ここを、誰も捨てられない場所にする
黒い輪は、まだ開いていた。
受付小屋の奥。
棚の上の黒い札から浮かんだ輪は、夜が明けても消えなかった。
大きさは、人ひとりが通れるほど。
広がりもしない。
閉じもしない。
ただ、そこにある。
飯の匂いがする本家の門前に、最深部への入口だけが、場違いなくらい静かに開いていた。
牧人は、その前で腕を組んでいた。
「閉じないな」
まめじいが帳面を抱えて言った。
「待っておりますな」
「待たせてるのか」
「呼ばれた側が返事をしておりませぬので」
牧人は黒い輪を見た。
輪の内側に、まだ影の文字が浮いている。
グラウヴィスの現主を伴い、名を出せ。
クロは門の横に伏せていた。
だが、眠ってはいない。
三つの首は、それぞれ違うものを見ている。
右は黒い輪。
中央は牧人。
左は、旧帳場の奥。
いつもより、静かだった。
ヒナが梁の上で小声で言った。
「やだ、若頭が三方向を見てる」
クロの右が低く言った。
「うるさい」
「ごめん。ピリピリしてるね」
イトは梁の端から、細い糸を黒い輪へ向けて伸ばしていた。
触れない。
ぎりぎり手前で止めている。
「奥、黒い」
「道、ある」
「でも、糸、沈む」
牧人が見上げた。
「沈む?」
イトは頷いた。
「戻る糸、沈む」
「切れるかも」
ザガの顔が険しくなった。
「戻るための糸が切れると、厄介だな」
ミズハは水桶を黒い輪の手前に置いていた。
水面には、輪が映っていない。
そこにあるのに、映らない。
ミズハは静かに言った。
「水に映らないものって、嫌ね」
ネムは右奥の入口に座っていた。
眠そうだが、目だけは開いている。
「寝床、静か」
「でも、黒いの、いや」
ナナは戸の前に立っていた。
「右奥、守る」
イシコは地面に手を置いていた。
「石、覚えない」
「黒いところ、石じゃない」
牧人は眉を寄せた。
「石じゃない道なのか」
イシコは頷いた。
「深い」
「でも、足場、ある」
ベロは鍋の前で包みを作っていた。
干し肉。
硬いパン。
塩。
小さな芋。
水筒。
そして、なぜか大根。
牧人は見た。
「大根も持つのか」
ベロは真顔で言った。
「朝から煮た」
「持たないと無駄になる」
クロの右が少し唸った。
「肉が多い方がいい」
「肉も入ってる」
「多くしろ」
「なるべく、多くしてる」
ヒナが梁の上で少し笑った。
「肉は譲れないね」
黒い輪は、何も言わなかった。
ただ、待っていた。
---
朝の門前には、人が増え始めていた。
黒い輪のことは、すぐに外へ出たわけではない。
ローは記録石を持っていたが、輪そのものには向けていなかった。
向けようとして、やめた。
昨日、自分で言ったばかりだった。
今は、配信の顔じゃないので。
だから、彼は受付小屋の外で、記録石を抱えて立っていた。
顔は、いつもの配信者の顔ではない。
少しだけ悔しそうで、少しだけ真面目だった。
「これ、回さないんですか」
ザガが言った。
「回すな」
ローは頷いた。
「ですよね」
ヒナが意外そうに見た。
「やだ、ローが一回で聞いた」
ローは少しだけ苦笑した。
「さすがに、これは配信したら怒られるやつです」
ナナが短く言った。
「怒る」
「はい」
そこへ、澄玲が来た。
正式窓口として、朝一番で呼ばれた。
手帳ではなく、薄い書類鞄を抱えている。
その後ろに、水越の副官が一人。
迷宮庁の連絡員が一人。
国枝もいる。
水越本人は来ていない。
都市防衛局側の処理で、動けないらしい。
だが、副官は水越の伝言を持っていた。
「水越統括官より」
「最深部由来の黒輪について、都市防衛局は直接干渉しない」
「ただし、現地の安全確保に必要な協力は、監察局経由で行う」
「無断接触者を出さないよう、外縁封鎖だけはこちらで受け持つ」
澄玲が頷いた。
