黒い輪の向こうで、弁当を広げた
黒い輪の向こうは、寒くなかった。
寒くないのに、体の芯だけが少し冷える。
牧人は、最初にそう思った。
足を踏み入れた瞬間、背中にあった本家の気配が遠くなった。飯の匂いも、鍋の音も、ヒナの声も、ザガの低い文句も、一枚ぶ厚い布を挟んだみたいに薄くなる。
目の前には、黒い床が広がっていた。
床、という言い方で合っているのかは分からない。足の裏には確かに硬い感触がある。けれど石ではない。土でもない。水でもない。踏むたびに音はするのに、その音が少し遅れて後ろから追ってくる。
こつ。
……こつ。
牧人は一歩進んで、振り返った。
黒い輪は、まだ背後に細く残っている。その縁に、細い糸がかかっていた。イトの糸だ。黒い空間の中で、糸だけがやけに頼りなく、けれど切れずにこちらへ伸びていた。
「戻る道は、あるな」
牧人がそう言うと、自分の声も少し遅れて返ってきた。
あるな。
変な場所だった。
迷宮の最深部というより、迷宮が寝ている腹の中に入った感じがする。壁はない。天井もない。なのに、上を見ても空はない。ただ黒い奥行きがあって、遠くに灰色の線が一本、かすかに走っている。
その線だけが、やけに本家の旧帳場に似ていた。
「……ここ、床掃除どうするんだろうな」
牧人が呟くと、隣でクロの右首が低く唸った。
「最深部に来て、最初に言うことがそれか」
「いや、黒い床って汚れが見えにくいだろ。見えにくい汚れは厄介なんだぞ」
「知らん」
「モップをかけたら、闇の奥まで吸われそうだしな」
「モップを持ってくるな」
右首は呆れていた。
牧人も、さすがに今すぐ掃除をするつもりはない。ないが、見えない汚れは本当に厄介だ。血も灰も呪いも、見えないところに残るから後で面倒になる。
本家で嫌というほど学んだ。
クロは三つの首をそれぞれ別の方向へ向けていた。
中央は前方。
右は周囲。
左は、遠くの灰色の線。
いつもより、大きく見えた。
本家の門前で伏せている時とは違う。ここでは、クロの黒い毛が、周囲の闇と少しだけ混ざって見える。三つの首。太い前脚。背中から肩にかけて走る筋肉。普通の人間なら、隣にいるだけで腰を抜かす。
牧人は慣れてしまった。
慣れとは怖い。災厄級ケルベロスにも慣れる。人間の適応力は、いい方向にも悪い方向にも働く。過酷な日々に慣れてしまうのと似ている。似ていてほしくはない。
ただ、そのクロが、今は少しだけ違っていた。
首筋から肩にかけて、黒い毛の奥に細い光が走る。
一瞬だけ。
杭痕だった。
先日、本家の門前で薄く光ったのと同じ、古い熱。肉体を貫いていたはずのものが、今も痕として残っている。
肩、脇腹、前脚の付け根、背の中ほど。
いくつもの痕が、黒い毛の下で微かに熱を持っていた。
「クロ」
「何だ」
「痛いか」
中央はすぐに答えなかった。
右が先に言う。
「痛くはない」
左が低く続けた。
「思い出すだけだ」
牧人は少し眉を寄せた。
痛いより、たぶん面倒な答えだった。
痛みなら水で冷やせる。傷なら包帯を巻ける。腹が減っているなら飯を出せる。そういうものはまだいい。手を動かせば、少しはましになる。
思い出す、は困る。
他人の昔は、勝手に手当てできない。
「そうか」
牧人は、それだけ言った。
聞けば何かが分かるかもしれない。けれど、今のクロに無理に聞くことではない。ここは黒い。道も分からない。相手も分からない。まずは手元のものを確認する。
情報が足りない時に深追いすると、だいたいひどいことになる。
牧人は肩にかけていた包みを下ろした。
クロの右が目を向ける。
「何をしている」
「弁当の確認」
「最深部で最初に飯を見るのか」
「崩れてたら困るだろ」
牧人は黒い床に腰を下ろしかけて、少し考えた。
座っていい床なのか分からない。
黒い。硬い。音が遅い。水にも映らなそう。弁当を直置きしていい相手ではない。黒い床の上で大根を広げて、あとから変な呪いがついたら嫌だ。
大根が悪いわけではない。
だが、大根もそんな扱いは望んでいないはずだ。
牧人は包みの中から布をもう一枚出し、床に敷いた。
「そこまでやるのか」
クロの右が呆れた声を出す。
「食い物を置く場所は大事だ」
「最深部だぞ」
「どこでも一緒だろ」
声が遅れて返ってくる。
一緒だろ。
