旧石門の番人が、親父を門主と勘違いした
旧石門が開いた。
受付小屋の基礎を入れただけで。
牧人は、門前から右奥へ続く灰色の線を見ていた。
線はまだ消えていない。
受付小屋の基礎から、石畳を抜けて、右奥へ入り、旧帳場のさらに奥へ続いている。
細く、薄く、けれど妙にしっかりした線だった。
牧人は言った。
「受付小屋だぞ」
ザガが横で腕を組んでいた。
「もう、その言い方は効かねえと思う」
ヒナが梁の上で笑った。
「親父の思惑通りに行ったことないよね」
豪志が勢いよく頷いた。
「親分さんが何かを作るたびに、歴史が動いてます!」
ザガが睨んだ。
「お前は話を大きくするな」
ニコが板を出した。
豪志、静かに
豪志は板を見た。
「板にしないでください!」
ナナが短く言った。
「この板、常時、立てる」
「常時!」
牧人は額を押さえた。
「ちょっと、奥を見てくる」
全員が止まった。
ザガが即座に言った。
「一人で行くな」
ナナも言った。
「駄目」
ベロも鍋の前から言った。
「駄目だ」
ミズハが水桶の横で笑った。
「本当に駄目よ」
牧人は困った顔をした。
「見に行くだけだぞ」
ヒナが梁から降りてきた。
「その『見に行くだけ』が、いちばん危ないんだよ」
クロが立ち上がった。
三つの首が、同時に旧帳場の方を向く。
中央が低く言った。
「行くなら、俺も行く」
右が続けた。
「前に立つ」
左は黙っていた。
ただ、目だけが石門の方を見ていた。
イシコが地面に手を置いた。
「石、動く」
「でも、まだ怒ってない」
まめじいは帳面を抱えた。
「旧帳場の奥でございますからな。帳面は持ってまいりましょう」
牧人はまめじいを見た。
「帳面いるか」
「こういう時ほど要ります」
澄玲も、手帳を閉じなかった。
「私も同行します」
牧人は澄玲を見た。
「澄玲さんも来るのか」
「通行証の初日確認中に、旧石門が開いたんです。ここで帰ったら、私の記録が一番おかしくなります」
ヒナが梁の上で笑った。
「やだ、澄玲さんも巻き込まれ慣れてきた!」
澄玲は否定しなかった。
「慣れたくはありません」
ニコも板を抱えた。
「板も」
「板もいるのか」
ニコは頷いた。
「門、読むかも」
牧人は意味が分からない顔をした。
「門が板を読むのか」
イトが梁から降りてきた。
「古いの、読む」
「たぶん」
ヒナが笑った。
「やだ、ニコの板が古代対応!」
豪志が手を上げた。
「俺も行きます!」
全員が見た。
ナナが即答した。
「留守番」
「早い!」
ザガも言った。
「受付小屋の前にいろ。でも、受付はするな。叫ぶな」
豪志は胸を押さえた。
「任務が全部禁止形!」
ザガが言った。
「静かにする役目だ」
「はい!」
その返事が、もう静かではなかった。
牧人は呟いた。
「ちょっと見に行くだけなのに、大ごとになった」
---
旧帳場の奥は、いつもより冷えていた。
右奥の寝床から少し離れた場所に、古い石の通路がある。
今までは、ただの壁にしか見えなかった。
けれど今は、壁の中央に隙間が開いていた。
縦に細い、門の隙間。
そこから灰色の光が漏れている。
澄玲は手帳を持って、少し後ろに立っていた。
「本当に開いていますね」
「開いてるな」
牧人は頷いた。
「閉められないのか」
イシコが石に触れた。
「閉まる」
「でも、今は見る」
クロが一歩前に出た。
「俺が見る」
ザガも横に立つ。
「俺も行く」
牧人は二人を見た。
「そんなに大げさにしなくても」
ヒナがすぐに言った。
「大げさにするところだよ!」
まめじいは帳面を開いた。
「旧石門、開放後確認。同行、親父殿、クロ殿、ザガ殿、ヒナ殿、イト殿、イシコ殿、ニコ殿、澄玲殿。記録、まめじい」
牧人は言った。
「記録が早い」
まめじいは胸を張った。
「帳面三銃士でございますので」
ヒナが笑った。
「やだ、認めた!」
澄玲は黙っていた。
国枝はいなかった。
物資帳の初日処理に追われている。
ローもいない。
昨日から、広報素材の整理に回されている。
だから、ここには配信者がいなかった。
牧人は少し安心した。
「今日は静かだな」
梁の上からイトが言った。
「豪志、外」
「そうだった」
その時、受付小屋の方から豪志の声が響いた。
「静かにしています!」
ザガが低く言った。
「できてねえ」