「ありがとうございます」
牧人は副官を見た。
「外を止めてくれるってことか」
副官は少しだけ言葉を選んだ。
「はい」
「変なものが、受付を通らずに入らないようにします」
ニコが板を出した。
外も、受付
副官は板を見て、少しだけ目を伏せた。
「……分かりやすいですね」
澄玲が小さく言った。
「負けないでください」
副官は咳払いした。
「失礼しました」
ヒナが梁の上で笑った。
「やだ、板に強い!」
---
外向け看板の下には、朝から列ができていた。
ただし今日は、いつもより静かだった。
人間の避難者。
小型の魔物。
物資運び。
迷宮庁の連絡員。
都市側の確認担当。
飯だけの者。
みんな、黒い輪の気配に気づいていた。
見えていなくても、分かる。
何かが本家の奥で開いている。
それだけで、列は勝手に静かになった。
クロが立ち上がる必要もなかった。
ぷるが、ぷるんと灰粉を吸う。
ヒナが空から案内する。
「飯だけは左!」
「怪我人は右奥の手前!」
「今日は奥を覗かない!」
「黒い方を見続けない!」
「豪志に状況を聞かない!」
豪志が受付横で叫んだ。
「最後、今日もですか!」
ナナが短く言った。
「大げさにする」
「まだしてません!」
ニコが板を出した。
豪志、説明しない
豪志は胸を押さえた。
「俺、説明も禁止ですか!?」
ザガが低く言った。
「今日は特にだ」
ヒナが笑った。
「豪志、非常時の情報統制対象!」
豪志はそれでも、今日はいつもより少し大人しかった。
なぜなら、黒い輪が怖かったからだ。
そして、それを誤魔化すために、やたら明るくしていたからだ。
「親分さん」
「ん」
「最深部って、行って大丈夫なんですか」
牧人は少し考えた。
「まあ、大丈夫だろ」
豪志は少し安心しかけた。
ザガが低く言った。
「大丈夫じゃねえだろ」
ヒナも梁の上で頷いた。
「やだ、親父の大丈夫、信用できない!」
ニコが板を出した。
親父の大丈夫、注意
牧人は板を見た。
「注意ってなんだよ……」
ナナが短く言った。
「危ない」
---
澄玲は黒い輪を見ていた。
直接近づきすぎない。
書類鞄を胸に抱えたまま、受付小屋の入口で止まっている。
「これは、記録します」
ローがそちらを見た。
「配信は?」
澄玲は即答した。
「しません」
「ですよね」
「ただし」
澄玲は牧人を見た。
「牧人さんが、この場で何かを言うなら」
「それは、外へ出る可能性があります」
牧人は困った顔をした。
「また俺の言葉か」
「またです」
ヒナが梁の上で言った。
「親父、今日は本当に気をつけた方がいいよ」
ザガも頷いた。
「言ったことが全部、外の解釈になる」
まめじいも言った。
「封環層も、受け取る可能性がございます」
牧人は旧帳場の方を見た。
灰色の線が、今日はいつもより薄く光っている。
まるで、聞いている。
黒い輪も、聞いている。
人間側も、聞いている。
魔物たちも、聞いている。
本家の全員が、牧人を見ている。
牧人はしばらく黙った。
その沈黙が、いつもより長かった。
誰も急かさなかった。
豪志でさえ、口を閉じていた。
三秒ではない。
ちゃんと長かった。
ヒナが、小さく言った。
「やだ、豪志が本当に黙ってる」
豪志は小声で返した。
「今日の俺は、空気を読みます」
ナナが短く言った。
「えらい」
豪志は泣きそうな顔になった。
「褒められた……!」
ザガが低く言った。
「泣くな。今じゃねえ」
---
牧人は、黒い輪を見た。
それから、看板を見た。
冥門組本家。
登録受付。
迷子・怪我人・避難者はこちら。
封環層入口、勝手に入るな。
武器を抜くな。
鍋を倒すな。
親父に全部聞くな。
その横に、ベロが書いた板。
飯は、並べば出る。
さらに、ニコの板。
変なものは受付へ。
飯、食べる?
