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黒鉄三首ではない名


朝の門前に、板が三枚並んでいた。


鷹宮、超常現象

鷹宮、おかず

豪志、光らない


牧人はそれを見て、少しだけ眉を寄せた。


「これ、いつまで出してるんだ?」


まめじいは帳面を抱えたまま言った。


「昨日の余韻でございます」


「忘れていいやつだろ」


「忘れない方が、本家らしうございます」


牧人はもう何も言わなかった。


豪志が走ってきたのは、そのすぐ後だった。


「親分さんっ、門前に人!」


「今度はなんだ」


「攻略組です! 今度は、ちゃんと知ってる人です!」


「今度はって何だ」


豪志は雨よけの端から門の方を見た。


「前に来た人です。国家指定攻略組の、緋村アオイさん」


牧人は少し考えた。


「測りに来た人か」


「はい!」


「また測りに来たのか」


豪志は首を振った。


「たぶん、違います。顔が、前より硬いです」


ザガが先に門の方へ歩き出していた。


「硬いってことは、軽い用じゃねえな」


クロは門前で伏せていた。


三つの首のうち、中央だけが顔を上げる。


いつものように見えた。


けれど、左の首は、もう門の方を見ていた。


イトが梁の上で脚を二本だけ動かした。


「知ってる足」

「でも、前と違う」


ミズハが水桶を置いた。


「礼儀はあるけど、今日は静かすぎるわね」


ヒナが梁の上で翼を少し畳んだ。


「やだ、笑いづらいやつ?」


ザガは答えなかった。


---


門前には、三人いた。


先頭に、赤い髪を後ろで結んだ女。


緋村アオイ。


以前、封環層入口を測りに来た、国家指定攻略組の一人だった。


手には、今日は測定具を持っていない。


武器も見せていない。


ただ、肩に古い探索外套を羽織り、前よりずっと慎重な顔で立っていた。


その後ろに、白髪の男が一人。


年は読めない。


六十にも、八十にも見える。


腰から下が、地面に置かれているような立ち方をしていた。


さらに後ろに、若い付き添いが一人。


付き添いは一歩下がっている。


話す気がないのは、立ち位置で分かった。


アオイは受付小屋の前で頭を下げた。


「緋村アオイです。以前、榛名景吾と一緒に、封環層入口の安全確認に来ました」


牧人は頷いた。


「覚えてる。測りに来た人だろ」


アオイは少しだけ苦い顔をした。


「はい、測りに来て、測り返された者です」


ヒナが小さく笑いかけて、止めた。


アオイの顔が、冗談を言う顔ではなかったからだ。


まめじいが帳面を開いた。


「本日のご用件は」


アオイは一度、クロを見た。


「測定ではありません。確認です」


牧人の目が細くなった。


「何の」


アオイは静かに答えた。


「黒鉄三首の、古い杭痕です」


クロの右が、低く唸った。


場の空気が、一段下がった。


ザガが一歩前に出る。


「言葉を選べ」


アオイはすぐに頭を下げた。


「失礼しました。ですが、これ以上ぼかすと、かえって失礼になります」


牧人はクロを見た。


「クロ」


クロは答えない。


だが、三つの首のうち中央が、ゆっくりとアオイを見た。


アオイは続けた。


「旧石門が開いたことで、封環層側の古い反応が動いています」

「その反応が、黒鉄三首の杭痕とつながっている可能性があります」


牧人は短く聞いた。


「いつからだ」


クロは答えなかった。


それが、答えだった。


---


ミズハが水桶を持って近づいた。


「若頭、見せて」


クロの右が、嫌そうに目を細めた。


「必要ない」


ミズハは静かに言った。


「必要ないなら、それでいいわ。でも、今は若頭だけの話じゃないみたいよ」


クロの右が唸る。


牧人が言った。


「嫌なら見せなくていい。でも、変だったら言えって言っただろ」


クロの中央が、牧人を見る。


少しの間があった。


それから、低く言った。


「見るだけならいい」


ニコがすぐ板を出した。


見るだけ


アオイはそれを見て、頷いた。


「触りません。必要な距離で見ます」


ミズハは手を濡らし、クロの首筋にそっと水を当てた。


水が黒い毛の奥へ薄く広がる。


すると、普段は毛に隠れている痕が、ゆっくり浮いた。


首。


肩。


脇腹。


前脚の付け根。


背の中ほどにも、二つ。


それは傷跡というには冷たく、焼け跡というには深すぎた。


昔、何かが刺さっていた場所。


牧人が、初めて灰環大迷宮に入った日に見た、黒い鉄杭。


あの時の痕だった。


ミズハの顔から、笑みが消えた。