黒い空間に、妙に生活感のある言葉が響いた。
牧人は包みを開いた。
干し肉。硬いパン。塩。小さな芋。水筒。大根。ベロが朝から煮た大根は、布の中で意外と崩れていなかった。汁気は少し染みているが、許容範囲だ。
許容範囲という言葉は大事だ。人生はだいたい、完璧ではなく許容範囲で回る。完璧な飯、完璧な寝床、完璧な安全。そんなものはない。あったら人は迷宮に入っていない。
「崩れてないな」
牧人は小さく頷いた。
クロの右が、すぐ干し肉を見た。
「肉は」
「ある」
「少ない」
「多めに入れてもらった」
「俺の多めと、ベロの多めは違う」
「それは知らん」
右が不満そうに鼻を鳴らした。
中央は前を見たまま言う。
「今、食うのか」
「少し食う。考える前に腹が空くと、判断が雑になる」
「お前は、いつも雑だ」
「飯を抜いたらもっと雑になる」
これは本当だった。
空腹は、人間から慎重さを奪う。寒さも眠気もそうだ。きれいな理想や勇気は、腹の中が空っぽになると途端に薄くなる。牧人は、それを知っている。腹が減っている時の善意は、だいたい長持ちしない。
ここで必要なのは勇ましさではない。
何が起きても、判断を間違えないことだ。
牧人は干し肉を一切れ口に入れた。硬い。塩気が強い。噛むほどに肉の味が出る。黒い最深部の中で、その味だけが妙に現実だった。
クロの右にも一切れ放る。
右は当然のように受けた。
「少ない」
「食った後に文句を言うな」
「文句ではない。事実だ」
「事実でも言うな」
中央は食べなかった。
左も食べなかった。
牧人は干し肉を持ったまま、中央を見る。
「食わないのか」
「あとでいい」
「あとで食える保証はないぞ」
中央が、少しだけ牧人を見た。
その目が、いつもより遠い。
「ここは、食うための場所ではない」
「だからこそ、食っとくんだろ」
牧人は干し肉をもう一切れ差し出した。
クロの中央はしばらくそれを見た。
右が横から食おうとする。
中央が牙を見せた。
右が言った。
「どの口で食っても、腹では一緒だ」
牧人は、少しだけ笑いそうになった。
三つ首でも、食い物の所有権はあるらしい。勉強になる。どこで使う知識かは分からないが。
中央は、結局それを食べた。
小さな音がした。
遅れて、また音が返った。
噛む音まで遅れるのか。嫌な場所だ。
「食えたな」
牧人が言うと、中央は低く答えた。
「食える」
「なら、まだ大丈夫だ」
右が鼻で笑った。
「飯で判断するな」
「飯が食えるうちは、だいたい何とかなる」
「雑だ」
「便利な基準だぞ」
左が、低く言った。
「昔は、ここで食う者はいなかった」
牧人は左を見た。
クロの左首は、遠くの灰色の線を見たままだった。
「そうなのか」
「名を出す場所だった。役目を戻す場所だった。封じる場所でもあった」
言葉が少し遅れて空間に沈む。
封じる場所。
牧人は、クロの肩にある杭痕を見た。
思いつくことはある。
たとえば、ここに来なければよかった。黒い輪を無視して、受付小屋の奥に板を立てて、「最深部、あと」と書いておく。ニコなら三秒で出す。ベロなら飯の列を優先する。ザガなら入口を守る。
たぶん本家は、それで一日は回る。
だが、無視して済むとは思えない。
黒い輪は、クロの名を呼んだ。
グラウヴィスの現主を伴い、名を出せ。
名を呼ばれたものを放っておくと、たいていろくなことにならない。人間社会でもそうだ。未払い通知、督促状、召喚状。見ないふりをすると、あとで利子がつく。最深部にも利子があるかは知らないが、あったら嫌すぎる。
「確認することは三つだな」
牧人は芋を半分に割りながら言った。
「一つ、ここが何をしたいのか」
「二つ、クロの昔の名をどう扱うのか」
「三つ、帰れるのか」
右が、牧人の手元を見た。
「それとは別に、肉は足りるのか」
「それは最深部に聞くことじゃない」
「俺には重要だ」
「まあ、否定はしない」
空腹の災厄級を連れて最深部の交渉をする。
考えるだけで、胃が重い。だからこそ、今のうちに飯を入れておく。
牧人は芋を食べ、水筒を開けた。
その時だった。
遠くの灰色の線が、少しだけ明るくなった。
黒い床の上に、音もなく何かが浮き上がる。
石板だった。
黒い石板。
受付小屋の石板よりも薄く、旧帳場の仮記録よりも冷たい。地面から生えたというより、最初からそこにあったものが、今だけ見えるようになった感じがした。
