親父、最深部で名前を書く
家主名を提示せよ。
最深部の声は、もう一度そう言った。
文字ではない。
黒い床の奥から湧いてくるような声だった。石板に浮かぶ冷たい記録とは違う。もっと古く、もっと低く、迷宮そのものの底に残っていたものが、ようやく口を開いたような音。
牧人は、深く息を吐いた。
「家主名って言われてもな」
声が、少し遅れて返る。
言われてもな。
黒い空間では、ぼやきまで律儀に響く。こういうところだけ几帳面なのは本当にやめてほしい。
クロが隣で牧人を見ている。
右は笑っていた。
中央は静かに見ていた。
左は遠くの灰色の線を見ていた。
三つとも、答えを待っている。
それが一番困る。
牧人は、自分の名前を差し出すのが得意ではない。
紙に書くなら、まだいい。字が少し曲がるくらいで済む。まめじいに見られると、帳面を閉じながら「味がございますな」と言われる。あれは褒めていない。やさしいだけだ。
だが、今求められているのは、紙の上の名前ではない。
最深部に、自分の名を出すことだ。
それが何に使われるのか、どこまで記録されるのか、牧人には分からない。だから困る。
だが、それより問題なのは、名前に何を背負わせるかだ。
ただの名前ならある。
守谷牧人。
それだけだ。
だが、この黒い最深部は、そんな軽い記名で済ませてくれる顔をしていなかった。顔はない。顔はないが、そういう気配がする。
「守谷牧人でいいだろ」
牧人は言った。
石板が沈黙する。
黒い床の奥も沈黙する。
クロの右が、小さく鼻を鳴らした。
「駄目そうだな」
「まだ何も言われてないだろ」
「空気で分かる」
「空気かよ」
すると、石板に文字が浮かんだ。
家主名、未形成。
個体名、守谷牧人。
方針名、確認。
牧人は眉を寄せた。
「未形成って何だ」
右が笑った。
「名前が弱いと言われているぞ」
「弱いってなんだ。普通だろ」
「普通では足りんらしい」
「最深部に名前の強さを判定されたくない」
中央が低く言った。
「ここは、個体名だけでは通らんのだろう」
「何でだ」
左が答える。
「帰還路は、誰か一人の所有物ではなかった」
「守るもの、帰るもの、待つもの」
「それらを結ぶ名が必要だった」
牧人は、さらに困った。
「ますます分からん」
分からない時は、考えるしかない。
ここで適当に大きいことを言うのは危ない。最深部は、言葉を記録する。しかも、その記録が現実に影響する。本家の前でそれはもう嫌というほど分かった。
本家の前で言った言葉が、封環層に受理された。
誰も捨てられない場所。
あれは、勢いだけではなかった。だが、あの時は本家のみんながいた。
ここにはいない。
いるのはクロだけだ。
本家の匂いも薄い。飯の包みは肩にあるが、鍋の湯気はない。ヒナの「やだ」も聞こえない。ニコの板もない。まめじいの帳面もない。
ただ、自分の言葉だけがある。
それが一番怖い。
牧人は、黒い石板を見た。
「方針名って、何だ」
石板が答えるように文字を浮かべる。
方針名、確認。
誰も捨てられない場所。
牧人は黙った。
その文字を見た瞬間、本家の門前が頭の奥に戻ってきた。
看板。
飯の列。
ベロの鍋。
ネムと右奥の寝床。
ぷるの小さな揺れ。
ヒナの笑い声。
ザガの低い声。
ナナの短い「だめ」。
イトの糸。
イシコの石。
ミズハの水。
まめじいの帳面。
ニコの板。
豪志の踊り……。
そして、自分が言った言葉。
ここを、誰も捨てられない場所にする。
あの時、牧人は初めて、自分で方針を言った。
誰かに押されてではない。
流れで仕方なくでもない。
怒りだけでもない。
自分の家の前で、自分の口で言った。
その言葉が、ここまで来ていた。
「……あれ、ここにも届いてるのか」
石板は答えない。
代わりに、灰色の帰還路が奥で少しだけ光った。
届いている。
そう言われた気がした。
牧人は、喉の奥を押さえるように息を吐いた。
「厄介だな」
右が言った。
「お前の言葉は、だいたい厄介になる」
「うるさい」
「だが、効いている」
「もっと嫌だ」
「諦めろ、親父」
右は笑った。
中央は黙っている。
左は、静かに言った。
「言葉を戻すな」
「ここは、それを聞いている」
牧人は左を見た。