ヒナが笑った。
「やだ、遠くからでも存在感!」
---
石門の隙間が、少し広がった。
ごり、と石が動く。
内側には、狭い空間があった。
部屋というより、門の裏だった。
左右の壁には、古い文字が刻まれている。
床には灰色の線が走り、中央に低い石台がある。
その奥に、ひとつの影が立っていた。
人の形をしている。
けれど、人ではなかった。
顔には石の仮面。
仮面には、目も口もない。
身体は細く、古い門柱を人の形に削ったようだった。
手には、鍵のような長い石杖を持っている。
澄玲が息を呑んだ。
「番人……?」
まめじいの筆が止まった。
クロの右が牙を鳴らす。
ザガが腰を落とす。
ヒナの翼が少し広がる。
イトの糸が、天井へ薄く伸びた。
牧人は、少し困った顔で番人を見た。
「あの、すいません」
全員が牧人を見た。
ヒナが小声で言った。
「話しかけた」
牧人は続けた。
「ここ、通れますか」
番人は動かなかった。
石の仮面が、ゆっくり牧人へ向く。
その次に、クロを見た。
三つ首の黒犬。
次に、イシコを見た。
石脈を動かした者。
次に、まめじいを見た。
帳面を持つ者。
次に、ニコを見た。
板を持つ者。
ニコは胸の前で板を掲げていた。
奥、勝手に荒らすな
番人の仮面が、その板を見た。
長い沈黙。
ヒナが小声で言った。
「読んでる?」
イトが短く答えた。
「読んでる」
牧人は不安になった。
「読めるのか、あれ」
まめじいが静かに言った。
「門札に見えているのかもしれませぬ」
牧人はますます困った。
「ただの注意板だぞ」
番人の石杖が、床を打った。
こつん。
音は小さかった。
だが、旧帳場の奥全体が震えた。
番人は、牧人の前にゆっくり膝をついた。
石の身体が、音もなく折れる。
そして、低い声が響いた。
「門主、帰還」
場が止まった。
牧人も止まった。
ザガが目を細めた。
ヒナが口を押さえた。
澄玲の手帳が止まった。
まめじいの筆だけが、少し震えた。
牧人は番人を見下ろした。
「いや、違う」
番人は動かない。
牧人は両手を軽く上げた。
「俺は、通れるか聞いただけだ」
番人は、さらに頭を垂れた。
「門主、問う」
「門、応ず」
ヒナが、もう耐えられなかった。
「やだ、親父。今度は門主だって」
牧人は振り返った。
「笑うな」
「無理だよ!」
ザガが低く言った。
「また増えたな」
「増えてない」
「親父、家主、保護者、今度は門主だ」
「どれも名乗ってない」
ニコが板を出しかけた。
門主
牧人が即座に言った。
「出すな」
ニコは少し考えて、板を裏返した。
門の親父
「やめろ」
ヒナが梁の端で崩れた。
「やだ、肩書きが雑!」
澄玲は深く息を吸った。
「確認します」
「番人は、守谷牧人さんを門主と認識している、ということでよろしいですか」
牧人は言った。
「よろしくない」
番人は言った。
「門主、否む」
「仮否認、記録」
澄玲の手が止まった。
「仮否認……?」
まめじいが少し感心したように頷いた。
「古い帳場言葉ですな」
牧人は頭を抱えた。
「否認まで記録するな」
---
番人は、牧人の周囲をゆっくり見た。
クロ。イシコ。まめじい。ニコの板。
そして、牧人。
番人は石杖を立てた。
「門獣、在り」
「石脈持ち、在り」
「帳持ち、在り」
「門札、在り」
「門主、問う」
牧人は一つずつ指を折った。
「クロがいる」
「イシコが石を動かした」
「まめじいが帳面を持ってる」
「ニコが板を持ってる」
「俺が聞いた」
少し黙る。
「それで門主なのか」
番人は答えた。
「条件、揃う」
牧人はクロを見た。
「お前のせいもあるのか」
クロの中央が低く言った。
「俺は、いるだけだ」
ヒナが笑った。
「やだ、いるだけで条件!」
イシコは地面に手を置いたまま言った。
「石、呼んだ」
「でも、門主、知らない」
番人はイシコを見た。
「石脈持ち、証す」
イシコは首をかしげた。
「証す?」
イトが短く言った。
「証された」
まめじいは帳面を抱えた。
「わたくしの帳面も、条件に含まれたようでございますな」
牧人はまめじいを見た。
「何で嬉しそうなんだ」
「古い制度に帳面が通じるのは、喜ばしいことでございます」
ニコは板を見た。
奥、勝手に荒らすな
番人はその板を、また見ている。
ニコは少し考えた。
通れる?
