封じ杭は、殺すための杭ではなかった
黒い道は、歩くたびに少し沈んだ。
沈む、と言っても足を取られるわけではない。床は硬い。だが、踏んだ音が遅れて返ってくるたびに、足元の黒さが一呼吸だけ深くなる。
こつ。
……こつ。
牧人は、弁当の包みを肩にかけ直した。
腹はまだ少しだけ温かい。干し肉と芋と大根。最深部に来て最初に得たものが情報ではなく飯の温かさなのは、たぶん正しい。飯が残っていると、人はまだ帰るつもりでいられる。
帰るつもりがあるかどうか。
今は、それがかなり大事だった。
隣を歩くクロの肩には、細い亀裂が残っている。
六本ある封じ杭の痕。そのうち一本の端が、さっき牧人が「クロ」と呼んだことで割れた。治ったわけではない。杭が抜けたわけでもない。けれど、クロは「軽くなった」と言った。
それだけで、牧人は前へ進めた。
完全解決ではない。
でも、完全に詰んでもいない。
人生はその間でだいたい続く。
「なあ、クロ」
「何だ」
「さっきの道、嫌な感じだな」
「今さらだ」
右が答えた。
中央は黙って前を見ている。左は、奥の灰色の線を見たまま、時々目を細める。
牧人は、その三つの首を順に見た。
「お前、ここを知ってるんだよな」
中央が少し沈黙した。
「覚えはある」
左が続ける。
「形は変わっている」
「だが、名を扱う場所だった」
右が低く唸った。
「気に入らん場所だったことだけは確かだ」
「それは今も分かる」
牧人は黒い床を見た。
道のようで、道ではない。
誰かを歩かせるために作られたものというより、何かを運び、何かを切り分け、何かを奥へ沈めるための溝に見えた。人が通る場所としての優しさがない。
本家の廊下とは真逆だ。
本家の廊下は、汚いし、狭い。だが、誰かが歩くためにある。
右奥へ寝に行くため。鍋へ飯をもらいに行くため。門から戻ってくるため。
ここは違う。
ここは、戻るための道ではない。
戻さないための道だ。
牧人がそう思った時、前方に黒い石板が現れた。
入口で見た石板よりも大きい。
いや、同じ石板が大きくなったのかもしれない。距離感が分からない。黒い空間では、近いものと遠いものの区別が曖昧になる。嫌な作りだ。
石板の表面に、影の文字が浮かぶ。
旧名封鎖、第一確認。
対象、グラウヴィス。
封じ杭、六。
牧人は眉を寄せた。
「また杭か」
右が牙を見せた。
「もう噛んでいいか」
「噛むな」
「硬いものを噛むと、腹が落ち着く」
「石なんか食ったら、腹壊すぞ」
右は少し考えた。
「……今は噛まん」
「それでいい」
牧人は少しだけ安心した。
石板に文字が続く。
封じ杭、討伐杭に非ず。
肉体殺傷、主目的に非ず。
名分離、役目切断、帰属遮断を目的とする。
牧人は、一度で意味を飲み込めなかった。
読める。
読めるが、分かりたくない文だった。
「討伐杭じゃない?」
牧人はクロを見た。
「殺すための杭じゃなかったのか」
クロの中央は答えない。
右が低く言った。
「刺さった時点で、殺す気はあっただろ」
左が静かに言った。
「肉を殺す杭ではなかった」
「名を殺す杭だった」
その言葉は、黒い空間に重く落ちた。
名を殺す杭。
牧人は喉の奥が少し詰まった。
肉体を殺すよりましだ、とは思えなかった。
飯を食い、寝床で眠り、名前を呼ばれて振り向く。それがあるから、生きていると言える。名前を切られるというのは、そこから外されることだ。
死んでいないだけで、戻れない。
それは、かなり悪い。
「名を分けるって、どういうことだ」
牧人が聞く。
左が、遠くを見たまま答えた。
「グラウヴィスは、ただの呼び名ではなかった。帰還路を守る役目ごと、名に刻まれていた」
牧人は眉を寄せた。
「名前に、役目が入ってたってことか」
「そうだ。封じ杭は、その名を体から引き剥がした。牙は残った。力も残った。だが、何を守る牙だったのかを切られた」
左の声が、少しだけ沈む。
「そして、帰る場所も消された。記録の上では、グラウヴィスはどこにも属さぬ災厄になった」
牧人は黙った。
石板が、さらに文字を浮かべる。
旧役目、帰還路守護。
門獣記録、後付。
単独災厄指定、封鎖後記録。
牧人は、今度こそ立ち止まった。
クロも止まる。
右が唸る。
中央の首が、わずかに低くなった。
左は目を閉じた。
「帰還路守護」
牧人は、ゆっくりその文字を読んだ。
「門獣じゃなかったのか」
答えたのは、石板ではなかった。
左だった。
「違う、門の前にいて、入る者を殺す番犬ではない」
左は、遠くの灰色の線を見た。
