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クロはクロだと、親父が言った


石板は、クロという名を認めなかった。


黒い床の上に浮かぶ文字は、冷たく、動かない。


旧名、封鎖杭、六。

現名、未承認。

現名承認、旧名封鎖確認を要す。


牧人は、その文字を見上げたまま、弁当の包みを肩にかけ直した。


腹は少しだけ膨れている。


それだけで、だいぶ違う。


空腹のままなら、たぶんもっと腹が立っていた。腹が立つと、考える順番を間違える。怒鳴る。噛む。いや、噛むのはクロだ。牧人は噛まない。


たぶん。


「現名、未承認って言われてもな」


牧人は黒い石板を見た。


「うちでは通ってるんだよ」


声が遅れて返る。


通ってるんだよ。


黒い空間に、自分の言葉だけが薄く残った。


返事はない。


最深部の石板は、受付小屋のニコの板と違って、気が利かない。ニコなら、たぶん今ごろ、


石板、融通きかない


くらいは出している。


牧人は少しだけ、あの簡単な板が恋しくなった。


クロは隣にいる。


中央は黙っている。

右は石板を睨んでいる。

左は、遠くの灰色の線を見たまま沈んでいる。


三つとも、普段とは違っていた。


いや、右だけは少し普段通りだ。肉を食った分、怒る元気もあるらしい。それがいいことなのか悪いことなのかは、まだ分からない。


石板に、新しい文字が浮かんだ。


グラウヴィスの旧名を開示せよ。

役目を確認せよ。

封鎖杭の残存を認めよ。


牧人は、眉を寄せた。


「また旧名か」


クロの右が低く唸った。


「しつこい」


中央は黙っている。


左だけが、かすかに息を吐いた。


「古いものほど、名を捨てない」


その声には、怒りよりも疲れがあった。


牧人は左を見る。


「左は、知ってるんだな」


「知っている」

「消えてはいない」

「だから、厄介だ」


短い言葉だった。


だが、黒い空間ではそれだけで十分重い。


消えてはいない。


その言葉だけで、牧人は余計なことを聞くのをやめた。


今ここで、クロの昔を掘り返せば、何か情報は出るのかもしれない。だが、情報を取るために相手の傷を開くのは違う。少なくとも、まだその段階ではない。


できることと、やっていいことは違う。


牧人は、それをよく知っている。


「役目を確認せよ、か」


牧人は石板を読んだ。


「クロ、お前の昔の役目ってやつ、言いたいか」


中央は答えなかった。


右が先に牙を見せた。


「言う必要はない」


「だろうな」


「聞くな」


「聞かない」


右が、少しだけ目を細めた。


噛む寸前の顔ではない。


本当に少しだけ、意外そうな顔だった。


牧人は頭を掻く。


「いや、ここで無理に聞いたら、たぶん駄目だろ」


「なぜだ」


「お前が言いたくなさそうだから」


「それだけか」


「それだけで十分だろ」


右は黙った。


中央も黙っている。


左だけが、ゆっくり牧人を見た。


「それだけで、旧名を拒むのか」


「旧名を拒んでるわけじゃない」


牧人は言った。


「昔の名前があるのは分かった」

「役目があったのも、たぶん分かった」

「杭が残ってるのも見えた」


声は大きくなかった。


だが、この黒い空間では、それだけで遠くまで届く。


「でも、今うちにいるのはクロだろ」


その言葉に、石板の文字が一瞬だけ薄くなった。


クロの三つの首が、同時に牧人を見る。


右は目を見開き、中央は静かに、左は深いところから顔を上げるように。


牧人は少し困った。


そんなに見られても困る。


大したことは言っていない。


本家で呼んでいる名前を言っただけだ。飯を食う時に呼ぶ名。門の横で寝ている時に呼ぶ名。怪我をした時に呼ぶ名。戻ってこいと言う時に呼ぶ名。


それを言っただけだ。


だが、石板はそう受け取らなかった。


影の文字が組み替わる。


現名、クロ。

登録系統外。

旧名優先。


牧人は顔をしかめた。


「優先するな」


返事はない。


「古い方を先にするなって言ってるんだ」


石板はまた文字を出す。


グラウヴィス、旧役目保有。

封鎖杭、六。

現名、クロ、未承認。


クロの杭痕が薄く熱を持った。


今度は、牧人にも分かった。


首筋のあたりから、黒い毛の奥に細い火が走る。肩、脇腹、前脚の付け根、背の奥。見えていない胸の方まで、何かが連なる。


クロの右が低く唸った。


「まただ」


中央の喉も震える。


左は目を閉じた。


牧人は反射的に一歩前へ出ていた。


「やめろ」


石板は止まらない。


旧名開示を要す。

役目確認を要す。

封鎖杭残存を認めよ。


「やめろって言ってる」


牧人の声が少し低くなった。


自分でも、思ったより怒っているのが分かった。


だが怒鳴ってはいけない。


怒鳴れば、たぶんこの石板はまた別の反応をする。古い仕組みは、強い言葉に強い意味を勝手につける。本家の前で、牧人はそれを学んだばかりだ。


言葉は選ぶ。


ここで必要なのは、威勢ではない。


