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最深部から、黒い輪が開く


外向け看板が立ってから、本家の門前は少しだけ整った。


少しだけ、だった。


列はできる。

板は増える。

ぷるは灰粉を吸う。

ヒナは空から案内する。

ネムは右奥を静かに保つ。

ミズハは水を控えて灰を広げない。

イトは梁の上で足を見る。

クロは門の横に伏せる。

遠くで、豪志が不思議なダンスを踊っている。


そして、牧人は看板を見ていた。


冥門組本家。

登録受付。

迷子・怪我人・避難者はこちら。

封環層入口、勝手に入るな。

武器を抜くな。

鍋を倒すな。

親父に全部聞くな。


その下に、ベロが書いた板。


飯は、並べば出る。


牧人はそれを見て、少しだけ息を吐いた。


「看板、増えたな」


ザガが隣で言った。


「昨日も言ってたぞ」


「増えてるからな」


ヒナが梁の上で笑った。


「やだ、親父が看板の成長を見守ってる!」


ニコが板を出した。


看板、育つ


牧人は言った。


「育てるな」


ベロが鍋の前から言った。


「飯の板は残せ」


「それは分かってる」


「ならいい」


ミズハが水桶を持ち上げながら笑った。


「飯の板だけ、みんな認めるのが面白いわね」


ネムが右奥から顔だけ出した。


「飯、静かになる」


ナナも短く言った。


「並ぶ」


イトが梁の上で頷いた。


「足、迷わない」


クロの右が、少しだけ不満そうに言った。


「肉は」


ベロが即答した。


「今日は茄子だ」


クロの右が低く唸った。


ヒナが笑った。


「若頭より茄子の方が強い!」


いつもの朝だった。


少し変で、少し騒がしくて、少しだけ整っている。


その朝が、そこで止まった。


---


受付小屋の奥で、何かが鳴った。


ごん。


旧石門の音とは、少し違った。


もっと深い。


石が石を押す音ではない。


遠くで、何かが開く前の音。


イトが、梁の上で動きを止めた。


「奥じゃない」


牧人が顔を上げる。


「旧石門じゃないのか」


イトは首を横に振った。


「もっと、下」

「もっと、黒い」


ミズハの水桶の水面が、一瞬で静かになった。


揺れていた水が、ぴたりと止まる。


「……変ね。水が、下を見てる」


ヒナの翼が少し広がった。


「水が下を見るって、なにそれ!」


ネムが右奥から、眠そうな顔のまま出てきた。


「奥、起きてない」

「でも、下、呼んだ」


ザガが槍に手をかけた。


「親分、下がれ」


「どこからだ」


まめじいが、受付小屋の棚を見た。


そこに置かれていた黒い札が、震えていた。


以前、最深部から届いたものだった。


名を求めるような文だけを残し、それきり黙っていた黒い札。


牧人は、その存在を忘れていたわけではない。


ただ、動くものだとは思っていなかった。


「……これ、まだ動くのか」


まめじいの顔が変わる。


「親父殿。深名状でございます」


まめじいも驚いている。


「動かぬものと思っておりました」

「ですが、今は動いておりますな」


深名状の表面に、黒い線が走った。


文字ではない。


輪だった。


細く、黒い輪。


輪は紙の上だけで止まらず、空中へ浮いた。


受付小屋の奥に、黒い円が開く。


小さい。


最初は、椀ほどの大きさだった。


それが、ゆっくり広がる。


鍋の蓋ほどに。


戸口ほどに。


空気が、ひとつ暗くなる。


クロが立った。


三つの首が、同時に黒い輪を見た。


その瞬間だった。


クロの首筋に、黒い筋が走った。


肩。

脇腹。

前脚の付け根。

背の中ほど。


古い杭痕が、一瞬だけ熱を持った。


クロの右が、低く唸る。


ミズハがすぐに気づいた。


「若頭」


イトの糸が、触れない距離でぴんと張った。


「杭」

「熱い」


牧人はクロを見た。


「クロ」

「今、痛んだか」


クロは、すぐには答えなかった。


三つの首のうち、中央だけが牧人を見た。


「……昔の杭だ」


牧人の顔が変わる。


「まだ残ってるのか」


クロは短く答えた。


「痕はな」


それ以上は言わなかった。


右も、左も、何も言わなかった。


牧人も、それ以上は聞かなかった。