「戻すなって、取り消すなってことか」
「そうだ。一度届いたものを、なかったことにはできない」
それは、分かる気がした。
言葉は便利だ。
だが、口にした後から自分を追いかけてくる。言った時は小さかったはずの言葉が、他人の中で育って、自分より先へ行くことがある。
本家がそうだった。
飯を出しただけ。
寝床を作っただけ。
名前を呼んだだけ。
追い出さなかっただけ。
ただそれだけのことが、魔物社会では帰属先になり、人間社会では中立地帯みたいに扱われ、最深部では家主権限になっている。
おかしい。
だが、おかしいと言っても止まらない。
止まらないなら、せめて向きを間違えないようにするしかない。
牧人は、黒い道の奥を見た。
灰色の帰還路は、まだ細い。
眠っているような線だ。
クロはその道を守っていた。
そして、帰る場所を奪われた。
なら。
牧人は口を開いた。
「ここも、捨て場所にはしない」
黒い空間が、止まった。
音が遅れて返らない。
クロの三つの首が、牧人を見た。
牧人は続けた。
「帰る道を潰して、帰れないやつを災厄扱いして」
「それで片づける場所にはしない」
「帰れるなら、帰れるようにする」
「眠ってる道なら、起こす」
「使えなくなってるなら、直す」
「直せるかどうかは、分からん」
そこは正直に言った。
できるかどうかは分からない。
牧人は職人ではない。古い管理機構も分からない。帰還路の再接続などと言われても、何をどうすればいいのか見当もつかない。板と石と鍋でどうにかなる話ではなさそうだ。
だが、方針は決められる。
「でも、捨て場所にはしない」
もう一度、言った。
今度は、少しだけ声が低かった。
「本家と同じだ」
「飯を出せるなら出す」
「寝床がいるなら探す」
「名前がいるなら呼ぶ」
「帰る道がいるなら、探す」
牧人は石板を見た。
「それだけだ」
黒い床の奥で、ごん、と音が鳴った。
本家の前で封環層が返した音に似ていた。
だが、もっと深い。
最深部の奥で、古い何かが牧人の言葉を測っている。そんな音だった。
石板に文字が浮かぶ。
方針名、再確認。
誰も捨てられない場所。
適用範囲、拡張。
最深部、仮接続。
牧人は固まった。
「待て」
「今、適用範囲が広がらなかったか」
右が楽しそうに言った。
「広がったな」
「広げるな」
「お前が広げた」
「俺は捨て場所にしないって言っただけだ」
「それを広げると言う」
牧人は頭を抱えた。
言葉は怖い。
本当に怖い。
まめじいがここにいたら、たぶん帳面をすごい勢いで書いている。澄玲がいたら、頭を抱えている。ザガがいたら「親分、またやったな」と言う。ヒナは「やだ、親父が最深部まで家にしようとしてる!」と笑う。
大体、想像できる。
だから余計に頭が痛い。
石板は止まらない。
家主名、仮登録準備。
個体名、守谷牧人。
方針名、誰も捨てられない場所。
呼称統合中。
牧人は嫌な予感がした。
「呼称統合って何だ」
石板に文字が浮かぶ。
捨てられない場所の親父。
牧人はしばらく黙った。
黒い空間も黙った。
クロも黙った。
その沈黙の中で、牧人は石板を指さした。
「名前じゃないだろ」
右が、こらえきれずに笑った。
「似合ってるぞ」
「似合ってない」
「いや、かなり似合っている」
「やめろ」
右はさらに喉の奥で笑った。
「捨てられない場所の親父。長いな。だが、いい」
「よくない」
「本家の看板に書くか」
「書くな」
「ニコなら書くぞ」
「想像させるな」
中央が、低く言った。
「本家では、すでにそう呼ばれている」
「呼ばれてない」
右が言う。
「親父とは呼ばれている」
「その前の長い部分が問題だ」
左が静かに言った。
「名は、他者が呼び、場が認めて形になる」
「お前だけが否定しても、弱い」
牧人は左を見た。
「弱いとか言うな」
「事実だ」
「俺の名前が、俺以外の都合で伸びていくのは困る」
右が楽しそうに牙を見せる。
「捨てられない場所の親父」
「呼ぶな」
「捨て親父」
「それは絶対に違う」
「なら、長い方がいい」
「よくない」
中央が、ほんの少しだけ目を閉じた。
笑っているようにも見えた。
牧人は石板を睨んだ。
「守谷牧人で登録しろ」
石板は答える。
個体名、守谷牧人。
家主名、未満。