牧人は包みを閉じた。
クロが前に出る。
三つの首が、同時に石板を見る。
石板の表面に、影の文字が浮かんだ。
グラウヴィス、帰還。
現主、未確定。
名、提出待ち。
牧人は、しばらく読んだ。
読める。
不思議なことに読めた。文字の形を知っているわけではない。だが意味だけが頭の中に落ちてくる。嫌な親切だった。読ませる気がある文章というのは、逃げ場がない。
「帰還って書いてるな」
牧人が言うと、クロの中央は低く唸った。
「帰った覚えはない」
右が牙を見せる。
「呼びつけておいて帰還か。気に入らん」
左は黙っていた。
牧人は石板を見る。
「現主、未確定」
その言葉が、妙に引っかかった。
主。
飼い主。主人。支配者。所有者。管理者。どれも嫌だ。どれも牧人の感覚と合わない。
クロはクロだ。
本家にいる。飯を食う。門の横で寝る。右は肉にうるさい。中央はだいたい静かで、左はたまに昔みたいなことを言う。三つ首で、災厄級で、怖い。けれど、牧人にとってはもう、ただの危険物ではなかった。
それを「現主」と言われると、胃のあたりが少し重くなる。
支配しているつもりはない。
命令しているつもりもない。
ただ、うちにいる。
その程度だ。
だが、石板はその程度を許してくれそうにない。
牧人は口を開いた。
「俺は、クロの主じゃないぞ」
石板は沈黙した。
沈黙にも重さがあるらしい。黒い床まで少し沈んだ気がした。
クロの右が横目で牧人を見る。
「今、それを言うのか」
「大事だろ」
「ここは、そういう言い分が通る場所ではない」
「通らないからって、違うことを言うのも変だろ」
牧人は頭を掻いた。
ここで嘘をつくのは簡単だ。
俺が主だ、と言う。
クロは俺のものだ、と言う。
そうすれば、この石板の求める形にはなるのかもしれない。
だが、それは駄目だ。
言葉は便利だ。便利だが、口にした瞬間、こちらを縛る。特にこういう黒い石板が聞いている場所で、軽く言った言葉が軽く済むわけがない。
本家の前で、牧人は言った。
誰も捨てられない場所にする。
あれは、自分で言った。なら、ここでも自分の言葉を選ぶ必要がある。
面倒だ。
自分で言った言葉の後始末ほど面倒なものはない。
でも、逃げるつもりはなかった。
「名、提出待ちってあるな」
牧人は石板を見た。
「クロの名でいいのか」
左がわずかに動いた。
中央が言う。
「求めているのは、それではない」
「古い方か」
「そうだ」
「グラウヴィス」
その名を口にした瞬間、クロの杭痕が薄く光った。
肩、脇腹、前脚の付け根、背の中ほど。
そして、見えていなかった奥の痕まで、黒い毛の下で連なるように熱を持つ。
クロの右が低く唸った。中央の喉も震える。左は目を閉じた。
牧人はすぐに言った。
「悪い」
中央が短く答える。
「お前のせいではない」
「でも、痛そうだった」
「思い出しただけだ」
「それが厄介なんだろ」
クロは答えなかった。
牧人は石板を睨む。
「今の反応、名を出すたびに出るのか」
石板は何も答えない。
代わりに、影の文字がもう一度浮かぶ。
名、提出待ち。
牧人は口の中に残っていた肉の塩気を飲み込んだ。
なるほど。
この場所は、クロの古い名を求めている。けれどその名を出すと杭痕が反応する。つまり、言われた通りにするだけで、クロに何かが起きる可能性がある。
最悪だ。
役所の窓口で「この書類を書けば処理できます」と言われて、書いたら相手が出血するようなものだ。窓口を見つめる目も少し冷たくなる。爆破はしない。今はしない。爆破手段もない。
「じゃあ、古い名は保留だ」
牧人は言った。
クロの右が目を細める。
「保留で済む相手か」
「済ませるしかないだろ。呼ぶたびに杭が熱くなる名前を、はいどうぞって出せるか」
「出さなければ、ここは進まん」
「進まないなら、先に別の道を探す」
牧人は石板を見る。
「現名なら出せる」
石板は沈黙した。
牧人は、はっきり言った。
「クロでいいだろ」
黒い空間が止まった。
音も、遅れて返ってこなかった。
クロの右が、牧人を見た。
中央も。
左も。
遠くの灰色の線が、少し揺れる。
石板の文字が、一瞬だけ薄くなる。
グラウヴィス、帰還。
現主、未確定。
名、提出待ち。
その三行が、動きを失った。