「冷たい。傷じゃないのに、底だけ冷たい」


イトが梁から糸を垂らした。


糸はクロに触れる前に、ぴん、と止まる。


「引っ張る」


牧人が顔を上げた。


「何が」


「杭のあと、奥から」


「奥って」


イトは旧帳場の方を見た。


「門の奥」


ヒナが低く言った。


「やだ、笑えない」


アオイは、クロに近づきすぎない距離で膝をついた。


首筋を見る。


肩を見る。


脇腹を見る。


前脚の付け根を見る。


背の痕を見る。


ミズハが水で毛を少しだけ分ける。


イトの糸が、触れない距離で細かく震えている。


アオイは息を止めるようにして、順に見た。


「杭痕が六つ」


牧人の顔が変わった。


「六つ」


「はい」


アオイは低く言った。


「討伐杭ではありません」


牧人は聞いた。


「どう違う」


「殺すためなら、こんな打ち方はしません。急所を外しています。でも、意味なく外しているわけでもない」


アオイは、クロの首筋から前脚の方へ視線を動かした。


「動きの線を押さえています。それに……」


そこで、アオイは少しだけ言葉を切った。


牧人は聞いた。


「それに?」


「古い個体ほど、肉ではないところに杭を打たれます」


「肉じゃないところ、ってなんだ」


アオイは答えに詰まった。


後ろの白髪の男が、一歩だけ前に出た。


アオイが横を向く。


「源蔵さん」


攻略組最古参、灰路源蔵。


男は頷いた。


「少しだけ話す」


アオイは下がった。


源蔵は、クロを見ていた。


まるで、今のクロではない何かを見ているようだった。


「名だ」


牧人は眉を寄せた。


「名」


「古い牙には、名の急所がある。肉より、そこを縛る方が早い」


場が静かになった。


鍋の音も、止まった気がした。


ベロが火を落としたのだと、牧人は遅れて気づいた。


アオイは、源蔵の言葉を継ぐように、静かに言った。


「封じた痕です。役目か、名か、どちらかを切るための杭に見えます」


---


源蔵が、さらに一歩前へ出た。


声は低かった。


低いが、よく通った。


「黒鉄三首ではない」


牧人は源蔵を見た。


源蔵は続けた。


「黒鉄三首は、人間が後から付けた名だ」

「黒い三つ首だから」

「鉄の杭を抜かれたから」

「分かりやすく呼ぶための名だ」


クロの右が牙を見せた。


「黙れ」


源蔵は怯まなかった。


だが、近づきもしなかった。


「すまん。だが、言わせてもらう」


クロの左が、初めて源蔵を見た。


源蔵は言った。


「あれは、もっと古い名を持つ牙だ」


旧石門の奥で、灰色の光が一度だけ揺れた。


イトの糸が、ぴんと張る。


「門、聞いた」


ヒナが小さく言った。


「今の、門まで聞いたの?」


イトは頷いた。


「古い名」

「門、反応」


ミズハが水桶の水面を見た。


水面に、黒い線が一瞬だけ走った。


「水にも出たわ。若頭の痕と、同じ向きよ」


牧人はクロの前に立ったまま、拳を握った。


「クロ」


クロは、しばらく答えなかった。


三つの首のうち、中央だけが牧人を見た。


「昔の話だ」


声は短かった。


それ以上を拒む声だった。


牧人は、少し黙った。


聞きたいことはある。


黒い鉄杭。

六つの杭痕。

古い名。

役目を切る杭。

門が反応した理由。


全部、聞きたい。


けれど、クロが今、言いたくないなら。


牧人は頷いた。


「分かった」


ヒナが梁の上で、珍しく何も言わなかった。


ザガも黙っていた。


ミズハは、クロの首筋に当てていた水をゆっくり引いた。


「今は、冷やすだけにするわね。無理に触らないわ」


クロの右が、小さく言った。


「助かる」


ミズハは少し笑った。


「珍しく素直ね」


「うるさい」


少しだけ、空気が戻った。


---


アオイは立ち上がった。


「確認できました」

「旧石門が開いた影響で、杭痕が反応しています」

「ただし、今すぐ暴走するような反応ではありません」


牧人は言った。


「危ないのか」


アオイは少し黙った。


「分かりません」

「ですが、無視はできません」

「杭痕が名を縛っていたなら、門の奥が開くほど、縛りも揺れます」


牧人はクロを見る。


「痛くなったら言え」


クロは答えない。


牧人は続けた。


「痛くなくても、変だったら言え」


クロの中央が少しだけ目を細めた。


「分かった」


ザガが低く言った。


「今、言質取ったな」


牧人は真顔で頷いた。


「取った」


ヒナが梁の上で少し笑った。


「若頭も、親父には弱い」