ただ、クロの首筋を見た。


そこには、もう熱の光はない。


けれど、何かが触れたあとだけが、黒い毛の奥でまだ残っているように見えた。


ミズハが水桶を持って近づく。


「冷やす?」


クロの右が言った。


「いらん」


ミズハは無理に触らなかった。


「いる時は言いなさいね」


右は黙った。


中央が、ほんの少しだけ頷いた。


---


黒い輪の内側に、文字が浮いた。


光ではない。


影でできた文字だった。


まめじいが息を呑む。


ニコが板を抱えたまま、じっと見る。


ヒナが小さく言った。


「読める?」


まめじいは低く答えた。


「読めます」


牧人は聞いた。


「何て」


まめじいは、いつものようにすぐには読まなかった。


一度、クロを見た。


それから、牧人を見た。


「親父殿。少し、重い文でございます」


「最近、軽い文の方が少ないだろ」


ヒナが小さく笑いかけて、やめた。


まめじいは、黒い輪の文字を読んだ。


「グラウヴィスの現主を伴い、名を出せ」


場が静かになった。


牧人は少し考えた。


「グラウヴィスって、誰だ」


クロは、すぐには答えなかった。


三つの首が、わずかに動く。


中央が、低く言った。


「俺だ」


牧人はクロを見た。


「ああ、そういえば前に聞いたな」


右が低く言った。


「古い方だ」


左は黙っていた。


牧人は、黒い輪を見た。


「現主って何だ」


まめじいが言った。


「今の主、という意味でございましょうな」


牧人は眉を寄せた。


「誰の」


まめじいは答えに詰まった。


黒い輪が、かすかに揺れた。


イトが短く言う。


「親父」


ザガが低く言った。


「親分、分かるだろ」


牧人は困った顔をした。


「俺は、クロの飼い主ってことか」


黒い輪の文字が、少し濃くなった。


グラウヴィスの現主を伴い、名を出せ。


まめじいが静かに言った。


「最深部からの通知でございますな」


牧人は黒い輪を見る。


「つまり」


ザガが言った。


「最深部へ来い、ってことだ」


ヒナが翼を畳んだ。


「しかも、親父と若頭を名指しで」


ニコが板を出しかけた。


親父、また呼ばれる


牧人が言った。


「出すな」


ニコは少し考えた。


板を裏返した。


親父、深いところから呼ばれる


「もっと出すな」


ヒナが少しだけ笑った。


笑いはした。


でも、声は小さかった。


---


黒い輪が開いたことで、旧帳場の奥も反応した。


ごん。


今度は、旧石門の音だった。


受付小屋の奥の黒い輪。


旧帳場の灰色の線。


その二つが、同時に光る。


イシコが地面に手を置いた。


「石、硬い」

「でも、怖がってる」


牧人はイシコを見た。


「石が?」


イシコは頷いた。


「古い方、起きた」

「もっと古い方、見てる」


イトが梁から糸を垂らした。


「灰色、黒に寄らない」

「でも、見る」


ネムが右奥を振り返った。


「寝床、静か」

「でも、奥、聞いた」


ミズハの水面に、黒い輪が映っていた。


水の中の輪は、揺れていない。


それが、かえって怖かった。


ミズハは言った。


「水が、近づきたくないのに、目を逸らせない感じね」


ヒナが言った。


「水まで困ってる!」


まめじいは帳面を開いた。


だが、すぐには書かなかった。


牧人が見た。


「書かないのか」


「書きます。ただ、これは本家台帳だけでは済まぬ気配でございます」


ザガが低く言った。


「澄玲に回すか」


まめじいは頷く。


「正式窓口へ。ただし、まずは本家側で受けた記録として残します」


黒い輪は、まだ開いている。


けれど、広がらない。


待っている。


まるで返事を待っているようだった。


---


牧人はクロの隣に立った。


「クロ」


「何だ」


「行くのか」


クロの右が、すぐに言った。


「行かん」


中央は黙っていた。


左も黙っていた。


牧人は中央を見た。


「行かないで済むなら、行かない方がいいな」


中央が言った。


「済まない」


右が唸る。


「済ませる」


左が、低く言った。


「名を呼ばれた」


それだけで、クロの中でも答えが割れているのが分かった。


