横から奪われるのが嫌いだった。


売られた喧嘩を、棚に戻す趣味がなかった。


それだけで、鴉宮千景は大剣を振った。


そして、黒冠竜王を斬った。


その後、黒冠は彼女を王とは呼ばなかった。


跪かせない。

閉じ込めない。

焼かない。

道を開けてしまう。


王ではない。


けれど、ただの攻略者でもなくなった。


だから黒冠の者たちは、彼女をこう呼ぶ。


黒冠の姫。


千景はその呼び方を、今ではもう聞き流している。


---


黒冠大迷宮の深部は、静かだった。


ヴァルザークが倒れてから、黒雷の音は変わった。


以前の黒雷は、命令だった。


跪け。

戻るな。

焼かれろ。

閉じろ。


そういう圧が、雷の中に混じっていた。


今は違う。


黒雷はまだ危ない。


触れれば焦げる。魔力の流れを読み違えれば、腕が痺れて大剣を取り落とす。道を知らない者が踏み込めば、普通に死ぬ。


だが、命令ではなくなった。


ただの危険になった。


危険なら避ければいい。

予兆を読めばいい。

道を作ればいい。

仲間に教えればいい。


千景は、そういう場所なら歩ける。


危険自体は嫌いではない。


ただ、背後の扉を焼いてから「進め」と言う相手が嫌いなだけだ。


「姫」


呼んだのは、真柴リオ。


まだ少年だ。焦げ跡の残る地図帳を胸に抱えている。戦う力はない。けれど、通った道を記録し、荷物と補給を管理し、千景が作った逃げ道を次に誰かが使える道として残す。


黒冠で生き残るには、剣だけでは足りない。


帰り道を書き残す者がいる。


リオは、そういう役割を持つ少年だった。


千景は、膝の上の小太郎を撫でながら、影の水面を見ていた。


「リオ。地図、変わった?」


「はい。灰環方面に細い線が出ています」


「勝手に?」


「勝手にです」


「黒冠、相変わらず報告なしで動くね」


「姫もよく報告なしで動きます」


「私は事後報告するよ」


「事後じゃ意味ないです」


そこで、横から低い女の声が入った。


「そこは反省しな」


薬箱を抱えていた女が、呆れたように千景を見ている。


夜見セラ。


黒冠外縁で裏治療所を営む闇医者だ。黒冠の毒、呪い、瘴気、魔物由来の傷に詳しい。口は悪いが、死にそうな者を見捨てるほど器用ではない。


千景の無茶を止める役であり、千景の財布を一番信用していない女でもある。


千景は小太郎の頭を撫でた。


「小太郎、味方して」


茶色いトイプードルは、目を閉じたまま尻尾だけを一度動かした。


小太郎。


見た目はただの犬だが、千景とともに禁域級の黒冠竜王ヴァルザークとやり合った。理由を知る者は知っているし、知らない者は知らないままでいい。


本人はたぶん、昼寝の邪魔をされたくないだけだ。


セラが言った。


「寝たね」


「深い考えがあるんだよ」


黒い床に伏せていた大きな狼が、低く鼻を鳴らした。


ガルム。


黒雷狼。千景の少し後ろにいる。守っているのか、見張っているのか、それともただ背を預けているのか。


たぶん、全部だ。


「犬は寝ているだけだ」


「ガルムまで厳しい」


「事実だ」


少し離れた場所では、ノアが黒い欠片を耳に当てていた。


片目に黒冠の扉と同じ紋様を持つ、半異形の少女だ。黒冠の扉や道の声を拾うことができる。


ノアが、ぽつりと言った。


「姫、王座も、灰環を見てる」


千景の指が、小太郎の毛の上で止まった。


「王座まで?」


「うん、ただの覗き見じゃないと思う」


黒冠が冥門組本家に触れようとしたのは、これが初めてではない。


先に、国枝商会を通じて問い合わせは出していた。


普通の商談ではない。

縄張り確認でもない。

黒冠の奥に残る古い経路が、冥門組本家という名に引っかかった。


その時点では、まだ探りだった。


黒冠の影が、遠くの火種を見つけた程度。


それから、粗い映像も届いた。


暗い画面のように乱れた映像だった。


外向け看板。

飯の列。

黒い輪。

そして、冥門組親分の言葉。