クロの右が不満そうに唸った。


ニコが板を出した。


若頭、変なら言う


クロの右が板を睨んだ。


「書くな」


ニコは少し考えた。


板を裏返して、短く書き直した。


大事


クロはそれ以上言わなかった。


まめじいは帳面に静かに書いていた。


黒鉄三首。

杭痕、六。

討伐杭にあらず。

封じ杭の疑い。

古名、未確認。


牧人はそれを見た。


「まめじい」


「はい」


「その最後、少し柔らかくならないか」


まめじいは考えた。


そして、書き直した。


古い話として、本人言及を避ける。


牧人は頷いた。


「それでいい」


源蔵が、そのやり取りを見ていた。


「守るのか」


牧人は答えた。


「うちにいるからな」


「それだけか」


「それだけだ」


源蔵は、少しだけ笑った。


「それが、一番厄介だ」


ザガが言った。


「最近、それを言う外の人間が増えたな」


ヒナが少しだけ笑った。


「やだ、本家の説明が全部“厄介”で済まされてる」


---


アオイたちは帰る前に、受付小屋で通行記録を確認した。


まめじいが普通に言った。


「本日は、若頭殿の杭痕確認でございますな」


アオイは頷いた。


「その通りです」


ニコが板を出した。


見るだけだった


源蔵がそれを見て、静かに笑った。


「本当に分かりやすい」


豪志が、ようやく口を開いた。


「灰路源蔵さんて、すごい方なんですよ。旧攻略時代の」


ザガが見た。


「今さら言うのか」


「空気が重かったので、黙っていました」


ナナが短く言った。


「えらい」


豪志の顔が明るくなった。


「えらい!」


ニコが板を出した。


豪志、少しえらい


豪志は板を見た。


「少し!」


ヒナが梁の上で笑った。


「やだ、成長が小刻み!」


イトが糸を揺らした。


「今日は、少し静かだった」


ミズハが笑った。


「豪志が少し黙っていたからね」


豪志は胸を張った。


「俺、役に立ちました!」


ザガが言った。


「黙ってただけだ」


「それも役目です!」


牧人は少しだけ笑った。


「そうだな」


豪志は固まった。


「親分さんに肯定された……!」


ヒナが笑った。


「今日一番の衝撃みたい!」


---


アオイたちが門前を離れたあと、クロはしばらく動かなかった。


牧人は、その隣に座った。


三つの首のうち、中央だけが牧人を見る。


「聞かないのか」


クロが言った。


牧人は畑の方を見ていた。


「聞いてほしいのか」


クロは黙った。


牧人は続けた。


「言いたくなったら言え。言いたくないなら、今はいい」


クロの右が低く言った。


「甘い」


牧人は頷いた。


「そうかもな」


左が、門の方を見たまま言った。


「昔の名は、面倒だ」


牧人はクロを見た。


「今の名前は?」


クロは少しだけ黙った。


「クロでいい」


牧人は頷いた。


「じゃあ、クロだ」


それだけだった。


旧石門の奥で、灰色の光が一度だけ揺れた。


番人の声はしなかった。


ただ、石板に薄い文字が浮かぶ。


仮記録。

門獣、古名不明。

封じ杭、反応。

現名、クロ。

待機中。


誰も、その文字を読んではいなかった。


けれど、クロは少しだけ目を閉じた。


牧人は、その横で立ち上がった。


「飯にするか」


クロの右が言った。


「肉か」


ベロが鍋の前から答えた。


「今日も大根だ」


クロの右が不満そうに唸った。


ヒナが梁の上で笑った。


「やだ、古い名より今日のおかず!」


ミズハが水桶を揺らしながら笑った。


「そのくらいでいいのよ」


イトが梁の上で、短く言った。


「今は、クロ」


牧人は頷いた。


「そうだな」


クロは答えなかった。


けれど、三つの首は、もう旧石門ではなく、鍋の方を向いていた。


ただ、門の奥では、灰色の線が一本、まだ消えずに残っていた。


イトがそれを見上げる。


「奥、まだ聞いてる」


ミズハも水桶の水面を見た。


「水も、まだ静かすぎるわね」


牧人は聞いた。


「何か来るのか」


イトは短く言った。


「外」


「外?」


「今日の話、外に行く」


ザガが低く息を吐いた。


「攻略組が来たからな」


ヒナが梁の上で言った。


「やだ、また外が騒ぐ」


牧人は頭を押さえた。


「静かに飯を食わせてくれ」


旧石門の奥で、石が一度だけ低く鳴った。


ごん。


それは、返事のようにも聞こえた。


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