ヒナが、いつもより静かに言った。


「三つとも意見違うの、珍しいね」


ザガは黒い輪を見たまま言う。


「親分を呼んでるのが問題だ」


牧人は首をかしげた。


「俺は何を出せばいいんだ」


まめじいが答えた。


「名を出せ、とあります」


「名前か」


「おそらく」


「守谷牧人でいいのか」


黒い輪が、かすかに揺れた。


イトが短く言った。


「違う」

「もっと、深いのを待ってる」


牧人は困った顔になった。


「俺の名前は、それしかないぞ」


クロの中央が言った。


「だから、面倒なんだ」


「何が」


「名は、ただの呼び名ではない」


牧人はクロを見る。


源蔵が来た日のことを思い出した。


黒鉄三首ではない名。

古い名。

杭痕。

名の急所。


牧人は、今度は聞かなかった。


聞けば、クロが言いたくないところへ踏み込む気がした。


代わりに言った。


「今すぐ行かなきゃ駄目なのか」


黒い輪は、答えなかった。


ただ、文字だけが浮いている。


グラウヴィスの現主を伴い、名を出せ。


まめじいは、じっとそれを見た。


「今すぐ、とは書いてございませぬ」

「ただ、待たせすぎてよい相手にも見えませぬ」


ベロが鍋の前から言った。


「飯はどうする」


全員がベロを見た。


ベロは真面目だった。


「最深部へ行くなら、飯がいるだろ」

「空腹で行くな」


牧人は少しだけ笑った。


「そうだな」


ヒナも少し笑った。


「やだ、ベロが親父みたいなこと言ってる」


ニコが板を出した。


最深部、弁当


ザガが頷いた。


「それはいる」


ナナも頷いた。


「いる」


クロの右が低く言った。


「肉」


ベロは言った。


「今日は茄子だ」


「茄子で最深部へは行けない」


「なら干し肉を出す」


右は黙った。


少しだけ満足そうだった。


---


その時、門前の外が少し騒がしくなった。


国枝が来ていた。


ローも一緒だった。


二人とも、いつもの軽さではない。


国枝は受付小屋の前で止まり、黒い輪を見た。


すぐに顔を引き締める。


ローは記録石に手を伸ばしかけた。


ナナが短く言った。


「だめ」


ローは止まった。


「はい」


即答だった。


ヒナが小さく言った。


「やだ、ローが成長してる」


ローは黒い輪を見たまま言った。


「今は、配信の顔じゃないので」


国枝は黒い輪を見て、顔色を変える。


そして、牧人へ向いた。


「……失礼しました。別件で来たのですが、大変そうですね」


ザガが低く言った。


「別件って何だ」


国枝は一瞬だけ迷った。


「黒冠側から、冥門組の名を指定した問い合わせです」


牧人は眉を寄せた。


「黒冠って、隣の隣町のS級迷宮だろ」


「はい」

「普通の商談なら、国枝商会で止めます」

「ですが今回は、迷宮側の古い経路が混ざっています」

「ただの問い合わせではありません」


ローも黒い輪を見たまま、声を落とした。


「俺は、その中身までは分かりません」

「でも、外が拾ったらまずい話だとは分かります」


牧人は困った顔をした。


「また話が増えた」


ザガが言った。


「今は後だ」


国枝も頷いた。


「黒冠の件は、私が抑えます」

「ただ、火種としては残ります」


牧人は頷いた。


分かったような、分からないような顔だった。


「後で考える」


ザガが言った。


「そうだ」


ニコが板を出した。


黒冠、あと


牧人は言った。


「それは分かりやすい」


国枝は板を見て、少しだけ苦笑した。


「実務上も、その通りです」


---


黒い輪は、まだ待っていた。


深名状は受付小屋の棚の上で、黒い光を沈めている。


まめじいは帳面に記した。


深名状、反応。

黒輪、開放。

最深部より通知。

グラウヴィスの現主を伴い、名を出せ。

クロ殿、杭痕反応。

黒冠、あと。


牧人はそれを見た。


「黒冠、あとって書くのか」


まめじいは少し考えた。


「未処理案件、とも書けますが」


ニコが板を出した。


黒冠、あと


まめじいは頷いた。


「そちらの方が分かりやすいですな」


牧人は言った。


「帳面が板に寄ってないか」


ヒナが小さく笑った。


「やだ、まめじいの文体が簡単になってる!」


