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親父を狙ったら、本家の全員が静かになった


雨が、細くなっていた。


朝の列は、いつも通り三本できていた。


飯の列。

足の列。

座る者の列。


ニコは板を出し終え、ベロは鍋を覗き、ヒナは雨よけの端で羽繕いをしていた。


ぷるは灰粉の受け口を掃除している。

ネムは右奥の寝床を見ている。

ナナは戸の前に立っている。

イシコは壁際にいる。

ミズハは水桶のそばで、灰が広がらないように水を控えていた。


牧人は畑の方を見ていた。


「今日、畝を一本足すか」


とザガが言った。


「足したほうがいいな。人が増えてる」


「米だけじゃ、足りねえからな」


それだけの朝だった。


---


男が来たのは、二本目の列が終わる頃だった。


避難者の列に混じっていたわけではない。


座る者の列の、いちばん端に、ひとりで立っていた。


痩せた身体に、灰色の外套。

手には何も持っていない。


ように見えた。


イトが、梁の上で動きを止めた。


糸は垂らさなかった。


ただ、八本の脚のうち、二本だけが、男の方を向いた。


「紙」


イトは小さく言った。


「服」

「中」


まめじいが顔を上げた。


クロが、伏せたまま、三つの目だけを開けた。


ベロは鍋から目を離さなかった。


ただ、お玉を持つ手が、少しだけ握り直された。


ミズハが、水桶に指を触れた。


水面が、揺れずに止まる。


「……嫌な感じね」


その声は柔らかかった。


柔らかい分だけ、怖かった。


---


男は、列から外れた。


そのまま、まっすぐ、畑の方へ歩いていった。


止める者はいなかった。


止める必要が、まだなかった。


本家の門前は、誰でも通れる。

畑も、ただの畑だ。


牧人は屈んで、土を見ていた。


男が、外套の内側に手を入れた。


筒のようなものが、覗いた。


そこで、ぷるが、男の足元にいた。


いつから、ではなかった。


気づいたときには、もう男の影に重なっていた。


男が筒を握り直した瞬間、筒穴が透明な何かで塞がれていた。


男は、それでも引き金を引いた。


音は、鳴らなかった。


次の瞬間、雨よけの下が爆ぜた。


「親分!」


ザガが飛んだ。


槍の穂先ではない。

石突きが、男の膝を払う。


男の体が崩れるより早く、イトの糸が腕に巻きついた。


「手」


短い声と同時に、男の手首が宙で止まる。


ヒナが梁から落ちるように飛び、雨よけの外へ回った。


「後ろ見る! まだいるかも!」


イシコの石壁が、道の端に低くせり上がる。


「逃がさない」


ナナは動かなかった。


動かないまま、戸の前に立ち、右奥への道を塞いだ。


「右奥、下がって」


ネムは子どもたちの前に出た。


「伏せる」

「目、閉じる」


ミズハの水が、男の落とした筒を包んだ。


「毒かもしれない。触らないで」


ぷるは筒穴を塞いだまま、筒から離れない。


ぷるん。


ベロが鍋の蓋を片手で押さえた。


「鍋に近づけるな! 毒なら全部捨てるぞ!」


豪志が柱の陰で叫んだ。


「えっ!本物のカチコミ!俺は何をすれば!」


「黙れ!」


ザガとベロとナナが同時に言った。


「はい!」


そして、クロが立った。


右の首が、男の頭へ伸びる。


速かった。


本当に、速かった。


男の顔から血の気が消える。


「若頭!」


ザガが叫ぶ。


牧人も振り返った。


「クロ」


その一言で、牙が止まった。


男の額の、指一本分手前で。


クロの右は、喉の奥で低く鳴っていた。


「親父を狙った」


牧人は男を見た。


それから、クロを見た。


「分かってる」


「なら」


「まだ殺すな」


右の首が動かなかった。


左も中央も、男を見ている。


雨よけの下は、騒ぎの形のまま止まっていた。


ザガは槍を構えたまま。

イトは糸を張ったまま。

ヒナは外を見たまま。

イシコは壁に手を置いたまま。

ナナは右奥を塞いだまま。

ミズハは筒を水で包んだまま。

ネムは子どもたちの前に立ったまま。

ぷるは男の足元に貼りついたまま。

ベロは鍋の蓋を押さえたまま。


誰も、笑わなかった。


牧人は、ようやく男の前に立った。


「何だ、お前」


男は震えながら、答えた。


「……あなたを」


「なんだ」


「あなたを、消しに来た」


牧人は、首の後ろを掻いた。


「悪いな。今日、畝を足すんだ」


それから、男の方を見た。


「で、なんで俺なんだ」


男は答えなかった。


ザガが低く言う。


「答えろ」


クロの右が、牙を鳴らした。


男の喉が動く。


牧人はクロを見た。


「脅すな」


右は答えない。


「クロ」


右の首が、ほんの少しだけ下がった。


牧人は男に向き直った。


「誰に言われた」


男は黙っている。