牧人が慌てた。
「勝手に聞くな」
番人は答えた。
「門主の問い、通す」
牧人は言った。
「俺の問いじゃない」
ニコは板を裏返した。
親父、困ってる
番人はしばらく板を見た。
「門主、困惑」
ヒナが腹を抱えた。
「やだ、ニコの板が番人に通じてる!」
澄玲は手帳に書こうとして、やめた。
書いたら負ける気がした。
---
牧人は番人の前にしゃがんだ。
「ええと」
番人も、膝をついたまま動かない。
「俺は門主じゃない」
「ここは、うちの奥に急に開いた場所だ」
「怪我してるやつとか、寝てるやつとかもいる」
「勝手に通られると困る」
「でも、必要なら通れると助かる」
番人の仮面が、静かに牧人を向いている。
牧人は続けた。
「だから、危ないなら閉めてくれ」
「通っていいなら、教えてくれ」
「あと、こっちにいるやつが迷い込まないようにしてくれ」
ヒナが笑いをこらえた。
「親父。門にも保護宣言してる」
牧人は振り返った。
「してない」
番人は石杖を床へ当てた。
こつん。
灰色の線が、床から壁へ走った。
壁の文字が、薄く光る。
番人は言った。
「門主、制を置く」
「無断通行、禁」
「無断連行、禁」
「奥行、禁ず」
牧人は固まった。
「置いてない」
番人はさらに言った。
「制、受理」
「受理するな」
ヒナがもう笑いをこらえられなかった。
「やだ、お願いが門の法律になった!」
ザガが頭を抱えた。
「親分、相手が古い門でも同じことになるのか」
「俺は普通に話してるだけだ」
まめじいは帳面に書いた。
門番、親父殿の発言を制として受理。
牧人はそれを見た。
「まめじいも書くな」
「重要でございます」
---
その時、旧石門の奥で、もう一つ音がした。
ごん。
さっきより奥から。
重く、遠い音。
番人が立ち上がった。
石杖を両手で持ち、門の奥へ向ける。
灰色の光が、細い道を作った。
通路の奥に、さらに小さな門が見えた。
今すぐ大きく開くわけではない。
けれど、隙間ができている。
封環層の奥が、ほんの少しだけ、こちらを向いたようだった。
イトが糸を伸ばす。
すぐに引いた。
「奥、深い」
「まだ、起きかけ」
番人は牧人へ向き直った。
「門主の帰還により、内門、一寸開く」
まめじいが小声で補足した。
「ほんの少し開いた、という意味でございますな」
牧人は頷いた。
「分かりにくいな」
番人は構わず続けた。
「仮帰還、記録」
牧人は即座に言った。
「帰還してない」
「仮帰還、記録」
「何でも仮にするな」
ヒナが梁の上で笑い崩れた。
「やだ、仮なら何でも通ると思ってる!」
澄玲はついに手帳へ書いた。
今度は、書かない方が負ける気がした。
旧石門番人、守谷牧人を門主と誤認。
ただし本人は否認。
番人側は仮帰還として処理。
書いてから、澄玲は小さく目を閉じた。
「何を書いているんでしょう、私は」
ザガが言った。
「現実だ」
「現実が変です」
「それは、そうだ」
---
牧人は番人を見た。
「とにかく、今は奥に人を入れない」
「危ないかもしれないからな」
「見るだけだ」
「こっちの寝床や子どもに何かするな」
「それだけ守ってくれ」
番人は石杖を立てた。
「門主、奥行、禁ず」
「寝床、保全」
「幼き者、保全」
「弱き者、保全」
牧人はもう否定しなかった。
否定すると、また記録される気がした。
ヒナがにやにやしている。
「親父、諦めた?」
「諦めてない。疲れただけだ」
ニコが板を出した。