最深部、弁当。
牧人は、最後の板を見て少しだけ笑った。
「弁当か」
ベロが包みを持ち上げた。
「いるだろ」
「いるな」
牧人は、みんなを見た。
ザガ。
ヒナ。
ナナ。
イト。
イシコ。
ネム。
ミズハ。
ベロ。
ぷる。
ニコ。
まめじい。
豪志。
ロー。
国枝。
澄玲。
クロ。
それから、飯の列に並んでいる人間と魔物たちを見た。
右奥で寝ている者たちを見た。
受付小屋を見た。
石の壁を見た。
看板を見た。
黒い輪を見た。
「前にさ」
牧人が言った。
誰も動かなかった。
「勝手に連れていくなって、言っただろ」
澄玲が、ほんの少しだけ目を伏せた。
ザガが黙って頷いた。
「俺は、あの時。目の前のやつを連れていかれたくなかっただけだった」
牧人は言葉を探すように、少し間を置いた。
「今も、それは変わらない」
クロの中央が、牧人を見ている。
「でも、それだけだと、足りないんだろうな」
ヒナの翼が、少しだけ止まった。
牧人は続けた。
「勝手に連れていくな」
「勝手に捨てるな」
「勝手に危ない場所へ戻すな」
「飯を食ったやつを、知らないふりするな」
声は大きくなかった。
でも、門前の端まで届いた。
ローの手が、記録石に触れる。
澄玲が一瞬だけ見た。
ローは小さく言った。
「これは、配信じゃなくて、記録です」
澄玲は少し迷った。
そして、小さく頷いた。
「公開前に、私が確認します」
「はい」
ローは記録石を回した。
黒い輪ではなく。
牧人の方へ。
牧人は、それに気づいていたのか、いなかったのか分からない。
ただ、言った。
「ここを」
そこで一度、息を吸った。
「ここを、誰も捨てられない場所にする」
空気が止まった。
牧人は、自分でも少し驚いていた。
前に似たことを言った時は、たぶん反射だった。
怒りでもあった。
困惑でもあった。
誰かに押されて出た言葉でもあった。
でも、今は違う気がした。
牧人は、自分で言ったのだと、自分で分かった。
自分の家の前で。
看板と鍋と黒い輪の前で。
「捨てる場所じゃない」
「捨てられる場所でもない」
「拾ったなら、置いていくな」
「飯を出したなら、名前を聞く」
「寝たなら、起きるまで見る」
「帰りたいなら道を探す」
「ここにいたいなら、ここにいればいい」
牧人は少し困ったように笑った。
「そういう場所にする」
誰も、すぐには声を出せなかった。
ヒナが、最初に息を吐いた。
「やだ」
「親父、ちゃんと言った」
ザガが低く言った。
「今のは、言ったな」
ナナが短く言った。
「言った」
イトが梁の上で頷いた。
「親父、決めた」
ネムが右奥から小さく言った。
「寝床、守る」
ミズハが水桶を抱え直した。
「水もね」
イシコが地面に手を置いた。
「石、覚えた」
ベロが鍋の前で言った。
「飯は出す」
ぷるが、ぷるんと揺れた。
ニコが板を出した。
誰も捨てない
牧人は板を見た。
「少し違うな」
ニコは首をかしげた。
牧人は言った。
「捨てさせない、でもない」
「捨てられない場所にする、だ」
ニコは少し考えた。
板を裏返す。
誰も捨てられない場所
牧人は頷いた。
「それでいい」
ヒナが目を丸くした。
「やだ、親父が板を正式採用した!」
まめじいは帳面を開いた。
手が震えていた。
「本家方針」
「親父殿、明言」
澄玲が頭を抱えた。
「……これを、どう処理すれば」
水越の副官が小声で言った。
「中立地帯宣言に近いですね」
澄玲は副官を見た。
「言わないでください」
「失礼しました」
国枝が静かに言った。
「人間側は、そう受け取ります」
澄玲は目を閉じた。
「でしょうね」
ザガが言った。
「魔物側は、大方針として受け取るな」