クロを、昔の役目に戻させないことだ。


牧人は息を吸った。


「聞け」


石板は無言だ。


「旧名を全部消せとは言ってない」

「昔の役目をなかったことにしろとも言ってない」

「杭が残ってるのも、俺は見た」


牧人はクロの前に立った。


クロほど大きくもない。強くもない。石板から見れば、ただの人間だろう。


だが、クロの杭痕が熱を持つたびに、後ろへ下がる気にはなれなかった。


「でも、今その名を呼んだら、こいつが痛む」

「痛む名前を、先に出せとは言えない」


右が、低く言った。


「痛くはない」


牧人は振り返らない。


「思い出すんだろ」


右は黙った。


「それなら、同じだ」


黒い床のどこかで、こつ、と遅れた音が返った。


同じだ。


石板の文字が乱れる。


現主、旧名提出を拒否。

理由、不明。


牧人は眉を寄せた。


「理由は言っただろ」


石板は淡々と返す。


理由、不明。

旧名、役目、封鎖杭、優先。


「だから、優先するな」


牧人はため息を吐いた。


これが人間相手なら、まだ説明のしようがある。いや、人間相手でも説明が通らないことはある。特に、決まりだからと言い張る相手は厄介だ。


決まりは大事だ。


飯の列も、武器置き場も、受付も、決まりがあるから本家は回っている。だが、決まりは人や魔物を捨てるためにあるわけではない。


少なくとも、牧人はそう使いたい。


「じゃあ、うちで呼ぶ」


牧人は言った。


クロの中央が、わずかに動く。


右も。

左も。


石板の文字が止まった。


牧人は続けた。


「そっちが認めないなら、うちで呼ぶ」

「俺が呼んだら来る」

「それで十分だろ」


石板は沈黙した。


黒い空間の音が、少しだけ遅れて消えていく。


牧人の言葉が、遅れて返らない。


その沈黙は、さっきまでとは違っていた。


ただ無視しているのではない。


何かを処理している。


そんな気配だった。


クロの中央が、低く言った。


「親父」


「何だ」


「それは、ただの呼び名では済まん」


「そうなのか」


「ここではな」


「でも、本家では済んでる」


牧人は振り返った。


「お前、呼んだら来るだろ」


右が言った。


「肉の時はな」


「それでも来るだろ」


「肉なら行く」


「なら十分だ」


中央が少しだけ目を伏せた。


左が、かすかに笑ったように見えた。


いや、笑ったのかは分からない。クロの左は、いつも表情が深すぎて読みづらい。けれど、さっきまで沈んでいた目が、ほんの少しだけ動いた。


それだけで、牧人には十分だった。


石板に、新しい文字が浮かぶ。


現名、クロ。

家内呼称。

正式名、不成立。


牧人は目を細めた。


「家内呼称?」


妙な言葉だった。


家の中だけで呼ぶ名。


つまり、外では通さないということだ。


牧人は少し考えた。


ここで、無理に正式名にしろと言い張る方法もある。石板を蹴る、石板を倒す、右に噛ませる。右は喜ぶ。たぶん石板は硬い。歯が欠けたら困る。


強引に壊すのは、今じゃない。


ここで本当に必要なのは、石板を倒すことではない。


クロの名が、完全に拒絶されていないと確認することだ。


家内呼称。


少なくとも、記録された。


「家の中の呼び名か」


牧人は言った。


「なら、まずはそれでいい」


クロの右が言った。


「いいのか」


「外で通すのは、後でやる」


「後で」


「今は、うちで通ってるって記録された。それだけでも前進だ」


牧人は石板を見る。


「なあ、クロ」


中央が答える。


「何だ」


「呼んだら来るよな」


「行く」


右が言った。


「肉があれば、早い」


「肉なしでも来い」


「状況による」


「来い」


右は鼻を鳴らした。


左が静かに言った。


「呼ばれれば、届く」


牧人は頷いた。


「なら、それでいい」


その瞬間だった。


クロの肩の杭痕が、薄く光った。


さっきまでの熱とは違う。


燃えるような痛みではない。黒い毛の奥で、古い金属の線が、ほんの少しだけ軋む。


ぴしり。


小さな音がした。


遅れて、黒い空間がその音を返す。


ぴしり。


クロの右が、牙を剥いた。


「何だ」


中央が息を止める。


左が目を開いた。


牧人は、クロの肩を見た。


六本あるうちの一本。


肩に近い、首筋から背へ向かう痕の端が、細く割れていた。


完全に消えたわけではない。


熱も残っている。黒い線も残っている。杭そのものが抜けたわけではない。けれど、今まで一本の硬い痕として残っていたものに、細い亀裂が入っていた。


まるで、古い封印が少しだけ呼吸したみたいに。


「割れた」


牧人は呟いた。


右が唸る。


「壊したのか」


「俺が?」


「お前以外に誰がいる」


「俺は名前を呼んだだけだぞ」


「だからだろう」


中央が、低く言った。


牧人は中央を見た。


クロの中央は、肩の痕を見ている。


その目は驚いていた。


災厄級が驚くと、周囲の黒い空気まで少し重くなる。できれば慣れたくない光景だった。