澄玲が、ミズハの水に包まれた筒を見た。


「これは証拠になります。触らないでください」


ミズハが静かに頷いた。


「水の中に置いておくわ。毒なら広げない」


ザガが男の腕を押さえたまま言った。


「他にも仲間がいるのか」


イトが梁の上から答えた。


「外、見る」

「まだ、探す」


ヒナの声が外から返った。


「道の方、見てくる!」


イシコが石壁を低く出した。


「逃げ道、狭める」


ナナは右奥の前に立ったまま言った。


「子ども、下がった」


ベロは鍋の蓋を押さえていた。


「親分。飯はあとです」


牧人は頷いた。


「ああ」


男が、そこでようやく牧人を見た。


「……殺さないのか」


クロの右が低く唸った。


「今すぐは、だ」


牧人は言った。


「話を聞く」

「そのあと、澄玲さんに渡す」


男は笑おうとして、失敗した。


「優しいつもりか」


牧人は首を横に振った。


「違う」

「お前を潰しても、頼んだやつが残る」


雨よけの下が、少しだけ静かになった。


牧人は続けた。


「命令したやつを止めないと、また来る」


ザガが男の腕を押さえ直した。


「だから、喋れ」


男はしばらく黙っていた。


それから、かすれた声で言った。


「都市防衛局の、強硬派筋だ」


澄玲の手が止まる。


「名前を」


男は言わなかった。


クロの右が、もう一度牙を鳴らしかけた。


牧人が言った。


「クロ」


右は止まった。


男は、ようやく名前を言った。


澄玲は、その名を手帳に書いた。


市属ダンジョン監察局の一次記録として。

そして、危険評価に関わる部分だけが、都市防衛局へ共有される名として。


「ずいぶん素直ですね」


澄玲が男に向かって言った。


「どうせもう終わりだ。それに金に困って雇われただけだ」

「もともと俺はプロじゃねえ、誰も引き受けてくれなかったんだとよ。だから、俺のようなとこに依頼が来た」


男は、笑いながら言った。


ザガが男を見ながら言った。


「こんな三流を雇うくらい、切羽詰まってんのか」


---


男は、椀を持たされた。


困惑したまま、座る者の列の、いちばん端に戻された。


手首は縛られなかった。


ぷるが、男の影に重なったまま、動かなかった。


それで十分だった。


ザガが、牧人の隣に来た。


「親分」


「ん」


「あんた、自分が狙われたって、分かってんのか」


「畝の話してた」


「畝の話じゃねえ」


「いや、畝の話だ」


ザガは、頭を掻いた。


それから、低い声で言った。


「親分がそういうつもりじゃなくても、俺らはもう、そういう場所にいる」


牧人は、ザガを見た。


「悪いな」


「謝るな」


「……ああ」


「謝られると、こっちが困る」


ヒナの翼が、ほんの少しだけ動いた。


ミズハは水桶から手を離した。


「今日は、流して済ませる話じゃないわね」


ザガは短く頷いた。


「そうだな」


---


澄玲は、手帳を開いていた。


彼女も雨よけの端にいた。


泊まり込み調査は、まだ終わっていない。

朝の手動報告を済ませたあと、そのまま門前の様子を記録していた。


ローは、もう撮り終えていた。


三つ。


男の入場。

筒の無効化。

椀を持たされた瞬間。


それ以上は撮らなかった。


「澄玲さん」


「はい」


「これ、どこに出します」


澄玲は少しだけ黙った。


「まず、市属ダンジョン監察局の一次記録に入れます」


「都市防衛局へは?」


「襲撃未遂です。危険評価に関わる部分は、共有されます」


ローは記録石を見下ろした。


「直接、水越さんに投げる話じゃない?」


「水越警備統括官に届くとしても、正式な共有経路を通します」


澄玲は男の方を見た。


「あなたを裁くのは、私ではありません」


男は、椀を見ていた。


「私は、記録します。引き渡し先を、選びます」


椀の中の湯気が、男の顔にかかった。


男の目が、少しだけ揺れた。


---


クロが、立ち上がった。


三つの首が、ゆっくりと、男の方を向いた。


中央が、低く鳴いた。

右が、舌打ちのような音を立てた。

左は、何も言わなかった。


ネムが、クロの背に手を置いた。


「だめ」


クロは動かなかった。


「親父、こわくない、って言った」


クロは答えなかった。


「だから、だめ」


クロは、しばらく動かなかった。


それから、伏せた。


三つの首のうち、左だけが、男の方を見たままだった。


ヒナが、小さく息を吐いた。


「ネム、すごいね」


ネムは首を横に振った。


「親父が、言った」

「だから、だめ」


それだけ言って、ネムは右奥へ戻った。


---


夕方、雨が止んだ。


男は、澄玲の記録立ち会いのもと、都市側の警備担当へ引き渡された。


市属ダンジョン監察局は、身柄を裁かない。

だが、記録は残す。

引き渡し先を選ぶ。