ここを、誰も捨てられない場所にする。


音は乱れていた。

映像も途切れていた。


それでも、声だけは黒冠の奥へ届いた。


その時、黒冠の影は一度揺れた。


けれど、それでもまだ、探りだった。


黒冠が本当に身を乗り出したのは、その後だ。


灰環最深部で、守谷牧人の名と家主方針が仮登録された。


捨てられない場所の親父。


その長い名を、黒冠の奥が拾った。


だから、セイランを送った。


そして今。


王座までが、灰環を見ている。


セラが眉を寄せた。


「灰環って、例の迷宮かい」


リオが地図帳を開いた。焦げ跡の残る紙面の端に、黒い細線が一本、じわじわと浮かんでいる。黒冠深部から外へ伸びた線は、何度か震えたあと、灰環大迷宮の方角で止まった。


「はい。灰環大迷宮方面です」


「黒冠から逃げた残党の話で出てた場所だね」


「はい」


千景は小太郎を撫でながら思い出した。


魔物と人間が、同じ場所に出入りしているという噂。

流れ着いた者を、すぐには追い出さない本家。

災厄級ケルベロスが門前にいるとかいう、だいぶ意味の分からない組織。

中心に「親父」と呼ばれる人間がいる場所。


灰環大迷宮。


そして、今しがた黒冠深部が拾った名。


捨てられない場所の親父。


千景は、ゆっくり瞬きした。


「名前、長いな」


セラが言った。


「そこ?」


「だって、呼ぶ途中でお腹空きそう」


リオが困った顔をする。


「黒冠の深部には、その名で届いています」


「黒冠、聞いたまま残しちゃったんだ」


ノアが欠片を耳に押し当てたまま首を傾げる。


「嫌なら沈める。黒冠は、気に入らない名を奥へ落とすことがある。でも、その名は落としていない」


ガルムが、黒い床に伏せたまま顔を上げた。


「黒冠が、灰環を見ている」


「うん」


千景は、黒い円形広場の奥へ視線を向けた。


そこには、影でできた水面があった。


水ではない。けれど、映る。


黒冠深部に古くから残っていた観測面だ。ヴァルザークがいた頃は、黒雷と瘴気に濁って、まともに機能しなかった。


今は、王座が空き、眠っていたものが少しずつ息を吹き返している。


以前、冥門組本家が映った時は、もっと粗かった。


暗い部屋の画面を覗いているような、途切れ途切れの映像だった。音も乱れていた。それでも、外向け看板と飯の列と、黒い輪だけは見えた。


そして、守谷牧人の言葉だけは届いた。


ここを、誰も捨てられない場所にする。


あれを聞いた時、黒冠の影が揺れた。


今は違う。


影の水面は、前よりはっきり冥門組本家を映している。


門前の看板。

飯の列。

小型魔物。

ぷるぷるした何か。

梁の上の鳥っぽい少女。

鍋の前に立つ大柄な魔物。

受付小屋の老人。

板を持つ小さなもの。

右奥の戸を守る子。

水桶を抱えた女。

石の守護個体。

張られた蜘蛛の糸。

余計なことを言いかけて止められている青年。


セラが水面を見て、少しだけ眉を上げた。


「……本当に飯の列があるね」


千景は少し笑った。


「あるね」


「迷宮同士の古い経路が反応してる先で、飯の列?」


「変な場所だね」


「あんたがそれを言うのかい」


その中心に、男がいた。


飯の椀を持って、黒冠の使者に困った顔をしている。


千景は、その顔をじっと見た。


最初は、ただの知らない人間で終わるはずだった。


噂の親父。

捨てられない場所の親父。

妙に長い名前の人。


そう処理するはずだった。


けれど、影の水面の中で、その男が困ったように眉を寄せた瞬間。


胸の奥に、小さな棘が引っかかった。


痛いほどではない。


でも、無視できない。


「……変な顔」


セラが横を見る。


「どうした」


「今の顔、ちょっと知ってる気がする」


リオが身を乗り出した。


「知り合いですか?」


「分かんない」


千景は影の水面を見る。


男はまだ困っている。


黒冠の使者――セイランが、何かを説明している。