黒い輪の中で、文字が少しだけ揺れた。


まるで、急かしているようだった。


牧人はクロを見る。


「行くなら、準備してからだ」


クロの中央が言った。


「準備しても、変わらん」


「変わるだろ、飯を持つ」


右が言った。


「肉もだ」


「持つ」


左が低く言った。


「名を、どうする」


牧人は少し黙った。


「分からん」


黒い輪を見た。


「でも、行って確かめるしかないんだろ」


ザガが一歩前に出た。


「俺も行く」


牧人はザガを見た。


「来るのか」


「当たり前だろ」


ナナも短く言った。


「行く」


ヒナが梁から降りた。


「私も、上から見るよ」


ミズハが水筒を持ち上げた。


「水も要るでしょう」


イシコが地面に手を置いた。


「石、行く」


ネムも右奥から顔を出した。


「親父、ひとり、だめ」


牧人は困った顔になった。


「いや、俺も一人で行くつもりは」


ザガが言った。


「みんなで行った方がいいだろ」


その時、黒い輪が細く震えた。


輪の内側に、影の文字が浮く。


グラウヴィス。

現主。

二名。


ヒナの翼が止まった。


「……二名って、言われた?」


まめじいが低く読んだ。


「同伴、不可」

「見送り、可」

「戻路、保持」


ナナが黒い輪を睨んだ。


「感じ悪い」


ザガも歯を噛んだ。


「つまり、行けるのは親分と若頭だけか」


イトが梁の上から言った。


「糸、外から」

「戻るところ、持つ」


イシコも頷いた。


「石、入口、覚える」


ミズハは水筒を牧人へ押しつけた。


「水は、持っていかないといけないわ」


ネムが短く言った。


「戻る」

「絶対」


ベロが包みを押しつけた。


「飯」


ぷるが、ぷるんと揺れた。


灰粉は自分が見る、と言っているようだった。


豪志が叫ぶ。


「おやつはどのくらい用意しますか!」


ザガも叫んだ。


「遠足に行くわけじゃねえ!」


ヒナが少しだけ笑った。


「でも、親父が行くなら、おやつもいるかも」


ベロが言った。


「いらん、飯で足りる」


クロの右が低く言った。


「肉は多めだ」


「分かってる」


ザガは牧人を見た。


「分かった。なら、俺らは入口を守る。戻る場所を、絶対に空けねえ」


牧人は、みんなを見た。


それから、クロを見た。


「……助かる」


黒い輪は、静かに開いたままだった。


牧人は、もう一度クロを見る。


「行くか」


クロは少しだけ目を閉じた。


中央が答えた。


「行く」


右が低く言った。


「気に入らん」


左が言った。


「だが、呼ばれた」


牧人は頷いた。


「じゃあ、行くしかないな。でも、飯を食ってからな」


黒い輪が、ほんの少しだけ静かになった。


まるで、その返事だけは受け取ったようだった。


---


旧帳場の奥。


仮記録の石板にも、文字が浮かんでいた。


深名状、反応。

黒輪、開放。

グラウヴィス、呼出。

現主、未記入。

杭痕、熱反応。

黒冠、あと。


少し間を置いて、最後に一行。


最深部、待つ。


誰も、その文字を読んではいなかった。


ただ、受付小屋の奥に開いた黒い輪は、静かにそこにあった。


飯の匂いがする本家の門前で。


看板と板と鍋の間に。


最深部から来た、黒い入口だけが、ひどく場違いに開いていた。


牧人はそれを見て、ぽつりと言った。


「看板の次は、輪か」


ヒナが少しだけ笑った。


「やだ、増えるものが急に怖い」


ベロが包みを作りながら言った。


「怖くても、飯は持て」


クロの右が低く言った。


「肉もだ」


ベロは答えた。


「分かってる」


牧人は黒い輪を見た。


その向こうは見えない。


ただ、深い黒だけがある。


それでも、行くしかないらしい。


牧人は、深く息を吐いた。


「飯にしてから、考えるか」


ザガが頭を抱えた。


「最深部の前に飯かよ」


牧人は言った。


「腹が減ってたら、考えられないだろ」


クロの中央が低く言った。


「それは、そうだ」


ヒナが梁の上で笑った。


笑いは少しだけ震えていた。


黒い輪は、静かに開いたままだった。


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