ヒナが梁の上で頷いた。
「もう受け取ってると思うよ」
クロの中央が言った。
「親父の言葉だ」
右が牙を見せて笑う。
「なら、通す」
左が低く言った。
「名に近い」
牧人はクロを見た。
「名?」
左は、それ以上言わなかった。
---
旧帳場の奥で、灰色の線が光った。
今までで一番、はっきりと。
ごん。
石が鳴る。
旧石門ではない。
封環層全体が、一度だけ返事をしたような音だった。
まめじいが息を呑む。
「親父殿」
石板に文字が浮かぶ。
仮記録。
家主方針、受理。
誰も捨てられない場所。
受付、継続。
飯、継続。
右奥、保全。
黒輪、通行待機。
牧人はそれを読んでいない。
だが、まめじいが読んだ。
そして、最後の一行で止まった。
「家主方針……」
牧人は眉を寄せた。
「また家主か」
ヒナが笑いかけて、少し泣きそうな顔になった。
「やだ、親父」
「今度は逃げられないかも」
牧人は困った顔で言った。
「逃げるつもりはないけどな」
澄玲が手帳を開いた。
頭を抱えたまま、書いた。
本家門前にて、守谷牧人が方針を明言。
内容、誰も捨てられない場所にする。
封環層仮記録、家主方針として受理。
書いてから、小さく笑った。
本当に、小さくだった。
「笑うところじゃないのに」
ミズハが横で言った。
「笑わないと、やってられない時もあるわよ」
澄玲は頷いた。
「それは、そうですね」
ローは記録石を抱えていた。
手が震えている。
「これ、出したら」
「また大変なことになりますね」
ザガが睨んだ。
「出すな」
澄玲が言った。
「出します」
ザガが澄玲を見た。
ローも見た。
牧人も見た。
澄玲は息を吐いた。
「ただし、編集します」
「黒い輪は出さない」
「保護対象の顔も出さない」
「右奥も映さない」
「牧人さんの言葉だけを、共同告知の続報として出します」
ローは真顔で頷いた。
「分かりました」
ヒナが梁の上で言った。
「やだ、ローの配信が正式ルートになってる」
澄玲は頭を抱えた。
「言わないでください」
ローは少しだけ笑った。
「俺も、それは怖い」
---
門前の列が、ゆっくり動き出した。
誰かが泣いていた。
誰かが笑っていた。
小型の魔物が、毛を震わせていた。
ぷるが灰を吸った。
ネムが右奥へ一人を案内した。
「寝床、こっち」
ミズハが水を差し出した。
「ゆっくりでいいわ」
ヒナが空から言った。
「飯だけの人は左!」
「泣いてる人は、先に座って!」
「豪志はまとめない!」
豪志が泣きながら叫んだ。
「まとめられますよ!」
ナナが短く言った。
「だめ」
ニコが板を出した。
豪志、泣いてもまとめない
豪志は涙を拭いた。
「泣いても!?」
ザガが低く言った。
「泣くな。いや、泣いてもいい。まとめるな」
ヒナが笑った。
「やだ、ザガが優しい!」
ザガは顔をしかめた。
「うるせえ」
ベロは鍋をかき混ぜた。
「飯、増やすぞ」
「足りるか」
牧人が聞く。
ベロは答えた。
「足りるようにする」
「そうか」
「親父は、最深部に持っていく分を食え」
牧人は少し笑った。
「今、食うのか」
「持っていく分は、もう一回、用意する。」
クロの右が言った。
「肉も食え」
牧人は頷いた。
「分かった」
---
黒い輪が、静かに動いた。
さっきまで待っていた輪が、わずかに広がる。
影の文字が消える。
代わりに、黒い向こう側が少しだけ見えた。
道ではない。
階段でもない。
ただ、黒い奥行き。
そこに、遠い灰色の光が一本だけ走っている。
イトが糸を垂らした。
今度は、糸が沈まなかった。
「戻る糸、少し行ける」
イシコが地面に手を置いた。
「石、端だけ覚えた」
ミズハが水筒を渡した。