方針名、必須。
「必須にするな」
方針名、必須。
「融通が利かないな」
右が言った。
「石だからな」
「石でもイシコはもう少し話が通じる」
「イシコは本家の者だ」
「それはそうだけど」
妙に納得してしまった。
牧人は深く息を吐いた。
結局、ここでも同じだ。
名だけでは足りない。
本家で牧人がただの守谷牧人ではなく、親父と呼ばれているように。クロが古い名だけではなく、今のクロとして呼ばれる必要があるように。
ここでは、牧人の個人名と、方針が結びつく。
それが家主名というものらしい。
面倒だ。
とても面倒だ。
だが、ここで拒んだら、帰還路は動かない。
クロの過去も、杭も、帰る道も、ここで止まる。
牧人は嫌そうな顔のまま、石板を見た。
「仮だぞ」
石板が沈黙する。
牧人は、念を押した。
「仮だ」
「正式じゃない」
「あとでまめじいと澄玲に確認する」
「本家のみんなにも確認する」
「俺ひとりで勝手に全部決めたことにはしない」
右が呆れたように言う。
「最深部相手に、持ち帰り確認か」
「大事だろ」
「いや、お前らしい」
中央が低く言った。
「それでいい」
牧人は中央を見た。
「いいのか」
「家は、一匹で決めるものではない」
その言葉に、牧人は少しだけ黙った。
クロが言うと、重かった。
帰る道を守っていたものが、そう言う。
牧人は小さく頷いた。
「じゃあ、仮で登録しろ」
石板の文字が揺れた。
黒い床の奥の声が、低く響く。
家主名、仮登録。
石板に文字が浮かぶ。
個体名、守谷牧人。
方針名、誰も捨てられない場所。
家主名、捨てられない場所の親父。
仮登録。
牧人は顔をしかめた。
「本当にそのまま登録したな」
右が笑う。
「おめでとう、捨てられない場所の親父」
「祝うな」
「肉で祝うか」
「戻ったらな」
「多めで」
「分かったから黙れ」
その瞬間、灰色の帰還路が一段明るくなった。
細い線が、黒い床の奥で分かれていく。一本ではない。二本、三本、かすかな線が眠りから起きるように光る。
遠くで、何かが開く音がした。
ごん。
ごん。
ごん。
三つ。
石板に、新しい文字が浮かぶ。
帰還路、仮再接続。
守護牙、現名クロ、接続補助。
家主名、仮登録により、道標発生。
牧人は息を呑んだ。
黒い床の奥に、小さな白い点が浮いた。
それは看板に似ていた。
文字はまだ読めない。
けれど、牧人にはなぜか分かった。
道標だ。
誰かが帰るための、最初の印。
「これで、帰れるのか」
牧人が聞く。
左が答えた。
「まだ、すべてではない」
「だが、道が目を覚ました」
中央が低く言った。
「二本の杭では、ここまでだろう」
右が鼻を鳴らす。
「残り四本、面倒だな」
牧人は頷いた。
「まあ、一気には無理だろ」
一歩ずつだ。
飯も、寝床も、看板も、列も、そうだった。
帰還路も、たぶん同じだ。
一つずつ起こすしかない。
その時、最深部の奥とは別の方向から、黒い線が一本走った。
灰色の帰還路の光ではない。
もっと鋭く、もっと冷たい黒。
石板の端に、別系統の文字が浮かんだ。
黒冠、接続要求。
牧人は目を細めた。
「黒冠?」
以前、国枝が口にしていた名だ。
隣の隣町のS級迷宮。
今は後だ、とニコの板に書かれた案件。
後にしたはずのものが、ここで来た。
右が低く笑った。
「忙しいな、親父」
「笑うな」
中央が黒い線を見た。
「別の迷宮からだ」
左が静かに言った。
「帰還路が起きた」
「眠っていた道は、繋がっていた道でもある」
「向こうにも、届いた」
石板に、また文字が浮かぶ。
黒冠、接続要求。
冥門組本家、家主名検出。
応答待機。
牧人は、ゆっくり弁当の包みを握り直した。
「……これ、今すぐ返事しないと駄目なやつか」
右が言った。
「噛むか」
「噛むな」
「向こうが先に来るかもしれんぞ」
「なおさら噛むな」
牧人は黒い線を見た。
黒冠。
最深部。
帰還路。
クロの杭。
家主名。
そして、別のS級迷宮からの接続要求。
話が増えた。
増えすぎだ。
牧人は深く息を吐いた。
「まずは、飯を食ってから考えたい」
右が満足そうに頷いた。
「それは正しい」
黒い石板は、黙っていた。
けれど、黒冠から伸びる細い線だけが、静かに返事を待っていた。