門、今日は見るだけ
番人はそれを見た。
「門札、受理」
牧人はニコを見た。
「板が強くなってないか」
ニコは少し誇らしげだった。
「板、読まれる」
ザガが低く言った。
「まずいな」
「何が」
「ニコの板が、門に効く」
ヒナが笑った。
「確かに、受付小屋より危ない!」
イシコは地面に触れたまま言った。
「石、落ち着いた」
「でも、奥、少し開いたまま」
クロの左が、初めて低く言った。
「見張る」
中央が続ける。
「俺も」
右が牙を鳴らした。
「近づく奴は止める」
番人はクロを見た。
「門獣、番につく」
牧人は言った。
「また変な役が増えた」
クロは答えなかった。
少しだけ満足そうだった。
---
しばらくして、牧人たちは旧石門の前から戻った。
番人は門の内側に立ったまま、動かなかった。
ただ、牧人が背を向ける時、石杖を床に当てた。
こつん。
「門主、また来よ」
牧人は振り返った。
「用があればな」
番人は深く頭を下げた。
「門主、再訪を許す」
牧人は頭を抱えた。
「なんか許されたぞ」
ヒナが腹を抱えた。
「やだ、家の奥なのに招待制!」
澄玲は手帳を閉じた。
「本日の確認はここまでにしましょう。これ以上進むと、記録の分類が追いつきません」
まめじいは満足げに帳面を閉じた。
「しかし、得るものは多うございましたな」
「何がだ」
「旧石門に番人がおり、奥が一寸だけ開いた。それだけで十分でございます」
牧人はしばらく黙った。
「受付小屋を作っただけだぞ」
ザガが言った。
「まだ言うか」
ヒナが梁に戻りながら言った。
「でも、たぶん本当にそう思ってるんだよ」
---
門前に戻ると、豪志が受付小屋の前で直立していた。
静かだった。
本当に静かだった。
ザガが少し驚いた顔をした。
「お前、黙ってたのか」
豪志は小声で言った。
「はい」
「なぜ小声だ」
「受付前で静かにする役目なので」
ニコの板が、豪志の横に立っていた。
豪志、受付前で静かにする
牧人は少しだけ笑った。
「ちゃんとやってたのか」
豪志の顔がぱっと明るくなった。
「はい!」
声が響いた。
受付小屋の中で反響した。
はい。
い。
小型種がまた固まった。
ナナが短く言った。
「戻った」
ヒナが梁の上で笑い崩れた。
「やだ、静かな豪志が三秒で終わった!」
ザガが額を押さえた。
「まあ、三秒もっただけ進歩か」
豪志は胸を張った。
「成長です!」
ニコが板を出した。
豪志、三秒静か
豪志は板を見た。
「それ、記録に残すほどですか!?」
まめじいが帳面を開いた。
「本家台帳にも記しておきましょう」
「まめじいさんまで!」
牧人は受付小屋と、奥の旧石門へ続く灰色の線を見た。
門前には、通行証。
受付小屋。
台帳。
物資帳。
板。
奥には、旧石門。
番人。
仮の門主扱い。
全部、昨日まではなかった。
牧人は深く息を吐いた。
「明日こそ、畑だけやる」
全員が、少しだけ黙った。
ヒナが言った。
「親父、それ言うと危ないよ」
ザガも言った。
「畑が何か開くぞ」
牧人は空を見た。
「畑は開かないだろ」
旧帳場の奥で、石が一度だけ、低く鳴った。
ごん。
牧人は、黙った。
ヒナが梁の上で笑った。
「やだ、門が待ってる!」
牧人は頭を抱えた。
その奥で、旧石門の番人は、静かに立っていた。
石の仮面の奥に表情はない。
ただ、門の隙間から、灰色の光が細く漏れている。
封環層の奥は、ほんの少しだけ開いたまま、次の言葉を待っていた。