「痛むか」


牧人が聞く。


中央はしばらく黙った。


それから、短く答えた。


「軽い」


「軽い痛みか」


「違う」

「軽くなった」


牧人は一瞬、言葉を失った。


クロの右も黙った。


左が、ゆっくり息を吐いた。


「一本目の端だ」

「抜けてはいない」

「だが、封じ目が割れた」


牧人は、少しだけ息を吐いた。


よかった、と言っていいのか分からない。


完全に治ったわけではない。杭は六本残っている。一本が割れただけ。しかも端だ。これで喜びすぎるのは危ない。


けれど、悪くなったわけでもない。


少しだけ、進んだ。


本当に少しだけ。


それでも、十分だった。


牧人は、肩の割れ目を見た。


「治ったわけじゃないんだな」


中央が低く答えた。


「治ってはいない。古い名の縛りが、少し緩んだ」


左が続ける。


「今の名が、古い名に届いた」


右が鼻を鳴らした。


「肉よりは効いた」


「比べるな」


中央が、ほんの少しだけ鼻を鳴らした。


左は黙っていたが、さっきより沈んでいなかった。


石板に、新しい文字が浮かぶ。


現主、名に干渉。

家主権限、仮発生。


牧人は顔をしかめた。


「また家主か」


石板は答えない。


現主、名に干渉。

家主権限、仮発生。


同じ文字が、黒い石の表面に沈むように残っている。


牧人はしばらくそれを見ていた。


家主。


本家の前でも言われた言葉だ。


家の主。責任者。逃げ場がない役。面倒な相談が最後に回ってくる人間。親父に全部聞くな、と看板に書かれる人間。


牧人は、あの看板を思い出した。


親父に全部聞くな。


今ここに、その看板がないのが惜しい。


石板にも貼っておきたい。


「家主権限って何だ」


牧人が言うと、クロの左が静かに答えた。


「古い名に、今の家の名が触れた」

「ここが、それを異常として記録した」


「異常か」


「そうだ」


「悪い異常か」


左は少し考えた。


「まだ、分からない」


右が言った。


「悪いなら噛む」


「噛むな」


「相手による」


「石板は噛むな」


右は不満そうに牙を閉じた。


牧人は黒い石板を見た。


家主権限、仮発生。


仮。


つまり、まだ正式ではない。


正式でないものが増えるのは本家でもよくある。半居着き。預かり。客分。仮登録。仮設寝床。仮の飯列。仮の看板。


仮のまま増えていき、いつの間にか正式になる。


嫌な予感しかしない。


だが、今は悪いことばかりではなかった。


クロの杭痕の一本に、細い割れ目が入った。


クロは少しだけ軽くなったと言った。


それが今日の報酬だ。


最深部に来て、飯を食って、名前を呼んで、一本の端を割った。


十分だ。


いや、本当は十分ではない。


だが、最初の一歩としては悪くない。


牧人は弁当の包みを持ち直した。


「クロ」


中央がこちらを見る。


右も。

左も。


「行けるか」


中央は短く答えた。


「行ける」


右が牙を見せた。


「肉があれば、もっと行ける」


「あとでな」


「今でもいい」


「あとでな」


左が静かに言った。


「奥が、呼んでいる」


牧人は石板の向こうを見た。


灰色の線が、さっきより太くなっている。


道のようにも見える。

傷のようにも見える。

古い杭の痕にも、少し似ていた。


石板の文字が、また浮かぶ。


旧名封鎖、第一確認へ移行。

現名、クロ、家内呼称として記録。

家主権限、仮発生。

通行、許可。


黒い床の奥で、灰色の線が開いた。


道ができた。


いや、道というには細い。


床に刻まれた傷の中を歩かされるような、嫌な通路だった。


牧人は深く息を吐いた。


「通行許可か」


右が言った。


「上から目線だな。昔から気に入らん場所だ」


牧人はクロを見た。


「覚えてるのか」


中央が低く答えた。


「少しはな、だが、昔のままとは限らん」


左が奥を見た。


「名を出す場所だった。今は、杭を確認する道になっている」


右が牙を見せた。


「気に入らんものが出たら噛む」


「噛む前提で進むな」


牧人は一歩踏み出した。


足音が遅れて返る。


こつ。


……こつ。


後ろの黒い輪は、まだ細く残っている。


イトの糸もある。


戻れる。


今は、まだ。


牧人はそれを確認してから、クロの横を歩いた。


「なあ、クロ」


「何だ」


「さっき、軽くなったって言ったよな」


「言った」


「なら、次もそうなるといいな」


中央は答えなかった。


右も、珍しく黙った。


左が、低く言った。


「名が届けば、あるいは」


牧人は頷いた。


「じゃあ、届くまで呼ぶ」


石板の奥で、黒い空間が微かに揺れた。


それが返事なのか、拒絶なのかは分からない。


ただ、クロの肩の割れ目だけが、細く、薄く光っていた。


古い名ではなく、今の名で。


まだ小さい。


でも、確かに入った亀裂だった。


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