セイランは、ヴァルザークが倒れた後に黒冠の奥から出てきた連絡役だ。


千景の仲間というより、黒冠側の実務担当に近い。影の道、古い扉、外との接触。そういう面倒な話になると、静かな顔で前に出てくる。


少なくとも、初対面で影を伸ばして相手の首を締めるような真似はしない。


たぶん。


しないと思う。


していないと信じたい。


そのセイランが、飯の列に並ばされていた。


千景は、少し目を細めた。


「……並んでる」


セラが水面を覗き込む。


「セイランが?」


「うん。飯の列に」


リオは一瞬、記録するべきか迷った顔をした。


そして、そっと筆を下ろした。


「これは記録しない方が、黒冠のためかもしれません」


「賢い」


セラが頷いた。


千景は笑った。


「いい場所じゃん」


「今ので?」


「だって、使者にも飯出してる」


ガルムが低く唸る。


「敵か味方か分からぬ相手に、飯を与えるのか」


「黒冠じゃ珍しいよね」


「珍しいどころではない」


「でも、嫌いじゃない」


千景は影の水面を見たまま言った。


「飯を出す相手とは、とりあえず一回話してもいい」


セラが肩をすくめる。


「あんたの外交は胃袋に寄りすぎだね」


「飯は大事だよ」


小太郎が、膝の上で尻尾を一度振った。


千景は満足そうに頷く。


「ほら、小太郎もそう言ってる」


「それは眠いって言ってるだけだよ」


---


影の水面の中で、男が何かを言っている。


音ははっきり届かない。


けれど、口の動きと表情で、何となく分かる。


困っている。

面倒くさそうにしている。

飯を食べたいのに、話が増えた顔をしている。


けれど、使者を追い返してはいない。


千景は、その顔をじっと見た。


黒冠の冷たい影の底から、ずっと昔の記憶に似たものが、ほんの少しだけ浮きかける。


夕方。

小さな道。

誰かが何かを抱えて困っている。


そこまでだった。


名前は出ない。


場所も出ない。


声も聞こえない。


ただ、あの困った顔だけが、妙に引っかかる。


何かが来てしまった時の顔。


来たものを前にして、どうしよう、と本気で困る顔。


けれど、見なかったことにする選択肢だけは、最初からどこにもない顔。


「そういう顔するんだ」


千景は呟いた。


懐かしさと呼ぶには、まだ遠い。


けれど、ただの初対面として流すには、少しだけ近い。


変な感覚だった。


千景は、拾うことの重さを知っている。


自分がそうしてきたからだ。


拾うなら、守らなければならない。

守れないなら、最初から手を出さない冷たさも必要になる。

それでも手を離せないなら、邪魔するものを斬る覚悟がいる。


何でも拾えばいいわけではない。


助けを求めるふりをして、食らいつく魔物もいる。

弱いふりをして、罠へ誘うものもいる。

拾ってくれた相手の後ろにいる子を、餌にしようとするものもいる。


千景は、そういうものを斬ってきた。


だから、男の言葉は少し怖かった。


誰も捨てられない場所。


いい言葉だ。


けれど、綺麗な言葉ほど、黒冠ではよく折れる。


「じゃあ、今度は誰が残るの?」


その声は、誰にも向けていなかった。


ただ、影の水面に落ちた。


リオが息を呑む。


セラが黙る。


ノアが欠片を強く握る。


ガルムが、ゆっくり顔を上げた。


千景は笑っていた。


楽しそうではない。


怒っているわけでもない。


試すような冷たさが、少しだけ混じった笑みだった。


「全部は持てないよ」


千景は言う。


「飯にも限りがある。寝床にも限りがある。手にも限りがある。道だって、全部は開けない」


セラが静かに言った。


「あんたがそれを言うのかい」


「言うよ」


千景は水面の中の男を見る。


「私は、拾うものを選ぶ。選んだからには、前に進ませる。でも、私の後ろの子を餌にするなら斬る」


黒冠の影が、わずかに揺れた。


水面の中の男は、たぶん違う。


選んで拾うというより、来たものを追い返せない顔をしている。