「熱が出たら、無理に我慢しない」
ネムが言った。
「眠い時、寝る」
ナナが言った。
「戻る」
ベロが包みを押しつけた。
「飯」
まめじいが帳面を閉じた。
「行きの記録は、ここまで」
「戻りの記録を、お待ちしております」
澄玲が言った。
「牧人さん、黒い輪の先で、何か決める時は」
牧人は頷いた。
「分かってる。勝手に大きく言わない」
澄玲は少しだけ目を細めた。
「違います」
「必要なら、ちゃんと言ってください」
「今日みたいに」
牧人は驚いた顔をした。
それから、少し困ったように笑った。
「難しいな」
「はい」
ヒナが梁の上から言った。
「親父、今日はちょっとだけできたよ!」
牧人は頭を掻いた。
「ちょっとだけか」
「かなり」
「どっちだ」
「かなり、ちょっと!」
ザガがため息をついた。
「褒めてるんだ。受け取っとけ」
牧人は頷いた。
「そうか」
クロが前へ出た。
三つの首が、黒い輪を見る。
中央は静かだった。
左は深く沈んでいた。
右は、笑っていた。
牙を見せて、楽しそうに。
「行くか、親父」
牧人はクロを見た。
「そうだな」
右が言った。
「何かあれば、俺が噛む」
「噛むなよ」
「相手による」
「噛むな」
中央が低く言った。
「行くぞ」
左が言った。
「名乗りに」
牧人は黒い輪を見た。
向こうは、まだ分からない。
グラウヴィスの名。
現主。
深名状。
杭痕。
最深部。
分からないものばかりだった。
だが、後ろには本家があった。
飯の匂いがした。
板があった。
看板があった。
右奥があった。
戻る糸があった。
「行くか」
牧人は言った。
「飯も持ったしな」
ヒナが笑った。
「気を付けてね!」
ザガが言った。
「帰ってこいよ」
牧人は頷いた。
「ああ」
クロが黒い輪へ足を踏み入れた。
牧人も、その隣へ進んだ。
黒い輪が、二人を飲み込む。
一瞬だけ、クロの杭痕が薄く光った。
だが、今度はクロは唸らなかった。
牧人が横にいたからだ。
そして、輪は閉じなかった。
細く、残った。
戻るための隙間のように。
イトの糸が、その縁にかかっていた。
---
暗い部屋の中で、誰かが映像を見ていた。
冥門組本家。
外向け看板。
飯の列。
そして、牧人の言葉。
ここを、誰も捨てられない場所にする。
映像は粗い。
音も少し乱れている。
それでも、声は届いていた。
画面の前にいた女は、何も言わなかった。
ただ、指先だけが、画面の縁に触れた。
その指が、ほんの少しだけ止まる。
冥門組本家の名。
守谷牧人の名。
黒い輪。
その三つを見て、女はゆっくりと目を細めた。
声はなかった。
けれど、黒冠大迷宮の奥で、黒い冠のような影が、ゆっくりと揺れた。
---
本家の門前では、黒い輪の残り光を、全員が見ていた。
ヒナは梁の上で膝を抱えた。
ザガは腕を組んだまま動かない。
ナナは戸の前に立っている。
ネムは右奥を閉じている。
ミズハは水桶を置いたまま、輪を見ている。
イシコは地面に手を置いている。
イトは糸を握っている。
ベロは鍋を見ている。
ぷるは、ぷるんと小さく揺れた。
ニコは、板に向かって息を吐いた。
それから、板を出した。
親父、戻る
誰も笑わなかった。
でも、誰も否定しなかった。
まめじいは帳面に、最後の一行を書いた。
親父殿、クロ殿、黒輪へ。
本家、待機。
飯、温存。
戻り、待つ。
旧帳場の奥で、石板が静かに光った。
家主方針、受理。
黒輪、通行。
本家、待機。
最深部、接続。
そして、最後に一行。
次へ。
誰も、その文字を読んではいなかった。
ただ、本家の門前には、飯の匂いが残っていた。
誰も捨てられない場所の匂いだった。
第三章 完