「迷宮の中で迷った者が、帰れるようにする。その帰還路を守る守護獣だった」
その声は、遠かった。
昔を語っているというより、忘れてはいけないものを、長い間ひとりで持っていた声だった。
牧人は、隣のクロを見た。
三つ首の黒いケルベロス。
災厄級。
深層の黒い三首。
近づくと死ぬから避けられる存在。
区域ボスですら正面から喧嘩を売らない格。
それが、本当は帰還路を守っていた。
誰かが帰る道を守っていた。
「……帰る道を守ってたのか」
牧人は言った。
クロは答えない。
右も黙る。
中央も。
左も。
黒い空間だけが、遅れて牧人の声を返した。
守ってたのか。
その声が戻ってきた時、クロの肩の亀裂が、ほんの少しだけ光った。
石板の文字が続く。
旧管理機構判断。
帰還路、不要。
守護牙、不要。
帰属先、切断。
単独災厄として再記録。
牧人は、じっとその文字を見た。
何が起きたのか、全部は分からない。
旧管理機構。帰還路。守護牙。再記録。言葉は並んでいるが、その奥の痛みまでは読み切れない。
ただ、一つだけ分かる。
帰る道を守っていたものを、不要だと決めた。
それだけで、かなり腹が立った。
「帰還路が不要って、誰が決めたんだ」
牧人の声は低かった。
石板は答えない。
代わりに、同じような冷たい文字だけを浮かべる。
管理効率、優先。
迷宮流入、優先。
帰還個体、不確定要素。
守護牙、制御不能。
牧人は目を細めた。
「つまり、帰られると困るから、帰る道ごと潰したのか」
中央が、低く息を吐いた。
右が牙を剥く。
「そういうことだ」
声は荒くなかった。
だから余計に重かった。
牧人は、拳を握った。
怒鳴りたい。
石板を蹴りたい。
右に噛ませたい。
できることは、いくつか思いつく。だが、それをやっても今ここでクロの杭が抜けるわけではない。石板を壊しても、記録が消えるだけかもしれない。記録が消えたら、クロの昔も一緒に消えるかもしれない。
それは駄目だ。
消すのではない。
取り戻す。
今は、そちらを選ばないといけない。
牧人は息を吸った。
「じゃあ、悪いやつじゃないだろ」
クロの右が、ぴくりと動いた。
中央が牧人を見る。
左も目を開ける。
牧人は石板を見たまま言った。
「帰る道を守ってたんだろ」
「誰かが帰れるようにしてたんだろ」
「なら、悪いやつじゃない」
言ってから、少し雑だったかと思った。
世の中はそんなに簡単ではない。帰還路を守るために、何かを噛んだことはあるだろう。侵入者を殺したこともあるはずだ。クロが何も悪いことをしていない、などと軽々しく言えるほど、牧人はクロの昔を知らない。
だが、目の前の石板が「単独災厄」とだけ決めつけるなら、逆側から言ってやる必要がある。
悪いやつじゃない。
少なくとも、帰る道を守るものを、悪いだけのものとして捨てる気にはなれない。
クロは答えなかった。
右が、少し遅れて言った。
「今さらだ」
その声には、怒りも諦めも混ざっていた。
「昔の話だ」
「もう帰還路はない」
「役目も切られた」
「グラウヴィスは災厄として残った」
「今さら、何が変わる」
牧人は右を見た。
そして、すぐに答えた。
「今からでもいいだろ」
右が黙った。
中央も、左も、何も言わない。
牧人は続けた。
「帰る道がなくなったなら、作ればいい」
「役目を切られたなら、今の役目を作ればいい」
「昔の名前が災厄にされたなら、今の名前で呼べばいい」
自分で言いながら、かなり無茶を言っている自覚はあった。
帰還路を作る。
そんな大きなことを、牧人は本気で分かっているわけではない。道を作るといっても、板を置いて、石を並べて、糸を張るくらいしか知らない。最深部の黒い空間に、普通の道具が通じるとも思えない。
だが、本家はそうやってできた。
飯を出す。
寝床を作る。
名前を呼ぶ。
追い出さない。
戻ってくる場所を空けておく。
最初から大きな仕組みを作ろうとしたわけではない。
一つずつ、置いただけだ。
「お前、今はクロだろ」
牧人は言った。
「本家に帰るだろ」
「飯、食うだろ」
「門の横で寝るだろ」
「右は肉で文句言うだろ」
「左はたまに難しいこと言うだろ」
「中央は、だいたい黙ってるだろ」
右が低く言った。
「肉の文句は正当だ」
「そこは今どうでもいい」
「どうでもよくない」
「まったく……」
中央が、ほんの少しだけ目を閉じた。
左が、静かに息を吐いた。
牧人は続けた。
「それでいいんだよ」
「昔の役目があっても、今の居場所が消えるわけじゃない」