それはそれで、危ない。


黒冠の影が、わずかに揺れた。


黒冠は甘い迷宮ではない。


ヴァルザークが倒れたあとも、それは変わらない。


道を間違えれば死ぬ。

判断を誤れば食われる。

拾うふりをしたものに近づけば、骨まで残らない。


だから千景は、男の「誰も捨てられない場所」という言葉を、そのまま綺麗なものとして受け取ることはできなかった。


けれど、笑えた。


「誰も捨てられない場所か」


千景は呟く。


「大きく出たね、親父さん」


水面の中で、男がまた困った顔をしている。


たぶん飯の話をしている。


あの顔は、飯を食べたいのに話が増えた時の顔だ。初めて見るはずなのに、妙に分かる。


千景は、ふっと笑った。


「変な人」


小太郎が、膝の上で顔を上げる。


「わふ」


「うん。たぶん、変な人」


それから、千景は少しだけ目を細めた。


「でも、嫌いじゃない」


黒冠の影が、足元で揺れた。


黒い王座紋が、薄く光る。


リオが顔を上げた。


「姫、王座が」


「うん」


千景は、影の水面から目を離さなかった。


「起きちゃったね」


ノアが欠片を耳に当てる。


「王座が、灰環を見たいって言ってる」


「黒冠王座が?」


「うん、姫が気にしたものが、向こうにあるから」


千景は黙った。


気にしたもの。


正式な名ではない。

黒冠の記録名でもない。

知り合いかどうかも、まだ分からない。


ただ、影の水面に映った男。


「困ったな」


千景は言った。


「本当に面白い人なら」


セラが腕を組む。


「なら?」


「会いに行かないと、失礼かなって」


ガルムが低く言った。


「灰環には、黒冠の残党も流れている」


「うん」


「行く理由はある」


「あるね」


影の水面のさらに奥で、別の影が動いた。


ひとつは、硬い鎧のような黒い影。


ガルドレイ。


黒冠の強硬派だ。黒冠が本家に近づくことを、誰よりも嫌っている。


もうひとつは、細い影だった。


ヨル。


名を持たず、番号だけで呼ばれていた黒冠の子だ。飯の列を見ても、まだ手を伸ばせないような影だった。


千景は、その二つを見た。


「……こっちも、簡単には行かないね」


セラが言った。


「行く前から面倒だね」


「黒冠だもん」


千景は小太郎を抱き上げた。


「じゃあ、準備しないとね」


「今すぐではないのですか」


「小太郎の散歩道、リオの地図、セラの薬、ノアの欠片、ガルムの傷」


千景はそこで、黒い床の端を見た。


毒の薄い場所を選んで、ちょこちょこと歩いている小さな魔物――毒毛フェネックがいる。


ミミク。


黒冠の毒と罠の匂いを読む、小さな道案内だ。宝箱に似た姿のくせに、宝より危ない場所の方へよく鼻を向ける。本人は偉そうにしているが、足は短い。


「それと、ミミクの鼻」


ミミクが、きゅっと胸を張った。


セラが言った。


「鼻なのかい」


「黒冠で道を選ぶ時、ミミクの鼻はけっこう当たるよ」


リオが真面目に頷いた。


「実際、何度も助かっています」


ミミクはさらに胸を張った。


千景は最後に付け足した。


「あと、私のお菓子」


セラが言った。


「最後、重要そうに言うな」


「重要だよ」


千景は真顔だった。


「お菓子を食べないと判断が雑になる」


「それは認める」


黒冠は、拾われなかったものを知っている。


そして、帰れなかったものも知っている。


竜王が閉じた道の外で、助けを待っていたもの。

道が開いた時には、もう手遅れだったもの。

誰かが前へ進んだあと、その場に残ったもの。


だから千景は、あの言葉を簡単には信じられなかった。


誰も捨てられない場所。


いい言葉だ。


でも、その言葉が本気なら、きっと向こうは答えなければならない。


帰る道の外に残ったものを、どうするのか。


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