牧人は首をかしげる。
「駄目なのか」
誰も答えない。
石板も答えない。
普通なら、ここで緊張するべきなのだろう。禁断の名の儀式に対して、軽い呼び名を出した。古い迷宮の仕組みに、家で呼んでいる名前を押し込んだ。失礼と言えば失礼だ。
だが、牧人からすると、それ以外に出せるものがない。
本家で呼ぶ名。
飯の時に呼ぶ名。
門の横にいる時に呼ぶ名。
怪我をしていないか確認する時に呼ぶ名。
帰ってこいと言う時に呼ぶ名。
それがクロだ。
古い名前があるのは分かった。
重い役目があるのも、たぶん分かった。
杭が残っているのも、痛いほど分かった。
でも、今うちにいるのはクロだ。
そこを間違えると、たぶん全部間違う。
牧人は石板に向かって言った。
「グラウヴィスが昔の名なら、それはそれで聞く」
「でも、今呼んだら杭が反応する」
「なら、今ここで出す名はクロだ」
クロの中央が、かすかに息を吐いた。
右は黙っている。
左が、ゆっくり牧人を見た。
「お前は、それで通す気か」
「通らないなら、通るまで言うしかないだろ」
「面倒な男だ」
「よく言われる」
「誰に」
「主にザガとヒナと澄玲さんに」
右が小さく鼻を鳴らした。
笑った、のかもしれない。
石板に、ひびのような黒い線が走った。
割れたわけではない。文字が組み替わる前兆だった。
影が集まる。
新しい行が浮かぶ。
現名、照合不能。
牧人は眉を寄せた。
「照合不能って何だ。うちでは通じてるぞ」
石板に、また文字が浮く。
旧名、封鎖杭、六。
現名、未承認。
その文字を見た瞬間、クロの杭痕がもう一度、薄く熱を持った。
今度は光が長かった。
六つ。
牧人の目にも、はっきり見えた。
首筋。
肩。
脇腹。
前脚の付け根。
背の中ほど。
そして、胸の奥に近い位置。
クロの右が牙を剥く。
中央が低く唸る。
左は、目を閉じたまま言った。
「六本、残っている」
牧人は立ち上がった。
弁当の包みを足元に置いたまま、石板を見る。
「未承認ってことは、承認する場所があるんだな」
クロの中央が牧人を見た。
「何を考えている」
「クロの名を通す方法」
「ここは、そんな軽い場所ではない」
「軽くないから、ちゃんと通すんだろ」
牧人は、黒い石板から目を逸らさなかった。
腹は少し満ちた。
水も飲んだ。
戻る糸もある。
クロの杭は六つ残っている。
古い名を出すと、痕が熱を持つ。
今の名は、未承認。
分かったことは少ない。
でも、一つだけ進んだ。
ここは、クロをグラウヴィスとしてしか扱う気がない。
なら、こちらはクロをクロとして扱わせる必要がある。
本家でやってきたことと同じだ。
名前を聞く。
名前を呼ぶ。
勝手に捨てない。
勝手に昔の役目だけで呼ばない。
牧人は、黒い石板に向かって言った。
「じゃあ、承認の仕方を出せ」
石板の文字が止まった。
遠くの灰色の線が、細く光る。
遅れて、音が来た。
ごん。
石が鳴る音だった。
旧帳場で聞いた音に、少し似ていた。
クロの左が、低く呟いた。
「始まったな」
牧人は足元の弁当を拾い上げた。
「おっと、弁当は持たないとな」
右が言った。
「肉もだ」
「分かってる」
牧人は包みを結び直した。
黒い石板には、まだ文字が残っている。
旧名、封鎖杭、六。
現名、未承認。
そして、その下に、新しい一行がゆっくり浮かび始めていた。
現名承認、旧名封鎖確認を要す。
牧人は、その文字を読んで、深く息を吐いた。
「面倒な手続きだな」
黒い空間のどこかで、また音が遅れて返った。
手続きだな。
クロの右が牙を見せた。
「噛んで進めるか」
「噛むな」
「相手による」
「石板を噛むな」
「硬そうだ」
「だから、噛むなよ」
牧人はそう言いながら、石板の奥を見た。
灰色の線が、少しずつ太くなっている。
道のようにも見えた。
傷のようにも見えた。
帰り道ではないことだけは、なんとなく分かった。
牧人は弁当の包みを肩にかけ直した。
小さな前進はあった。
クロという名は、止められなかった。
ただし、まだ通っていない。
「行くぞ、クロ」
牧人が呼ぶと、クロの三つの首が同時に動いた。
右が笑い、中央が頷き、左が静かに目を開ける。
そして、黒い石板の文字が、ほんのわずかに揺れた。
まるで、その名を聞いたように。
だが、承認はまだされなかった。