そこだけは、澄玲が譲らなかった。


ローは、記録石をもう一度確認してから、懐にしまった。


豪志がローに言った。


「おいおい、いくら未遂とはいえ、甘くないか?」


ローが顔をしかめた。


「しょうがない。ダンジョン内でのゴタゴタに関しては、外とは扱いが違うからな。お前も気を付けろよ」


「怖いこと言うな」


豪志の足が一歩下がった。


ニコが、板を一枚、新しく出した。


親分、ひとりで畑に行かない


牧人が板を見た。


「畑くらい行くだろ」


ザガが即座に言った。


「今日だけは行くな」


ニコは頷いた。


「今日は駄目」


そう言って、下に書き足した。


今日だけ、たぶん


ヒナが、ようやく少し笑った。


「やだ、明日から不安!」


ベロが鍋を片づけながら言った。


「明日も駄目です」


ナナも短く言った。


「駄目」


イシコも言った。


「駄目」


牧人は少し困った顔をした。


「畑なんだけどな」


ザガは低く返した。


「一人で行動するなよ」


---


夜、牧人は縁側に座っていた。


クロが、隣に来た。


三つの首のうち、左がまだ、門の方を向いていた。


「クロ」


クロは答えない。


「お前、まだ怒ってるのか」


クロは答えない。


「俺は、そんなに大事か」


クロは、やはり答えなかった。


中央の首が、牧人の膝に乗った。

右の首が、反対側の膝に乗った。

左の首は、門の方を向いたままだった。


牧人は、首を撫でた。


「明日、畑を少し広げるか」


クロは、答えなかった。


---


その夜、都市防衛局。


市属ダンジョン監察局から共有された一次記録と、ローの記録石の写しが、水越篤臣の机に置かれていた。


副官が、隣で立っていた。


「水越さん」


「ん」


「これは、襲撃事件として処理しますか」


「いや」


「では」


「これは、答えだ」


「答え?」


水越は、一次記録の最後の行を読んだ。


声には出さなかった。


それから、短く言った。


「芯を叩けば、周りが割れると思ったのだろう」


「はい」


「違う。あれは、固まる」


副官は、しばらく黙っていた。


それから、頭を下げた。


「報告書には、何と」


「備考欄に、一行だけ」


「はい」


「襲撃者側は、守谷牧人を中核として排除すれば本家が瓦解すると判断した模様」


「……それだけ、ですか」


「それだけだ。判断は、上が読めば分かる」


水越は、記録石の写しを箱にしまった。


「それと」


「はい」


「都市防衛局内の強硬派筋を洗え」


副官の表情が変わった。


「内部ですか」


「外部協力者だけで済む話なら、こんな雑な襲撃にはならん」


水越の声は冷たかった。


「馬鹿に、本家を触らせるな」


副官は頭を下げた。


「了解しました」


水越は、もう一度、一次記録を見た。


守谷牧人。


親父。


仮記録。


その三つの文字が、紙の上で妙に重かった。


---


旧帳場の奥、仮記録の石板に、一行が増えていた。


家主、未記入。

呼称、親父。

仮記録。

保護対象、確認。

敵意、確認。

待機中。


石板の前に、誰もいなかった。


ただ、雨よけの下で、本家の全員が、まだ少しだけ、固まっていた。


---


夜更け。


牧人は、畑の端に立っていた。


鍬を持っている。


ザガが見つけて、ため息をついた。


「親分、何してる。一人で行動するな」


「畑を見る」


「こんな時間にか」


「寝られなかった」


ザガは何も言わなかった。


牧人は土を見たまま言った。


「俺を狙ったら、本家が崩れるって思ったんだな」


「そうらしい」


「崩れるか?」


ザガは少し黙った。


それから言った。


「崩れねえ」


「そうか」


「ただ、ひどいことにはなる」


牧人は鍬を握ったまま、少し笑った。


「それは困るな」


「困るで済むと思ってんのが、親分だよ」


ザガは低く言った。


「だから、守る」


牧人はザガを見た。


ザガは目を逸らさなかった。


「親分がそういうつもりじゃなくても、俺らはもう、そういう場所にいる」


牧人は何も言わなかった。


夜の畑の向こうで、灰色の線が薄く光っていた。


奥の帳場が、静かに息をしている。


家主、未記入。

呼称、親父。

仮記録。

保護対象、確認。

敵意、確認。

待機中。


その文字を、牧人は知らない。


知らないまま、鍬を土に立てた。


「明日、畑を少し広げるか」


ザガは頭を抱えた。


「この流れで畑かよ」


「飯がいるだろ」


ザガは、しばらく黙った。


それから、少しだけ笑った。


「いるな」


「だろ」


灰色の線は、静かに光っていた。


本家は崩れなかった。


ただ、もう一段、内側へ固まっていた。


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