「今からでもいいだろ」
「帰る道を守ってたなら、今度は自分も帰ればいい」
その瞬間、クロの脇腹の奥で、薄い光が走った。
ぴしり、と一段低い音がした。
先ほどとは違う位置だった。
六本の杭痕のうち、二本目。
脇腹の深いところに残っていた黒い線の端が、細く割れた。
完全に抜けたわけではない。
杭は残っている。
熱もある。
だが、硬く閉じていた封じ目が、また一つだけ呼吸した。
クロの右が息を詰める。
中央の喉が低く震える。
左は目を開いたまま、じっと牧人を見ていた。
「また、割れた」
牧人は呟いた。
クロの中央が、ゆっくりと答える。
「軽くなった」
その声は、さっきよりほんの少しだけ大きかった。
重さが一つ減った声だった。
牧人は、息を吐いた。
よかった。
そう言いかけて、飲み込む。
まだ早い。
六本のうち、二本の端が割れただけだ。傷は残っている。名もまだ完全には通っていない。帰還路も見つかっていない。状況だけ見れば、まだ黒い最深部の奥で、石板相手に揉めているだけである。
だが、それでも。
二つ目だ。
牧人はクロを見た。
「痛みは」
中央は短く答えた。
「減った」
右が低く言う。
「腹は減った」
「お前は黙れ」
「事実だ」
「戻ったら肉を食え」
「多めだ」
「ベロに言え」
右は少し満足そうに鼻を鳴らした。
笑いに逃げられるくらいには、空気が戻った。
それがありがたかった。
石板に、新しい文字が浮かぶ。
旧記録、変動。
封鎖杭、二、亀裂。
現名、クロ、干渉継続。
帰還路記録、反応。
牧人は、その最後の行を見た。
「帰還路記録、反応」
左が低く言った。
「まだ消えていなかったか」
その声は、驚きに近かった。
牧人は左を見る。
「帰還路、残ってるのか」
左はすぐには答えなかった。
遠くの灰色の線を見つめている。
その線が、今までより少し太くなっていた。傷のような道の奥に、さらに細い別の線が見える。薄い。今にも消えそうだ。けれど、確かにある。
「残っているというより、忘れられていた」
左が言った。
「誰も呼ばなかった」
「誰も帰らなかった」
「だから、眠っていた」
牧人は、少しだけ喉の奥が熱くなった。
帰る道が、眠っていた。
それは、完全に壊れているよりも、少しだけましだった。
「じゃあ、起こせばいいのか」
右が言った。
「簡単に言うな」
「簡単じゃないのは分かってる」
「本当に分かっているのか」
「たぶん、あんまり分かってない」
「だろうな」
「でも、起こせる可能性があるなら、やるだろ」
右は黙った。
中央が低く言った。
「親父」
「何だ」
「また面倒なことを言っている」
「知ってる」
「知っていて言うのか」
「帰る道の話だからな」
牧人は、黒い石板を見た。
「帰る道は、あった方がいい」
それは、牧人にとってかなり単純な話だった。
帰れるかどうか。
それだけで、怖さは少し変わる。
帰る場所があれば、人も魔物も、少しだけましになる。飯を食って、寝て、また考えられる。逃げたやつも、迷ったやつも、捨てられたやつも、帰れるならまだ終わりではない。
だから、帰還路は要る。
難しい理屈は、あとでまめじいと澄玲が困ればいい。
たぶん困る。
すごく困る。
すまん、とは思う。
だが今は、目の前のクロの方が先だった。
石板が震えた。
その振動は、さっきまでの文字だけの反応とは違った。黒い床の奥から、もっと低い音が上がってくる。
文字よりも前に、ここには声があったのかもしれない。
ごん。
旧帳場の石の音に似ていた。
だが、もっと深い。
迷宮の底で、古い扉が一枚だけ目を覚ましたような音だった。
石板に、文字が浮かぶ。
帰還路、再接続条件。
家内呼称、未満。
現名干渉、継続。
家主権限、仮発生中。
牧人は眉を寄せた。
「また家主か」
右が言った。
「お前、もう諦めろ」
「嫌だ」
「無駄だ」
「分かってるけど嫌だ」
左が、遠くを見た。
「来る」
「何が」
左が答えるより早く、最深部の奥から声がした。
石板の文字ではない。
音だった。
低く、古く、黒い床の下から湧いてくるような声。
帰還路の再接続には、家主名が必要。
牧人は、固まった。
声は続く。
家主名を、提示せよ。
黒い空間が、静かに牧人を見ていた。
クロの三つの首も、同時に牧人を見る。
右が低く言った。
「呼ばれているぞ、家主」
牧人は、深く息を吐いた。
「だから、その家主ってやつをやめろ」
しかし、最深部はやめる気がなさそうだった。
黒い道の奥で、灰色の帰還路が、細く、細く光っていた。




